© 2020 7 ECCLES STREET LLC

人里離れたところにぽつんと建つ教会、そこである会合の準備がされていた。やってきたのは二組の夫婦。片方の妻がおずおずと花を差し出し、他方の妻がそれを受け取る。ぎこちなさと緊張感を漂わわせたまま4人はテーブルを囲み対話を始める。二組はともに息子を失っているが、一組はその発端となった銃乱射事件の加害者の親、もう一組は被害者の親だった。

学校での銃乱射事件が繰り返されるアメリカで、子を失った親たちと人の子の命を奪った子を持つ親たちはそれにどう対処し、どのような未来を求めているのか、4人だけの対話劇でその心情を深掘っていく。

主題は銃乱射事件ではない

虐殺事件の加害者の両親と被害者の両親が対話するという映画。本当に対話だけで作られていて、見る側は事件の内容から何から会話から推測するしかない。

事件には背景があり事件がありその後がある。私たちは事件そのものや背景を知りたがる。同じことが起こらないようにするとか、起きてしまったときにどうすればいいのかを考えたいからそれが当たり前だ。ただ、この映画が描いているのはその後だ。ではその後を描くことの意味とは何か。それは、事件は起こって終わりではなく、関係者はそこから時間をかけてそれを乗り越えて前に進まなければならないから、その方法を描くことに意味があるのだ。

だからこの映画も、事件を乗り越えるための試みとしての対話を描き、そこでそれぞれが何を感じ何を考え対話を終えてどう変わったのかを描く。主題は銃乱射事件そのものではなく、その影響をどう乗り越えるかにあるのだ。

そう捉えるとこの映画の意味はわかりやすくなるが、それでも対話の場で4人それぞれの中で何が起こっているのかは簡単には見て取れない。

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ヒントは色々ある。最初に被害者側の親ジェイとゲイルは「癒やし」を求めてきたというようなことを言う。加害者側の言葉を直接聞くことでそこに傷を癒やすためのヒントを見つけることができるのではないかと考えたのだろう。加害者の側としては被害者と会うことで赦しを得られるかもしれないという期待があったのではないか。そうでなければ被害者の側からわざわざ会おうと言ってくることはないだろうから。

それでも4人それぞれの考えや意図はかなり異なっているようだ。ある程度、見進んだ段階で私が感じたのは、加害者側の父リチャードは息子と自分の行動を悔やむ気持ちが強い、母リンダは愛する息子が冷酷な殺人鬼ではないとわかってほしい、被害者側の父ジェイは息子が殺された理由を知りたい、母ゲイルは息子の死から何かを得たいというそれぞれの思いを抱えているということだ。

そして映画の前半は父親同士の真相を求める戦いが繰り広げられて、怒りや不安や悲しみの感情が吐き出され、後半では母親同士がお互いの苦しみや悲しみを共有し、その行き先を整理しようと試みることで、進むべき道を見出そうとしているように見える。

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被害者による赦し

そのような展開になったとき、最終的に必要になるのは被害者による「赦し」だ。赦せないから怒りや恨みの感情が噴出し自分を制御できなくなる。赦す事ができれば悲しみは抱えながらも先に進むことができる。だが、もちろん赦すことは簡単ではない。どうしたらそれができるのか、この映画にはその決定的な瞬間が描かれている。それをどう捉えるかでこの映画をどう捉えるかも変わってくる。

被害者による赦しということで思い出したのは映画『イン・マイ・カントリー』だ。

非常に簡単に言うと、南アフリカのアパルトヘイトの加害者と被害者が対話をし、被害者が加害者を赦すことでともに国を作っていこうという真実和解委員会の2年間の活動を描いたフィクションだ。ここでは東者がどうしたら加害者を赦すことができるかが丹念に描かれている。

この映画でポイントになるのは赦しは償いに対して行われるということだ。償いの形は言葉であったり行動であったり様々だが、加害者に償いの気持ちがあれば被害者は赦すことができるかもしれない。

ただ今回の『対峙』の場合、加害者は死んでしまった。では償いをどこに求めればいいのか。どのような形で償い話されたのか、それを考えることが見る側に求められることなのだろう。

銃乱射事件について考える

もう一つやはり考えなければならないのは、銃乱射事件そのものについてだ。アメリカではずっと銃乱射事件が起き続けている。その現状がこの映画を作る理由の一つにあるだろう。銃乱射事件は殺されたり怪我を負った人たち以外にも多くの被害者を生む。この映画の加害者側の親も被害者の一人とも言える。

ただ、この映画はそれを問うことはしていない。この対話は原因を追求することが目的ではないからだ。被害者の父親ジェイは犯行の理由を追求しようとし、ゲームやインターネットやいじめの話も出るが、理由らしい理由を特定することはできない。

そこで思い出したのが1999年のコロンバイン高校銃乱射事件をモデルにした映画『エレファント』だ。

『エレファント』はある意味でこの『対峙』の鏡のような作品だ。同じく銃乱射事件そのものが主題ではなく、その前をテーマにしている。事件に至るまでの加害者の状況と心理を描いているのだ。

そして、この映画が描いているのも原因は一つではないということだ。様々な要因が積み重なった結果事件は起きる。そして、そのさらなる背景には、アメリカ社会の病理がある。それは一体何なのかはまた別の話だ。

とにかくも、この映画『対峙』の対話の背景には、アメリカと世界が向き合わなければならない社会の課題が存在している。赦しは求めるものではなく与えられるものであり、それを阻む不寛容さが社会を分断し、恐怖と怨恨を生み出し続けている。根本的な部分まで辿っていくとそんな現実が見えてくるのではないだろうか。

『対峙』
Mass
2021年/アメリカ/111分
監督:フラン・クランツ
脚本:フラン・クランツ
撮影:ライアン・ジャクソン・ヒーリー
音楽:ダーレン・モルぜ
出演:リード・バーニー、アン・ダウド、ジェイソン・アイザックス、マーサ・プリンプトン

ishimuraFeaturedMovieアメリカ社会,いじめ,銃乱射事件
© 2020 7 ECCLES STREET LLC 人里離れたところにぽつんと建つ教会、そこである会合の準備がされていた。やってきたのは二組の夫婦。片方の妻がおずおずと花を差し出し、他方の妻がそれを受け取る。ぎこちなさと緊張感を漂わわせたまま4人はテーブルを囲み対話を始める。二組はともに息子を失っているが、一組はその発端となった銃乱射事件の加害者の親、もう一組は被害者の親だった。 学校での銃乱射事件が繰り返されるアメリカで、子を失った親たちと人の子の命を奪った子を持つ親たちはそれにどう対処し、どのような未来を求めているのか、4人だけの対話劇でその心情を深掘っていく。 主題は銃乱射事件ではない 虐殺事件の加害者の両親と被害者の両親が対話するという映画。本当に対話だけで作られていて、見る側は事件の内容から何から会話から推測するしかない。 事件には背景があり事件がありその後がある。私たちは事件そのものや背景を知りたがる。同じことが起こらないようにするとか、起きてしまったときにどうすればいいのかを考えたいからそれが当たり前だ。ただ、この映画が描いているのはその後だ。ではその後を描くことの意味とは何か。それは、事件は起こって終わりではなく、関係者はそこから時間をかけてそれを乗り越えて前に進まなければならないから、その方法を描くことに意味があるのだ。 だからこの映画も、事件を乗り越えるための試みとしての対話を描き、そこでそれぞれが何を感じ何を考え対話を終えてどう変わったのかを描く。主題は銃乱射事件そのものではなく、その影響をどう乗り越えるかにあるのだ。 そう捉えるとこの映画の意味はわかりやすくなるが、それでも対話の場で4人それぞれの中で何が起こっているのかは簡単には見て取れない。 © 2020 7 ECCLES STREET LLC ヒントは色々ある。最初に被害者側の親ジェイとゲイルは「癒やし」を求めてきたというようなことを言う。加害者側の言葉を直接聞くことでそこに傷を癒やすためのヒントを見つけることができるのではないかと考えたのだろう。加害者の側としては被害者と会うことで赦しを得られるかもしれないという期待があったのではないか。そうでなければ被害者の側からわざわざ会おうと言ってくることはないだろうから。 それでも4人それぞれの考えや意図はかなり異なっているようだ。ある程度、見進んだ段階で私が感じたのは、加害者側の父リチャードは息子と自分の行動を悔やむ気持ちが強い、母リンダは愛する息子が冷酷な殺人鬼ではないとわかってほしい、被害者側の父ジェイは息子が殺された理由を知りたい、母ゲイルは息子の死から何かを得たいというそれぞれの思いを抱えているということだ。 そして映画の前半は父親同士の真相を求める戦いが繰り広げられて、怒りや不安や悲しみの感情が吐き出され、後半では母親同士がお互いの苦しみや悲しみを共有し、その行き先を整理しようと試みることで、進むべき道を見出そうとしているように見える。 © 2020 7 ECCLES STREET LLC 被害者による赦し そのような展開になったとき、最終的に必要になるのは被害者による「赦し」だ。赦せないから怒りや恨みの感情が噴出し自分を制御できなくなる。赦す事ができれば悲しみは抱えながらも先に進むことができる。だが、もちろん赦すことは簡単ではない。どうしたらそれができるのか、この映画にはその決定的な瞬間が描かれている。それをどう捉えるかでこの映画をどう捉えるかも変わってくる。 被害者による赦しということで思い出したのは映画『イン・マイ・カントリー』だ。 https://socine.info/2020/06/09/in-my-country/ 非常に簡単に言うと、南アフリカのアパルトヘイトの加害者と被害者が対話をし、被害者が加害者を赦すことでともに国を作っていこうという真実和解委員会の2年間の活動を描いたフィクションだ。ここでは東者がどうしたら加害者を赦すことができるかが丹念に描かれている。 この映画でポイントになるのは赦しは償いに対して行われるということだ。償いの形は言葉であったり行動であったり様々だが、加害者に償いの気持ちがあれば被害者は赦すことができるかもしれない。 ただ今回の『対峙』の場合、加害者は死んでしまった。では償いをどこに求めればいいのか。どのような形で償い話されたのか、それを考えることが見る側に求められることなのだろう。 銃乱射事件について考える もう一つやはり考えなければならないのは、銃乱射事件そのものについてだ。アメリカではずっと銃乱射事件が起き続けている。その現状がこの映画を作る理由の一つにあるだろう。銃乱射事件は殺されたり怪我を負った人たち以外にも多くの被害者を生む。この映画の加害者側の親も被害者の一人とも言える。 ただ、この映画はそれを問うことはしていない。この対話は原因を追求することが目的ではないからだ。被害者の父親ジェイは犯行の理由を追求しようとし、ゲームやインターネットやいじめの話も出るが、理由らしい理由を特定することはできない。 そこで思い出したのが1999年のコロンバイン高校銃乱射事件をモデルにした映画『エレファント』だ。 https://socine.info/2023/02/09/elephant/ 『エレファント』はある意味でこの『対峙』の鏡のような作品だ。同じく銃乱射事件そのものが主題ではなく、その前をテーマにしている。事件に至るまでの加害者の状況と心理を描いているのだ。 そして、この映画が描いているのも原因は一つではないということだ。様々な要因が積み重なった結果事件は起きる。そして、そのさらなる背景には、アメリカ社会の病理がある。それは一体何なのかはまた別の話だ。 とにかくも、この映画『対峙』の対話の背景には、アメリカと世界が向き合わなければならない社会の課題が存在している。赦しは求めるものではなく与えられるものであり、それを阻む不寛容さが社会を分断し、恐怖と怨恨を生み出し続けている。根本的な部分まで辿っていくとそんな現実が見えてくるのではないだろうか。 https://youtu.be/1nldoe_joHE 『対峙』Mass2021年/アメリカ/111分監督:フラン・クランツ脚本:フラン・クランツ撮影:ライアン・ジャクソン・ヒーリー音楽:ダーレン・モルぜ出演:リード・バーニー、アン・ダウド、ジェイソン・アイザックス、マーサ・プリンプトン
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