生まれつき耳が聞こえないケイコは下町のボクシングジムでトレーニングをしてプロボクサーとしてリングに立つ。普段はホテルで清掃員として働きながら弟と二人暮らし。ボクシングに生活のほぼすべてを捧げるケイコだったが、ある試合を機にその考え方に変化が生まれ始める。
実際に聴覚障害を抱えながらプロボクサーとして活躍した小笠原恵子さんの自伝『負けないで!』をもとに、三宅唱監督で映画化。主演の岸井ゆきのの抑えた演技が光る作品。
映像で表現する耳が聞こえないボクサーの世界
耳の聞こえないボクサーが主人公という劇的な設定にしては何も起こらない映画だ。主人公のケイコは耳が聞こえない、そしてボクシングをやっているというだけでごく普通の生活を送るごく普通の人だ。この映画がまず描こうとしているのはそのことだろう。
そのうえで、主人公に何も語らせない。ケイコは言葉を発することはもちろんないし、手話でも会話することは少ない。(字幕付きの)手話の会話も弟(耳が聞こえるが手話もできる)とがほとんどで、その会話も多いとは言い難い。
だから見る側はケイコの考えがわからない。私たちは人や物語や世界を言語で理解しようとする。だから、ほとんど語らないケイコのことがわからないし、この物語の意味も判然としない。これは音から言葉や意味を受け取ることができないケイコの感覚を反映させた部分もあるのかもしれない。
そして、この映画は映像で語りかけてくる。まずは言葉少ないケイコの表情と眼差しで、そしてケイコを取り巻く風景で。撮影は16ミリフィルムが使われたそうだ。その映像は美しい。ケイコが夜の河原を走り、高架下で佇むと上を列車が通過する。その光のコントラストが美しい。この風景を始めとする環境音だけの映像とそこに無言で存在するケイコからは、その意志の強さが伝わってくる。頑固さと言いかえることもできるかもしれないが、ケイコの芯の強さが画面から溢れ出てくるようだ。
自己表現に障害は関係ない
トレーニングのシーンで印象的なのは音だ。コンビネーションミットのリズミカルな音、ケイコはコーチと舞踏を踊るようにミット打ちを続ける。他にも金属の軋む音やシューズが擦れる音や時間の経過を知らせるタイマーの音など様々な音があふれている。でもケイコにはそれが聞こえていない。ケイコはどのような世界でボクシングをしているのだろうかと想像せずにはいられない。
三浦友和演じる会長はケイコが耳が聴こえないのはもちろん不利だと言う。でもケイコは最初から聞こえないのだから不利だという感覚はないだろう。耳が聞こえればいいのにというのではなく、この制限の中で何ができるのか、耳が聴こえないからこその視覚を中心とした感覚の鋭さを活かす方法はなにか、それを考えながらトレーニングをしているのだろう。
そして自分を高めて試合に望む、それが彼女の自己表現と自己確認の方法なのだ。人は誰しも自分という制限の中で最大限の力を発揮して自己表現をしようとする。彼女の場合はそれがボクシングだった。そこでは彼女の障害は制限の一つに過ぎず、他の様々な特性(例えば足が遅いとか腕が短いとか闘争心がないとか)と変わることはない。
理解できない手話と共生社会へのヒント
彼女の自己表現という意味での人生の軸はボクシングにあるが、生きていく上で大きな割合を占めるのはそれ以外の社会生活の部分だ。そこでは耳が聴こえないことは障害として彼女の生きづらさにつながる。
仕事もそうだし、警察に職務質問をされるのもそうだし、家族関係にも影響を与える。でも、ろう学校の同級生と思われる友だちとの女子会の楽しそうな様子は、彼女たちには彼女たちの社会があり、そこでは私達と何ら変わらぬ生活ができていることが見て取れる。
そして、その場面では手話での会話に字幕が付けられない。だから私達には彼女の会話の内容がわからない。そこに、障害があるのは彼女たちではなく社会の方だというメッセージを感じる。
彼女たちは彼女たちの社会ではごく普通に生活できているのに、より大きな社会では生きづらさを抱えてしまう。この原因は、手話という言語を身に着けた彼女たちと、日本語という言語を身に着けた私達の間に相互理解が存在していないことにある。このとき、日本という社会が彼女たちの社会を包摂するためには、私たちが手話を学ぶか、なにか別のコミュニケーション方法を見つけなければいけない。彼女たちが日本語でコミュニケーションできるようになるのは非常に困難だからだ。
世界がインクルーシブな共生社会を目指すならば(もちろん目指すべきだが)、彼女たちのコミュニケーションが取れるツールを開発するべきだ。現実世界でも手話にリアルタイムに字幕が付けられるとか、話す言葉がリラルタイムで文字になるとか、そういった技術が普及することが求められる。
そしてそれは聴覚障害者に限った話ではなく、あらゆる人にとってそうであるべきだ。この映画がケイコをごく普通の人間として描いている意味はそこにあるのではないか。
『ケイコ 目を澄ませて』
2022年/日本/99分
監督:三宅唱
原案:小笠原恵子
脚本:三宅唱、酒井雅秋
撮影:月永雄太
出演:岸井ゆきの、三浦友和、三浦誠己、松浦慎一郎、渡辺真起子、仙道敦子
https://socine.info/2023/02/07/keiko/ishimuraFeaturedMovie聴覚障害,障害者(C)2022 映画「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会/COMME DES CINEMAS
生まれつき耳が聞こえないケイコは下町のボクシングジムでトレーニングをしてプロボクサーとしてリングに立つ。普段はホテルで清掃員として働きながら弟と二人暮らし。ボクシングに生活のほぼすべてを捧げるケイコだったが、ある試合を機にその考え方に変化が生まれ始める。
実際に聴覚障害を抱えながらプロボクサーとして活躍した小笠原恵子さんの自伝『負けないで!』をもとに、三宅唱監督で映画化。主演の岸井ゆきのの抑えた演技が光る作品。
映像で表現する耳が聞こえないボクサーの世界
耳の聞こえないボクサーが主人公という劇的な設定にしては何も起こらない映画だ。主人公のケイコは耳が聞こえない、そしてボクシングをやっているというだけでごく普通の生活を送るごく普通の人だ。この映画がまず描こうとしているのはそのことだろう。
(C)2022 映画「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会/COMME DES CINEMAS
そのうえで、主人公に何も語らせない。ケイコは言葉を発することはもちろんないし、手話でも会話することは少ない。(字幕付きの)手話の会話も弟(耳が聞こえるが手話もできる)とがほとんどで、その会話も多いとは言い難い。
だから見る側はケイコの考えがわからない。私たちは人や物語や世界を言語で理解しようとする。だから、ほとんど語らないケイコのことがわからないし、この物語の意味も判然としない。これは音から言葉や意味を受け取ることができないケイコの感覚を反映させた部分もあるのかもしれない。
そして、この映画は映像で語りかけてくる。まずは言葉少ないケイコの表情と眼差しで、そしてケイコを取り巻く風景で。撮影は16ミリフィルムが使われたそうだ。その映像は美しい。ケイコが夜の河原を走り、高架下で佇むと上を列車が通過する。その光のコントラストが美しい。この風景を始めとする環境音だけの映像とそこに無言で存在するケイコからは、その意志の強さが伝わってくる。頑固さと言いかえることもできるかもしれないが、ケイコの芯の強さが画面から溢れ出てくるようだ。
自己表現に障害は関係ない
トレーニングのシーンで印象的なのは音だ。コンビネーションミットのリズミカルな音、ケイコはコーチと舞踏を踊るようにミット打ちを続ける。他にも金属の軋む音やシューズが擦れる音や時間の経過を知らせるタイマーの音など様々な音があふれている。でもケイコにはそれが聞こえていない。ケイコはどのような世界でボクシングをしているのだろうかと想像せずにはいられない。
(C)2022 映画「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会/COMME DES CINEMAS
三浦友和演じる会長はケイコが耳が聴こえないのはもちろん不利だと言う。でもケイコは最初から聞こえないのだから不利だという感覚はないだろう。耳が聞こえればいいのにというのではなく、この制限の中で何ができるのか、耳が聴こえないからこその視覚を中心とした感覚の鋭さを活かす方法はなにか、それを考えながらトレーニングをしているのだろう。
そして自分を高めて試合に望む、それが彼女の自己表現と自己確認の方法なのだ。人は誰しも自分という制限の中で最大限の力を発揮して自己表現をしようとする。彼女の場合はそれがボクシングだった。そこでは彼女の障害は制限の一つに過ぎず、他の様々な特性(例えば足が遅いとか腕が短いとか闘争心がないとか)と変わることはない。
理解できない手話と共生社会へのヒント
彼女の自己表現という意味での人生の軸はボクシングにあるが、生きていく上で大きな割合を占めるのはそれ以外の社会生活の部分だ。そこでは耳が聴こえないことは障害として彼女の生きづらさにつながる。
仕事もそうだし、警察に職務質問をされるのもそうだし、家族関係にも影響を与える。でも、ろう学校の同級生と思われる友だちとの女子会の楽しそうな様子は、彼女たちには彼女たちの社会があり、そこでは私達と何ら変わらぬ生活ができていることが見て取れる。
(C)2022 映画「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会/COMME DES CINEMAS
そして、その場面では手話での会話に字幕が付けられない。だから私達には彼女の会話の内容がわからない。そこに、障害があるのは彼女たちではなく社会の方だというメッセージを感じる。
彼女たちは彼女たちの社会ではごく普通に生活できているのに、より大きな社会では生きづらさを抱えてしまう。この原因は、手話という言語を身に着けた彼女たちと、日本語という言語を身に着けた私達の間に相互理解が存在していないことにある。このとき、日本という社会が彼女たちの社会を包摂するためには、私たちが手話を学ぶか、なにか別のコミュニケーション方法を見つけなければいけない。彼女たちが日本語でコミュニケーションできるようになるのは非常に困難だからだ。
世界がインクルーシブな共生社会を目指すならば(もちろん目指すべきだが)、彼女たちのコミュニケーションが取れるツールを開発するべきだ。現実世界でも手話にリアルタイムに字幕が付けられるとか、話す言葉がリラルタイムで文字になるとか、そういった技術が普及することが求められる。
そしてそれは聴覚障害者に限った話ではなく、あらゆる人にとってそうであるべきだ。この映画がケイコをごく普通の人間として描いている意味はそこにあるのではないか。
https://youtu.be/xqH1sTg5w1k
『ケイコ 目を澄ませて』2022年/日本/99分監督:三宅唱原案:小笠原恵子脚本:三宅唱、酒井雅秋撮影:月永雄太出演:岸井ゆきの、三浦友和、三浦誠己、松浦慎一郎、渡辺真起子、仙道敦子
Kenji
Ishimuraishimura@cinema-today.netAdministratorライター/映画観察者。
2000年から「ヒビコレエイガ」主宰、ライターとしてgreenz.jpなどに執筆中。まとめサイト→https://note.mu/ishimurakenji
映画、アート、書籍などのレビュー記事、インタビュー記事、レポート記事が得意。ソーシネ
コメントを残す