謎めいた写真家が”物語”を切り取ったのは何のためか。折り重なる物語をどう切り取るか。ー『ヴィヴィアン・マイヤーを探して』
何かアート系のドキュメンタリーがみたいなと思って、写真も好きだし、謎めいた写真家というのも面白そうだしというので何の気なしに見はじめたのだけれど、観てみたら今まさに問題意識として持っている“物語”についての映画で色々考えさせられた。この映画のキモはヴィヴィアン・マイヤーという謎めいた人物についての謎解きだけれど、そこには幾重にも物語が折り重なっていて、どの物語をどう受け止めて、どう切り取って伝えたらいいのか考えずにはいられなかったのだ。
物語0:被写体
映画はヴィヴィアン・マイヤーという無名の写真家、というかただの乳母が大量に残したネガをオークションで手に入れた青年ジョン・マルーフが、その作品に驚き、彼女の人物像を明らかにするとともに写真を世に出そうとするというもの。
映画の序盤に登場するその写真を見てハッとした。私は写真は好きだけれど、特に詳しくはないからわかりやすい写真が好きだ。写真家で言うとウジェーヌ・アジェとかアンリ・カルティエ・ブレッソンとかロベール・ドアノーとか。ヴィヴィアン・マイヤーの写真は彼らの写真にどこか似ている。モノクロというのもいいし、被写体も懐かしい雰囲気を持っているし、人物がくっきりと浮き上がっていて、瞬間を切り取っている感じがする。
映画はそこからヴィヴィアン・マイヤーとは何者なのかを探求していく方向へと進む。それはそれで興味深いのだが、その前にもう少し彼女の写真のことを考えたい。
写真というのは瞬間を捉えたものだけれど、彼女の写真には物語がある。人物写真が特にわかりやすいが、その視線、仕草、服装、場所、さまざまなものがその人が抱えている物語を表現している。それは文章にして語ってしまうと台無しになってしまうようなもので、まさに写真だからこそ表現できる物語だと感じられる。
まあでもここでは文章にしないと伝わらないと思うので、なんとか伝えようと努力してみたいが、一番感じたのは彼女の写真が被写体となっている人の時間を想像させるということだ。とらえられているのはその瞬間の感情で、それは幸福だったり、不満だったり、退屈だったり、時には無だったりするのだが、その瞬間にその感情を抱くことになったその人が過ごしてきた時間とはどのようなものだったのか想像せずにはいられないのだ。その時間というのはその日一日であることもあれば、その人の人生そのものであることもあるのだけれど、とにかく写っている瞬間が時間的な広がりを持った物語を生むのだ。
そのような時間の広がりがあるというのが彼女の写真を私が好きになった最大の理由だが、彼女はこれらの写真を発表しようとしなかった。それなら、彼女にとって写真が持つ物語にどのような意味があったのだろうか。
物語1:ヴィヴィアン・マイヤー
映画の前半のどこかで誰かが「写真は彼女の子どものようなもの」と言っていた。彼女が本当にそう考えていたかはわからないし、この「子ども」に込められた意味も完全には理解できない。しかし、彼女が生み出したモノという意味ではそのとおりだろうとも思う。そして、彼女が自分の写真にある程度自信を持っていたことも映画の後半で明らかにされる。それを発表しなかったというのは、自分自身がその価値を知っていればいいと考えたのか、あるいは社会の評価によって自分の自信が覆されるのを恐れたのか。
ジョン・マルーフの執拗な調査によって明かされる彼女の人生は、彼女がずっとベビーシッターや家庭教師として子どもを預かる仕事をし、基本的にその家に住み込み、子どもを外に連れて行っては写真を撮り、部屋には閉じこもってものを溜め込んでいたということだ。子どもは好きなようだが厳しく当たることも多く、モノに対しては執着を示してもいた。
私がこの映画から受け取った彼女の物語は、彼女は自分の人生にある程度満足していたのではないかということだ。写真家として成功しようなどという気は毛頭なかっただろう。彼女が写真によって切り取ったのは人々の時間だ。彼女はそれを集めていた。それは自分の時間でもある。写真を撮ることで彼女は被写体と関係を結び、彼女の人生の一部に取り込んだ。それを見せるということは、それを他人と共有することだ。殻に閉じこもっていた彼女が、自分の人生を他人と共有したいと思わないだろうことは想像に難くない。
そうだとするならば彼女が求めたのは自己完結の人生だ。写真で切り取った人々の人生を抱えながら、ほとんどの人々より豊かな時間を所有していると思いながららひとり死んでいく、そんな生き方を望んでいたのではないか。人が本当に自分のものだといえるものは生きてきた時間だけだ。彼女はその時間を本当に豊富に持っていた。
それによって失うものももちろんたくさんあった。その最たるものは人からの愛情だ。もちろん両方得られればよかったのだろうが、彼女には片方を選ぶしかなかった。だから人からの愛情はほとんど得られなかった。でも愛情を求めていないわけではなかったことは彼女の人生を探る中で明らかになっていく。
人生に何を求めるのか、何を選択するのかも本当に人それぞれだ。私たちはその様々な選択についていろいろ考えながら自分自身を振り返る。何を求めているのかと。私は彼女が写真を撮ってそれを残しておいたという選択に感謝する。その写真を見ることで彼女が切り取った人々の時間を私も共有することができるからだ。彼女自身はそれを望まなかったとしても、その選択は彼女の物語ではなく、ジョン・マルーフの物語だから彼女にはどうすることもできない。
物語2:ジョン・マルーフ
ジョン・マルーフはヴィヴィアン・マイヤーが撮った写真を世界中の人達と共有した。被写体となった人々の時間は社会に共有された。しかし、彼自身が求めたのはむしろヴィヴィアン・マイヤーという人が生きた時間を共有することだったように思える。
私はアートにおいて作者は作品の背景に過ぎず、その言葉や人生や人となりにはあまり興味がわかない。それはそれで別の物語として面白いこともあるし、たしかに面白い人が多いけれど、それは作品の持つ意味や価値にはあまり影響しないものだと思う。
ジョン・マローンが興味を持ったのは彼女の作品が持つ物語ではなく、彼女の人生という物語だったようだ。そこで私はジョン・マルーフが織りなそうとしている物語から距離をおいてしまう。本来は彼が体験者かつ監督として提示した物語を全面的に受け止めて、この映画に関する私なりの物語を織っていかなければならないのかもしれないが、この映画に関してはそうはならない。
ここに私は物語を織りなすことの難しさと面白さを感じる。同じ物語を受け取っても人それぞれで受け止めるものも受け止め方も違う。だから、そこからその人を通ってアウトプットされる物語も違う。同じ写真でもヴィヴィアン・マイヤーとジョン・マルーフでは受け止め方も扱い方も異なったように。
写真が伝える物語、ヴィヴィアン・マイヤーが抱えた物語、ジョン・マルーフが伝えたい物語、それが折り重なっていることによってこの映画はいろいろな見方をすることができるし、色々な受け止め方をされる。だからこの映画を観て語られる物語もまた多種多様になる。まあ当たり前だし、どの映画についてもそう考えながら文章を書いてはいるのだけれど、この映画はそれ自体が内包する物語の重なり方がそのことを強く意識させる。
私はただ自分が伝えたいものを伝えていればいいのだろうか。
ジョン・マルーフは映画の中で少し罪悪感も感じると言っていた。それはヴィヴィアン・マイヤーが望んでいなかったであろう作品の公開を自分がしてしまったことに対してだ。それは自分が伝えたい物語が内包している人が伝えたいものと自分が伝えたいものとの間に齟齬が生じた時、どちらを選ぶべきなのかという問題で、彼女の重い尊重せずに自分が伝えたいことを伝えて本当にいいのだろうかという迷いだ。私の迷いも同じところにある。
でもさっきも書いたように作品と人物は別のものだと考えたら、それでいいのかもしれない。迷いながら出した結論がおそらくいいのだろう。その迷いも語られる物語に含まれるのだから。
結局、どうとでも解釈できる終わり方になってしまったけれど、私が伝えたいことというのはそういうことだ。
2013年/アメリカ/83分
監督:ジョン・マルーフ、チャーリー・シスケル
撮影:ジョン・マルーフ
音楽:J・ラルフ
出演:ヴィヴィアン・マイヤー、ジョン・マルーフ
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