(C) 2003 New Line Cinema.

酒に酔った父親に代わって車を運転し学校に向かったジョン、校長に遅刻をとがめられるが、父親が心配で兄に父親を迎えに来てくれるよう電話をする。イーライは学校の前でパンク・ファッションのカップルの写真を撮り、学校の暗室に向かう。いじめられっこのアレックスは家で仲間のエリックと銃器の通販サイトを見ていた…

1999年のコロンバイン高校での銃乱射事件をモチーフとして、ガス・ヴァン・サントが作り上げたフィクション作品。カンヌ映画祭で監督賞とパルム・ドールのダブル受賞という史上初の快挙を成し遂げた。

銃乱射事件と「恐怖」

この映画が何についての映画かまったく知らず(公開直後にはそのような前提はほとんどありえそうにないが、20年以上たった今なら容易に起きそうだ)に見たとしたならば、どのような映画に見えるだろうか。映画は非常に日常的な風景から始まり、突然に銃を手にしたいじめられっこが登場する。その展開は強烈だろう。映画の途中で暗示されてはいるが、結末がはっきりと見えるわけではない。だから、かなり衝撃を与える映画になるわけだが、そのように衝撃を与えてしまうがために、唐突な終わり方に当惑を覚えるかもしれないとも思う。

前提の知識を持って見たならば、まず観客はいったい誰が虐殺者であるのかを推測しながら映画を見始めるわけだが、それが誰なのかは比較的早い段階でわかり、次にほかの生徒たちそれぞれの行動がどのような結果に結びつくのかを観察していくことにある。その生徒たちの行動はあまりに日常的であるわけだが、その先に悲劇が確信されているがゆえにそれは異なった相貌を呈してくるわけだ。映画はそこを描きたかったのだろうと思う。だから、結末として起きる虐殺事件そのものはこの映画の主題ではなかったということになる。虐殺事件が起こってもそれはどこか別の場所で起こっていることのような、日常の間隙をついた異常事態、現実ではない何かのように感じられてしまう。

そのとき、われわれはその虐殺の意味を考えることになる。そこには銃が簡単に手に入ってしまうアメリカの現状があり、いじめという問題がある。そしてそれよりも重要で根本的なものとして「恐怖」という問題が覆いかぶさっている。この事件の唐突さというのは人々に強い恐怖を与える。そしてこの事件の発端も恐怖であるかもしれない。『ボウリング・フォー・コロンバイン』でも言われているように、アメリカとは良くも悪くも恐怖によって動かされてきた国なのである。その恐怖のほとんどは幻想というか、過重な感情だが、実際に事実として存在してしまった例の一つがこの事件であるのだ。しかもそれが学校という安心できるべき場所で起きてしまった。

映画が再生産する「恐怖」に対処し、問題の全体像を見る

私はそんなことをこの映画から感じたが、だとしたらこの映画はすごく大きな問題をはらんだ映画であるということになる。つまり、この映画はこの事件がもたらしたものに対して何かをプロテストするのではなく、この事件がもたらした恐怖に根拠を与えてしまっているということになるからだ。恐怖の根拠が実際に存在するということを、あなたの隣に殺人鬼がいるということを立証してしまっているのだ。

もちろん、そのことから「何とかしなくては」という建設的な意見を立てることも可能だが、アメリカという国が「恐怖」によって動かされている国であるならば(この映画ではそういっているように思える)、それはさらなる恐怖の再生産をするだけで終わってしまうのではないだろうか。前提となる知識を持たずに見たならば、なおのことそうではないかと思う。

ただ、この映画が目指す地点はそこではない。題名の『エレファント』は「盲目の僧侶たちが象に触れ、それぞれの感じたことを表現しても、そこから全体像はわからない」(=部分しか見ずに全体を見誤る)というインドの教訓話から取ったそうで、そのことから考えると、ここに登場する生徒それぞれ(そこには加害者であるアレックスとエリックも含む)の視点からだけでは事件の全体像は見えてこないということを意味しているのだろう。

そしてさらには、この映画自体が物事の一面を描いたものに過ぎず、真実を知るためには観客一人ひとりがもっと他のことを知ろうとしなければならないということも意味しているのかもしれない。

あらゆる社会問題は映画一本で表現し切ることなど不可能だ。この映画が捉えようとしている「学校での銃乱射事件」という大きな問題を考えるならば、この映画1本を見ただけで知ったつもりになってしまってはいけない。それでは象の一部分を触っただけの盲目の僧侶と同じだとこの映画はメッセージを発しているのではないだろうか。

もちろん1本の映画として楽しむことは可能だし、十分面白い映画だと思う。しかし、ここを出発点に広がっていってこそこの映画の真の価値がわかる、そんな映画なのではないか。

『エレファント』
Elephant
2003年/アメリカ/81分
監督:ガス・ヴァン・サント
脚本:ガス・ヴァン・サント
撮影:ハリス・サヴィデス
出演:ジョン・ロビンソン、アレックス・フォレスト、エリック・デューレン、イライアス・マッコネル、ジョーダン・テイラー

https://i1.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2023/02/elephant_1.jpg?fit=639%2C426&ssl=1https://i1.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2023/02/elephant_1.jpg?resize=150%2C150&ssl=1ishimuraMovieアメリカ社会,銃乱射事件
(C) 2003 New Line Cinema. 酒に酔った父親に代わって車を運転し学校に向かったジョン、校長に遅刻をとがめられるが、父親が心配で兄に父親を迎えに来てくれるよう電話をする。イーライは学校の前でパンク・ファッションのカップルの写真を撮り、学校の暗室に向かう。いじめられっこのアレックスは家で仲間のエリックと銃器の通販サイトを見ていた… 1999年のコロンバイン高校での銃乱射事件をモチーフとして、ガス・ヴァン・サントが作り上げたフィクション作品。カンヌ映画祭で監督賞とパルム・ドールのダブル受賞という史上初の快挙を成し遂げた。 銃乱射事件と「恐怖」 この映画が何についての映画かまったく知らず(公開直後にはそのような前提はほとんどありえそうにないが、20年以上たった今なら容易に起きそうだ)に見たとしたならば、どのような映画に見えるだろうか。映画は非常に日常的な風景から始まり、突然に銃を手にしたいじめられっこが登場する。その展開は強烈だろう。映画の途中で暗示されてはいるが、結末がはっきりと見えるわけではない。だから、かなり衝撃を与える映画になるわけだが、そのように衝撃を与えてしまうがために、唐突な終わり方に当惑を覚えるかもしれないとも思う。 前提の知識を持って見たならば、まず観客はいったい誰が虐殺者であるのかを推測しながら映画を見始めるわけだが、それが誰なのかは比較的早い段階でわかり、次にほかの生徒たちそれぞれの行動がどのような結果に結びつくのかを観察していくことにある。その生徒たちの行動はあまりに日常的であるわけだが、その先に悲劇が確信されているがゆえにそれは異なった相貌を呈してくるわけだ。映画はそこを描きたかったのだろうと思う。だから、結末として起きる虐殺事件そのものはこの映画の主題ではなかったということになる。虐殺事件が起こってもそれはどこか別の場所で起こっていることのような、日常の間隙をついた異常事態、現実ではない何かのように感じられてしまう。 そのとき、われわれはその虐殺の意味を考えることになる。そこには銃が簡単に手に入ってしまうアメリカの現状があり、いじめという問題がある。そしてそれよりも重要で根本的なものとして「恐怖」という問題が覆いかぶさっている。この事件の唐突さというのは人々に強い恐怖を与える。そしてこの事件の発端も恐怖であるかもしれない。『ボウリング・フォー・コロンバイン』でも言われているように、アメリカとは良くも悪くも恐怖によって動かされてきた国なのである。その恐怖のほとんどは幻想というか、過重な感情だが、実際に事実として存在してしまった例の一つがこの事件であるのだ。しかもそれが学校という安心できるべき場所で起きてしまった。 https://socine.info/2020/06/10/bowling-for-columbine/ 映画が再生産する「恐怖」に対処し、問題の全体像を見る 私はそんなことをこの映画から感じたが、だとしたらこの映画はすごく大きな問題をはらんだ映画であるということになる。つまり、この映画はこの事件がもたらしたものに対して何かをプロテストするのではなく、この事件がもたらした恐怖に根拠を与えてしまっているということになるからだ。恐怖の根拠が実際に存在するということを、あなたの隣に殺人鬼がいるということを立証してしまっているのだ。 もちろん、そのことから「何とかしなくては」という建設的な意見を立てることも可能だが、アメリカという国が「恐怖」によって動かされている国であるならば(この映画ではそういっているように思える)、それはさらなる恐怖の再生産をするだけで終わってしまうのではないだろうか。前提となる知識を持たずに見たならば、なおのことそうではないかと思う。 ただ、この映画が目指す地点はそこではない。題名の『エレファント』は「盲目の僧侶たちが象に触れ、それぞれの感じたことを表現しても、そこから全体像はわからない」(=部分しか見ずに全体を見誤る)というインドの教訓話から取ったそうで、そのことから考えると、ここに登場する生徒それぞれ(そこには加害者であるアレックスとエリックも含む)の視点からだけでは事件の全体像は見えてこないということを意味しているのだろう。 そしてさらには、この映画自体が物事の一面を描いたものに過ぎず、真実を知るためには観客一人ひとりがもっと他のことを知ろうとしなければならないということも意味しているのかもしれない。 あらゆる社会問題は映画一本で表現し切ることなど不可能だ。この映画が捉えようとしている「学校での銃乱射事件」という大きな問題を考えるならば、この映画1本を見ただけで知ったつもりになってしまってはいけない。それでは象の一部分を触っただけの盲目の僧侶と同じだとこの映画はメッセージを発しているのではないだろうか。 もちろん1本の映画として楽しむことは可能だし、十分面白い映画だと思う。しかし、ここを出発点に広がっていってこそこの映画の真の価値がわかる、そんな映画なのではないか。 『エレファント』Elephant2003年/アメリカ/81分監督:ガス・ヴァン・サント脚本:ガス・ヴァン・サント撮影:ハリス・サヴィデス出演:ジョン・ロビンソン、アレックス・フォレスト、エリック・デューレン、イライアス・マッコネル、ジョーダン・テイラー
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