1964年の夏、白人2人と黒人1人の3人の青年が、パトカーとトラックに分乗した人々に殺される。彼らは公民権運動家で、行方不明となった彼らの捜索のため、ミシシッピーの小さな町にFBIの捜査官が派遣される。

若きエリート捜査官のアラン・ウォード(ウィレム・デフォー)は差別主義者であふれるこの町でこそ事件を解決しなければならないと100人規模の応援を要請する。南部出身で叩き上げの相棒ルパート・アンダーソン(ジーン・ハックマン)はそれでは地元の人達の反発を買うだけだと、関係者の周辺を探る。

実際に1964年にミシシッピー州で3人の公民権運動家が殺害された事件をモデルにしたドラマだが、史実とは異なる部分も多く、基本的にはフィクションと考えたほうが良い。

80年代には問題提起になった映画だが、30年以上がたった現在、BlackLivesMatter視点で見ると、違ったみえたかがしてくる。果たしてこの映画が現代の私達に投げかけてくるメッセージとはなんだろうか。

恐怖と憎悪が引き起こすヘイトクライム

この映画の内容を一言で言うと、KKKが黒人を殺しまくる映画だ。実際にはそんなにたくさん死人が出ているわけではないが、黒人の家に火をつけ、殴る蹴るの暴行を働き、時には吊るし、蹂躙し続ける。

物語の中心にあるのは、3人の公民権運動家を殺した犯人を探すFBIの動きだけれど、それよりもこの状況に意識を持っていかれる。

なぜ彼らはそんなことをするのか。差別してきた歴史があり、下等な人間として扱うだけならまだわかる。なぜそんな黒人たちをさらに陵辱する必要があるのか。

映画の中でも、「どこからそんな憎しみが生まれるのか」というような台詞があり、それに対する答えは恐怖だといされる。実際に、KKKの一人をジーン・ハックマンが黒人の居住区に置き去りにするシーンが有り、そこでその男は恐怖に顔をひきつらせ足早にそこを去っていく。彼らは確かに恐怖を感じているのだ。

では、恐怖が放火や殺人へとつながる理屈は何かと考えると、自分たちの立場が脅かされる恐怖なのではないか。公民権法が制定され、白人と黒人は(建前上)平等とされたことで、KKKの面々はこのまま黒人たちを支配し続けることができるか不安になる。このままでは立場が逆転して自分たちが虐げられるようになるのではないかと恐怖に駆られる。だから、自分たちにはその力があるし、黒人を殴ったり殺しても裁かれることもないのだということを示し続けなければならないのだ。

同時に恐怖は憎しみともなり、力を示すこと自体が憎しみを解放する快感にもなるのだ。だから彼らの行動はエスカレートするし、そんな彼らを止めるものも地元にはいない。実際、放火で捕まった男たちは裁判所によって微罪にされ釈放される。その論理は放火される側にも非があったという無茶苦茶なもので、彼らの憎しみにはお墨付きが与えられるのだ。

後味の悪さが示す本当の意図とは

そのような大きな力を相手にどうすれば戦えるのか、エリート捜査官のウォードはあくまで正攻法で行くが、なかなか成果が上がらない、叩き上げのアンダーソンは、犯人の一人らしい保安官補の妻が鍵を握っていると見て接近する。

ウォードの正攻法はうまく行かず、最終的にはアンダーソンの脅し、騙し、はったりを認めることで事件捜査は進展していく。

刑事ドラマの展開としては王道だが、これがもやもやするのは、FBIも結局、恐怖を利用しているからだろう。理想的な結末は恐怖と憎しみを拭い去ることなのだが、FBIにはそれはできず、事件は解決してもこの町は何も変わらないだろうという思いを抱かざるを得ない。

さらには、捕まった犯人たちも結局たいした罪にはなっておらず、犯した罪と罰のバランスが取れているとはとても思えない。

なので、非常に後味の悪い映画なのだが、この後味の悪さこそがこの映画が単なる刑事ドラマではないことを示しているのではないか。FBIは決してヒーローではない。この地のKKKに多少のダメージは与えたが、多くの人たちの考えを揺るがすことはできなかったのだから。

そんな結末にした理由を考えてみると、これが結局の所白人の物語でしかないからなのではないか。殺されたのも(3人のうち2人が)白人で、捜査官も白人で、犯人たちも白人で、黒人たちは全く主体的な存在ではない。だからこの事件捜査はこの地の黒人社会にさほど大きな影響は残さないのではないか。

ただ、映画の最後は、教会の焼け跡で白人と黒人の混ざった集団が賛美歌を歌っているシーンだ。このシーンが意味しているのは、この地にも進歩的な白人はいて、黒人たちもその人達を受け入れて、これから前に進もうとしているということではなかろうか。目の前には墓地が広がり、たくさんの犠牲者が出てきたことも示している。その道は険しいが希望はないわけではない。そして、二人の刑事は遠くからその景色を見ただけで去っていく。彼らは何も変えることはできなかったが、前に進もうとしている人たちが一歩を踏み出すきっかけは作ったのかもしれない。

何かが変わろうとするとき、変化を起こすのはその内部の当事者だが、そのきっかけとなるのは外からの刺激だということは多い。この映画が示しているのは、そんなことなのかもしれない。

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『ミシシッピー・バーニング』
1988年/アメリカ/126分
監督:アラン・パーカー
脚本:クリス・ジェロルモ
撮影:ピーター・ビジウ
音楽:トレヴァー・ジョーンズ
出演:ジーン・ハックマン、ウィレム・デフォー、フランシス・マクドーマンド、ブラッド・ドゥーリフ

https://socine.info/wp-content/uploads/2021/01/mississippi_burning0.jpghttps://socine.info/wp-content/uploads/2021/01/mississippi_burning0-300x300.jpgishimuraMovieBlackLivesMatter,公民権運動
1964年の夏、白人2人と黒人1人の3人の青年が、パトカーとトラックに分乗した人々に殺される。彼らは公民権運動家で、行方不明となった彼らの捜索のため、ミシシッピーの小さな町にFBIの捜査官が派遣される。 若きエリート捜査官のアラン・ウォード(ウィレム・デフォー)は差別主義者であふれるこの町でこそ事件を解決しなければならないと100人規模の応援を要請する。南部出身で叩き上げの相棒ルパート・アンダーソン(ジーン・ハックマン)はそれでは地元の人達の反発を買うだけだと、関係者の周辺を探る。 実際に1964年にミシシッピー州で3人の公民権運動家が殺害された事件をモデルにしたドラマだが、史実とは異なる部分も多く、基本的にはフィクションと考えたほうが良い。 80年代には問題提起になった映画だが、30年以上がたった現在、BlackLivesMatter視点で見ると、違ったみえたかがしてくる。果たしてこの映画が現代の私達に投げかけてくるメッセージとはなんだろうか。 恐怖と憎悪が引き起こすヘイトクライム この映画の内容を一言で言うと、KKKが黒人を殺しまくる映画だ。実際にはそんなにたくさん死人が出ているわけではないが、黒人の家に火をつけ、殴る蹴るの暴行を働き、時には吊るし、蹂躙し続ける。 物語の中心にあるのは、3人の公民権運動家を殺した犯人を探すFBIの動きだけれど、それよりもこの状況に意識を持っていかれる。 なぜ彼らはそんなことをするのか。差別してきた歴史があり、下等な人間として扱うだけならまだわかる。なぜそんな黒人たちをさらに陵辱する必要があるのか。 映画の中でも、「どこからそんな憎しみが生まれるのか」というような台詞があり、それに対する答えは恐怖だといされる。実際に、KKKの一人をジーン・ハックマンが黒人の居住区に置き去りにするシーンが有り、そこでその男は恐怖に顔をひきつらせ足早にそこを去っていく。彼らは確かに恐怖を感じているのだ。 では、恐怖が放火や殺人へとつながる理屈は何かと考えると、自分たちの立場が脅かされる恐怖なのではないか。公民権法が制定され、白人と黒人は(建前上)平等とされたことで、KKKの面々はこのまま黒人たちを支配し続けることができるか不安になる。このままでは立場が逆転して自分たちが虐げられるようになるのではないかと恐怖に駆られる。だから、自分たちにはその力があるし、黒人を殴ったり殺しても裁かれることもないのだということを示し続けなければならないのだ。 同時に恐怖は憎しみともなり、力を示すこと自体が憎しみを解放する快感にもなるのだ。だから彼らの行動はエスカレートするし、そんな彼らを止めるものも地元にはいない。実際、放火で捕まった男たちは裁判所によって微罪にされ釈放される。その論理は放火される側にも非があったという無茶苦茶なもので、彼らの憎しみにはお墨付きが与えられるのだ。 後味の悪さが示す本当の意図とは そのような大きな力を相手にどうすれば戦えるのか、エリート捜査官のウォードはあくまで正攻法で行くが、なかなか成果が上がらない、叩き上げのアンダーソンは、犯人の一人らしい保安官補の妻が鍵を握っていると見て接近する。 ウォードの正攻法はうまく行かず、最終的にはアンダーソンの脅し、騙し、はったりを認めることで事件捜査は進展していく。 刑事ドラマの展開としては王道だが、これがもやもやするのは、FBIも結局、恐怖を利用しているからだろう。理想的な結末は恐怖と憎しみを拭い去ることなのだが、FBIにはそれはできず、事件は解決してもこの町は何も変わらないだろうという思いを抱かざるを得ない。 さらには、捕まった犯人たちも結局たいした罪にはなっておらず、犯した罪と罰のバランスが取れているとはとても思えない。 なので、非常に後味の悪い映画なのだが、この後味の悪さこそがこの映画が単なる刑事ドラマではないことを示しているのではないか。FBIは決してヒーローではない。この地のKKKに多少のダメージは与えたが、多くの人たちの考えを揺るがすことはできなかったのだから。 そんな結末にした理由を考えてみると、これが結局の所白人の物語でしかないからなのではないか。殺されたのも(3人のうち2人が)白人で、捜査官も白人で、犯人たちも白人で、黒人たちは全く主体的な存在ではない。だからこの事件捜査はこの地の黒人社会にさほど大きな影響は残さないのではないか。 ただ、映画の最後は、教会の焼け跡で白人と黒人の混ざった集団が賛美歌を歌っているシーンだ。このシーンが意味しているのは、この地にも進歩的な白人はいて、黒人たちもその人達を受け入れて、これから前に進もうとしているということではなかろうか。目の前には墓地が広がり、たくさんの犠牲者が出てきたことも示している。その道は険しいが希望はないわけではない。そして、二人の刑事は遠くからその景色を見ただけで去っていく。彼らは何も変えることはできなかったが、前に進もうとしている人たちが一歩を踏み出すきっかけは作ったのかもしれない。 何かが変わろうとするとき、変化を起こすのはその内部の当事者だが、そのきっかけとなるのは外からの刺激だということは多い。この映画が示しているのは、そんなことなのかもしれない。 U-NEXTの見放題で見る 『ミシシッピー・バーニング』1988年/アメリカ/126分監督:アラン・パーカー脚本:クリス・ジェロルモ撮影:ピーター・ビジウ音楽:トレヴァー・ジョーンズ出演:ジーン・ハックマン、ウィレム・デフォー、フランシス・マクドーマンド、ブラッド・ドゥーリフ https://socine.info/2020/06/15/blacklivesmatter/
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