脳性麻痺の影響で車椅子生活を送る23歳のユマは、親友のマヤカと2人で漫画を描いて人気を得ていた。ただ、表舞台に出るのはマヤカで漫画を書くのはユマ、マヤカはユマの存在をファンの目から隠していた。
ユマは自分の作品でデビューしようとアダルト漫画雑誌に売り込みに行くが「実体験がないとリアリティが生まれない」と断られてしまう。そこで、新たな経験を求めて行った夜の街で障害者相手に性的サービスを行うマイに出会う。
過保護な母親と二人暮らしのユマが母親の拘束から逃れ自立しようともがく姿を描いた感動作。
監督のHIKARIはロサンゼルスを拠点に活動する映像作家で、この作品が長編デビュー作。主演の佳山明は自身も小児麻痺を抱えるがオーディションで主演に抜擢された。
障害者が社会から疎外されるわけ
まず物語を動かすのは主人公ユマのもやもや。実質的にユマが一人で描いている漫画でマヤカが人気者となるが、 マヤカは自分ひとりで漫画を描いていると表明しているのでユマの存在が明らかになっては困ると考えている。 ユマもこの成功を維持するためには自分が表に出ないほうがいいと考えてはいるが「本当は漫画を描いているのは自分だ」というもやもやもある。
そこで自分だけの作品でデビューしようと考えてたどり着いたのがアダルト漫画雑誌だった。しかしそこでは漫画は褒められるが性の実体験がないためにリアリティが欠けていると断られ、さらにもやもやしていく。
ユマはセックスや異性との付き合いの機会を得ようと、出会い系サイトに登録し、男性と会うがそこでも自分が相手にされない現実を突きつけられる。さらには女性用風俗にまで行くがそこでも失敗。その時、ついにマイに出会う。
ここまででこの映画の大体の骨子は示される。それは、現実社会から疎外されているユマがどうやって社会の一員になるのかということだ。
その疎外の原因は、主に健常者たちの怖れ/畏れにある。それが特に顕著なのは、ユマが出会う男性たちの態度だ。彼らはユマを腫れ物に触るかのように扱う。障害者だからといって蔑んでいるというよりは、どうコミュニケーションを取ればいいのかわからないのだ。
それは、障害者という他者に対する怖れであると同時に、神々しいものに対する畏れも少し入っていると感じる。そこには、障害者に対してどこかで無垢なもの未発達なものというイメージがあるのだろう。
それが顕著に表れるのが、もう一つの大きな要素である母親の存在だ。ユマは母と二人暮らしで、母は送り迎えから食事から着替えから、お風呂に入れることまで甲斐甲斐しく世話をする。ユマはそれを煩わしく思っていて、仕事場に行くと嘘を言って男性と会ったり夜の街に行ったりしている。
そして、母はユマが持つ「性的なもの」を発見して激昂する。母にとってユマはいつまでも子供であり、そんな性的なものに触れるなど言語道断、ユマの神性を汚すものにほかならないのだ。
つまり、ユマは23年間ずっとそのような価値観、障害者は無垢であるべきだし、表舞台に立つべきではないという考えにさらされて生きてきて、本人もそれを受け入れていたのだ。それに対してもやもやが生まれたことでこの物語が始まったのだ。
そんなときに出会ったマイによってユマの人生は大きく変わる。マイは障害者に対してそのような偏見は持たず、ユマが遅れてきた思春期を迎えたことを歓迎し、伴走する。マイの存在は母親の反発と威圧を押し返し、ユマが一人で立つ過程の大きな後押しになる。母が直面するのは思春期の娘を持った苦しみだ。
この先には、ユマが一度も会ったことがない父親の存在の探求や、恋物語、さらに驚きの展開もあり、この映画がドラマとして非常に優れていることがわかるので、ぜひ見てほしいと書いて映画の説明は終わる。
障害者が障害者を演じることこそ必要だ
この映画はフィクションなので、ここに描かれていることをもとに我々の現実がどうかをそのまま考察することはできない。けれどもこの映画を受け止めて自分自身を顧みた時には、現実における障害者の問題を考えるのに非常に役に立つ。
私は何よりも、障害者自身が障害者を演じていることに大きな意味を感じた。というよりも、なぜ今まで障害者の役者がほとんどいなかったのかということに疑問を覚えたし、そこに今の社会が抱える問題が表れているのではないかと思ったのだ。
もちろん優れた役者は健常者でも障害者を演じることができるだろう。古くは『座頭市』の勝新太郎や『名もなく貧しく美しく』の高峰秀子もそうだし、近年では『潜水服は蝶の夢を見る』のマチュー・アマルリックなども見事な演技をしていた。
しかし、この映画を見ると、障害者自身が演じることのリアリティの凄さを感じる。もっと障害者が役者として活躍してもいいじゃないかと。
主演の佳山明が素晴らしいのは、きちんとユマという役を演じていることだ。自分ではない誰かを演じることの困難は障害者でも健常者でも変わらないはずだが、彼女はそれを見事にやってのけている。
障害者だし、障害の程度を演者に合わせているから演じやすいという見方もできるだろう。しかし、私はむしろ自分に近い役のほうが演じるのは難しいのではないかと思う。
健常者が障害者を演じる場合、脳性麻痺なら脳性麻痺という自分からかけ離れたキャラクターを作り上げそれを演じればいいのだから、自分を切り離して演じることができる。しかし、自分に近い役を演じる場合、役の中に自分自身の要素が入り込んでしまって自分を切り離せなくなり演じるのが難しくなるのではないか。
外見の違いが心の距離を生む
その意味で、この佳山明はすごい役者なのだと思う。そしてそのことで、私の心のどこかに障害者はプロフェッショナルな役者にはなれないという思い込みがあったことにも気づいた。
これは由々しき事態だ。私の中に「障害者だからできない」という思い込みがあったのだ。「心のバリアフリー」という言葉が長く使われ、私はそれが大事だと思っていたけれど、結局バリアフリーにはなれていなかったのだ。
この映画で私が感じたのは、障害者も健常者も同じだと言うことではない。同じ部分もあるが、違う部分もあるということだ。障害者が障害者を演じることでリアリティが生まれるのだ。
つまり、差異はあるし、それは認めるべきなのだ。そして差異は健常者と障害者の間だけでなく、健常者と健常者の間にもある。その違いは差異の大きさであり、言い換えるなら心の距離だ。人は心の距離が遠い人とコミュニケーションをとることを怖れる。外国の人や年の離れた人や異なる価値観を持つ人たちがその例だ。私と障害者の心の距離もかなり遠かった。だから理解することができなかったのだ。
その距離は身近に障害者がいれば縮まるのかもしれない。この映画で言えばマイは障害者との心の距離がほとんどない。それはなぜか。マイにとって大事なのは物理的(肉体的)な差異ではなく、同じ心を持っていることだからだ。重要なのは健常者か障害者かではなく、「どんな人なのか」(どんな価値観なのか、理解し合えるのか、何かを共有できるかなどなど)なのだ。
これはすごく重要なメッセージだ。人は(私も)どうしても外見の違いに引きずられて、外見が異なれば価値観や考え方も違うと思ってしまう。でもそれは思い込みだ。環境の影響で多少の傾向はあるだろうけれど、個人に目を向ければ、外見に関わらず人はそれぞれだ。
書いてしまうと当たり前のことなのだけれど、そんな当たり前のことを私達は簡単に忘れてしまう。だから私達は普段から多様な価値観に触れていないといけない。こんな映画を見たり、実際にいろいろな人と会ったりしながら。
『37セカンズ 』
2019年/日本・アメリカ/119分
監督・脚本:HIKARI
撮影:江崎朋生、スティーブン・ブラハット
音楽:アスカ・マツミヤ
出演:佳山明、神野三鈴、大東駿介、渡辺真起子
https://socine.info/2019/11/05/37seconds/https://i1.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2019/11/37seconds_main.jpg?fit=1024%2C668&ssl=1https://i1.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2019/11/37seconds_main.jpg?resize=150%2C150&ssl=1ishimuraFeaturedMovie東京国際映画祭,障害者(C)37Seconds filmpartners
脳性麻痺の影響で車椅子生活を送る23歳のユマは、親友のマヤカと2人で漫画を描いて人気を得ていた。ただ、表舞台に出るのはマヤカで漫画を書くのはユマ、マヤカはユマの存在をファンの目から隠していた。
ユマは自分の作品でデビューしようとアダルト漫画雑誌に売り込みに行くが「実体験がないとリアリティが生まれない」と断られてしまう。そこで、新たな経験を求めて行った夜の街で障害者相手に性的サービスを行うマイに出会う。
過保護な母親と二人暮らしのユマが母親の拘束から逃れ自立しようともがく姿を描いた感動作。
監督のHIKARIはロサンゼルスを拠点に活動する映像作家で、この作品が長編デビュー作。主演の佳山明は自身も小児麻痺を抱えるがオーディションで主演に抜擢された。
障害者が社会から疎外されるわけ
まず物語を動かすのは主人公ユマのもやもや。実質的にユマが一人で描いている漫画でマヤカが人気者となるが、 マヤカは自分ひとりで漫画を描いていると表明しているのでユマの存在が明らかになっては困ると考えている。 ユマもこの成功を維持するためには自分が表に出ないほうがいいと考えてはいるが「本当は漫画を描いているのは自分だ」というもやもやもある。
そこで自分だけの作品でデビューしようと考えてたどり着いたのがアダルト漫画雑誌だった。しかしそこでは漫画は褒められるが性の実体験がないためにリアリティが欠けていると断られ、さらにもやもやしていく。
ユマはセックスや異性との付き合いの機会を得ようと、出会い系サイトに登録し、男性と会うがそこでも自分が相手にされない現実を突きつけられる。さらには女性用風俗にまで行くがそこでも失敗。その時、ついにマイに出会う。
(C)37Seconds filmpartners
ここまででこの映画の大体の骨子は示される。それは、現実社会から疎外されているユマがどうやって社会の一員になるのかということだ。
その疎外の原因は、主に健常者たちの怖れ/畏れにある。それが特に顕著なのは、ユマが出会う男性たちの態度だ。彼らはユマを腫れ物に触るかのように扱う。障害者だからといって蔑んでいるというよりは、どうコミュニケーションを取ればいいのかわからないのだ。
それは、障害者という他者に対する怖れであると同時に、神々しいものに対する畏れも少し入っていると感じる。そこには、障害者に対してどこかで無垢なもの未発達なものというイメージがあるのだろう。
それが顕著に表れるのが、もう一つの大きな要素である母親の存在だ。ユマは母と二人暮らしで、母は送り迎えから食事から着替えから、お風呂に入れることまで甲斐甲斐しく世話をする。ユマはそれを煩わしく思っていて、仕事場に行くと嘘を言って男性と会ったり夜の街に行ったりしている。
そして、母はユマが持つ「性的なもの」を発見して激昂する。母にとってユマはいつまでも子供であり、そんな性的なものに触れるなど言語道断、ユマの神性を汚すものにほかならないのだ。
(C)37Seconds filmpartners
つまり、ユマは23年間ずっとそのような価値観、障害者は無垢であるべきだし、表舞台に立つべきではないという考えにさらされて生きてきて、本人もそれを受け入れていたのだ。それに対してもやもやが生まれたことでこの物語が始まったのだ。
そんなときに出会ったマイによってユマの人生は大きく変わる。マイは障害者に対してそのような偏見は持たず、ユマが遅れてきた思春期を迎えたことを歓迎し、伴走する。マイの存在は母親の反発と威圧を押し返し、ユマが一人で立つ過程の大きな後押しになる。母が直面するのは思春期の娘を持った苦しみだ。
この先には、ユマが一度も会ったことがない父親の存在の探求や、恋物語、さらに驚きの展開もあり、この映画がドラマとして非常に優れていることがわかるので、ぜひ見てほしいと書いて映画の説明は終わる。
障害者が障害者を演じることこそ必要だ
この映画はフィクションなので、ここに描かれていることをもとに我々の現実がどうかをそのまま考察することはできない。けれどもこの映画を受け止めて自分自身を顧みた時には、現実における障害者の問題を考えるのに非常に役に立つ。
私は何よりも、障害者自身が障害者を演じていることに大きな意味を感じた。というよりも、なぜ今まで障害者の役者がほとんどいなかったのかということに疑問を覚えたし、そこに今の社会が抱える問題が表れているのではないかと思ったのだ。
もちろん優れた役者は健常者でも障害者を演じることができるだろう。古くは『座頭市』の勝新太郎や『名もなく貧しく美しく』の高峰秀子もそうだし、近年では『潜水服は蝶の夢を見る』のマチュー・アマルリックなども見事な演技をしていた。
しかし、この映画を見ると、障害者自身が演じることのリアリティの凄さを感じる。もっと障害者が役者として活躍してもいいじゃないかと。
主演の佳山明が素晴らしいのは、きちんとユマという役を演じていることだ。自分ではない誰かを演じることの困難は障害者でも健常者でも変わらないはずだが、彼女はそれを見事にやってのけている。
(C)37Seconds filmpartners
障害者だし、障害の程度を演者に合わせているから演じやすいという見方もできるだろう。しかし、私はむしろ自分に近い役のほうが演じるのは難しいのではないかと思う。
健常者が障害者を演じる場合、脳性麻痺なら脳性麻痺という自分からかけ離れたキャラクターを作り上げそれを演じればいいのだから、自分を切り離して演じることができる。しかし、自分に近い役を演じる場合、役の中に自分自身の要素が入り込んでしまって自分を切り離せなくなり演じるのが難しくなるのではないか。
外見の違いが心の距離を生む
その意味で、この佳山明はすごい役者なのだと思う。そしてそのことで、私の心のどこかに障害者はプロフェッショナルな役者にはなれないという思い込みがあったことにも気づいた。
これは由々しき事態だ。私の中に「障害者だからできない」という思い込みがあったのだ。「心のバリアフリー」という言葉が長く使われ、私はそれが大事だと思っていたけれど、結局バリアフリーにはなれていなかったのだ。
この映画で私が感じたのは、障害者も健常者も同じだと言うことではない。同じ部分もあるが、違う部分もあるということだ。障害者が障害者を演じることでリアリティが生まれるのだ。
つまり、差異はあるし、それは認めるべきなのだ。そして差異は健常者と障害者の間だけでなく、健常者と健常者の間にもある。その違いは差異の大きさであり、言い換えるなら心の距離だ。人は心の距離が遠い人とコミュニケーションをとることを怖れる。外国の人や年の離れた人や異なる価値観を持つ人たちがその例だ。私と障害者の心の距離もかなり遠かった。だから理解することができなかったのだ。
(C)37Seconds filmpartners
その距離は身近に障害者がいれば縮まるのかもしれない。この映画で言えばマイは障害者との心の距離がほとんどない。それはなぜか。マイにとって大事なのは物理的(肉体的)な差異ではなく、同じ心を持っていることだからだ。重要なのは健常者か障害者かではなく、「どんな人なのか」(どんな価値観なのか、理解し合えるのか、何かを共有できるかなどなど)なのだ。
これはすごく重要なメッセージだ。人は(私も)どうしても外見の違いに引きずられて、外見が異なれば価値観や考え方も違うと思ってしまう。でもそれは思い込みだ。環境の影響で多少の傾向はあるだろうけれど、個人に目を向ければ、外見に関わらず人はそれぞれだ。
書いてしまうと当たり前のことなのだけれど、そんな当たり前のことを私達は簡単に忘れてしまう。だから私達は普段から多様な価値観に触れていないといけない。こんな映画を見たり、実際にいろいろな人と会ったりしながら。
『37セカンズ 』2019年/日本・アメリカ/119分監督・脚本:HIKARI撮影:江崎朋生、スティーブン・ブラハット音楽:アスカ・マツミヤ出演:佳山明、神野三鈴、大東駿介、渡辺真起子
Kenji
Ishimuraishimura@cinema-today.netAdministratorライター/映画観察者。
2000年から「ヒビコレエイガ」主宰、ライターとしてgreenz.jpなどに執筆中。まとめサイト→https://note.mu/ishimurakenji
映画、アート、書籍などのレビュー記事、インタビュー記事、レポート記事が得意。ソーシネ
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