ブラジル人の漫画家ラエルチはMtoFのトランスジェンダー。60歳近くになって女性になり、子どもと孫もいる。ドキュメンタリー映画『ラエルチのすべて』はそのラエルチへのインタビューと作品からブラジルでトランスジェンダーであることについて掘り下げていく。
ブラジルはアメリカやヨーロッパのようにLGBTQへの理解が進んだ国ではない。その中でラエルチは何に悩み、どう行動するのか、LGBTQの当事者だけでなく、あらゆる人にとって他者理解という意味で考えさせられる作品だ。
この映画はほとんど説明なく始まり展開されるので、ラエルチがどのような人で、ブラジルがどのような状況なのか映画を見ただけではわからない。その上、インタビューと漫画でほとんどが構成されているので、何かを理解しようと思って見ると、何を言っているかよくわからないということになりそうだ。
この作品を見る時に大切な視点は、映画が描こうとしているのは、ブラジルにおける社会問題としてのLGBTQではなく、ラエルチという個人の、人間としての「迷い」だということだと思う。
一足飛びに結論からいうと、ラエルチはトランスジェンダーであると同時にクエスチョナブル(Q)であり、私たちもみなどこかに“Q”の部分を持つべきだということを、私はこの作品から読み取った。
一番そう思ったのは、この映画のほぼ全編でラエルチが話す「胸」の問題にある。ラエルチは映像からは間違いなく「女性」に見えるが、ラエルチが語ったことから推測すると、処置は脱毛だけで手術やホルモン治療は行っておらず、肉体的には男性のままのようなので、外形上はトランスベスタイトのゲイということになる。しかし、心は女性で、その意識は子どものころからあったようなので、内心はMtoFのトランスジェンダーだ。
彼女は女性になるために必ずしも「胸は必要ではない」と考えているが、ほしいという気持ちも持っている。その気持は、自分らしさを追求すると胸があったほうが自分らしいと思えるだろうからと言うことのようだ。
しかし、そこには迷いもある。ラエルチは「女性になる」というと必ず「胸は?」と聞かれるとはなず。そこに透けて見えるのはブラジル社会のジェンダーバイアスの強さ、男性は男性らしく、女性は女性らしくという価値観だ。そのバイアスはLGBTという考え方を受け入れても存在し、トランスジェンダーで女性になるなら女性らしくあるべきだという考え方につながる。
ラエルチはこれに反発しているように見える。彼女は「性別にこだわらない」「男性でも女性でもないという考え方もできる」と発言し、自分らしさと社会が求める女性らしさが一致しないことを示唆する。
それは彼女の作品にも表れる。映画の中には彼女が描いた漫画のアニメーションがたびたび挿入されるが、その主人公の男性はあるときからミュリエルという女性としても生きるようになる。このキャラクターが示しているのは二重性、あるいは性の境を越境しながら生きる生き方だ。
社会はLGBTという新しい「性別」を設け、男性/女性に収まらない人々を再び社会に回収しようとしたけれど、それもあくまで性別に過ぎず、そこに収まらない人たちが必ず出てくる。それを今度は「Q」としてLGBTQに収めようといましているのだろう。
この区分から言えばラエルチはQだ。でも社会は彼女をTに収めようとする。
それはなぜか。世の中には、疑問を持ちたくない人がいるからではないか。
本当は、誰しも社会が規定する「男らしさ」「女らしさ」に疑問を持つ瞬間くらいあるはずで、社会が規定する性別の枠にきっちり収まり続けている人などいないと思うのだけれど、実際にはそういう人が世の中には多い。それは社会の枠に自分を合わせに行っているからで、ある種の自己欺瞞なのだ。
ラエルチは性の違和感に直面して、自分らしさとは何かを追求していった結果、今ある性別の枠には収まりきらない自分を発見した。だから、彼女自身は自分が男性だとも女性だともTだともQだとも思っていないだろう。彼女はそのような社会的な性別の縛りは乗り越えたのだ。
そんな彼女を見て落ち着かない人は、自分自身をいったんQにおいてみて、自分を顧みてみるべきだ。そうすれば彼女の迷いを理解できるし、この映画が言わんとしてることを感覚的に掴むことができるだろう。
この映画は最後に私たちにそんな機会を与えてくれている。それは、実は冒頭にもあるのだけれど、彼女が絵を描いているシーンだ。最初は何を描いているのかわからないが、絵ができていくに従ってそれは「女性の」胸と「男性の」性器の両方を持った人のヌードであると分る。そして、実際に豊満な胸と男性器を持ったモデルがそこにいるのだ。
映画を見るあなたが、その彼女/彼にどのような感覚を覚え、どのような感情を抱くのか、それを見つめるところからあなた自身のQが始まるのだ。
『ラエルチのすべて』
Laerte-se
2017年/ブラジル/100分
監督:リジア・バルボサ、イリアーヌ・ブルン
脚本:イリアーヌ・ブルン
出演:ラエルチ・コウチーニョ
https://socine.info/2019/10/16/laerte-se/https://i1.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2019/10/laberte-se1.jpg?fit=1024%2C576&ssl=1https://i1.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2019/10/laberte-se1.jpg?resize=150%2C150&ssl=1ishimuraMovieLGBT,Netflix,ドキュメンタリーブラジル人の漫画家ラエルチはMtoFのトランスジェンダー。60歳近くになって女性になり、子どもと孫もいる。ドキュメンタリー映画『ラエルチのすべて』はそのラエルチへのインタビューと作品からブラジルでトランスジェンダーであることについて掘り下げていく。
ブラジルはアメリカやヨーロッパのようにLGBTQへの理解が進んだ国ではない。その中でラエルチは何に悩み、どう行動するのか、LGBTQの当事者だけでなく、あらゆる人にとって他者理解という意味で考えさせられる作品だ。
via Netflix
この映画はほとんど説明なく始まり展開されるので、ラエルチがどのような人で、ブラジルがどのような状況なのか映画を見ただけではわからない。その上、インタビューと漫画でほとんどが構成されているので、何かを理解しようと思って見ると、何を言っているかよくわからないということになりそうだ。
この作品を見る時に大切な視点は、映画が描こうとしているのは、ブラジルにおける社会問題としてのLGBTQではなく、ラエルチという個人の、人間としての「迷い」だということだと思う。
一足飛びに結論からいうと、ラエルチはトランスジェンダーであると同時にクエスチョナブル(Q)であり、私たちもみなどこかに“Q”の部分を持つべきだということを、私はこの作品から読み取った。
一番そう思ったのは、この映画のほぼ全編でラエルチが話す「胸」の問題にある。ラエルチは映像からは間違いなく「女性」に見えるが、ラエルチが語ったことから推測すると、処置は脱毛だけで手術やホルモン治療は行っておらず、肉体的には男性のままのようなので、外形上はトランスベスタイトのゲイということになる。しかし、心は女性で、その意識は子どものころからあったようなので、内心はMtoFのトランスジェンダーだ。
彼女は女性になるために必ずしも「胸は必要ではない」と考えているが、ほしいという気持ちも持っている。その気持は、自分らしさを追求すると胸があったほうが自分らしいと思えるだろうからと言うことのようだ。
しかし、そこには迷いもある。ラエルチは「女性になる」というと必ず「胸は?」と聞かれるとはなず。そこに透けて見えるのはブラジル社会のジェンダーバイアスの強さ、男性は男性らしく、女性は女性らしくという価値観だ。そのバイアスはLGBTという考え方を受け入れても存在し、トランスジェンダーで女性になるなら女性らしくあるべきだという考え方につながる。
ラエルチはこれに反発しているように見える。彼女は「性別にこだわらない」「男性でも女性でもないという考え方もできる」と発言し、自分らしさと社会が求める女性らしさが一致しないことを示唆する。
それは彼女の作品にも表れる。映画の中には彼女が描いた漫画のアニメーションがたびたび挿入されるが、その主人公の男性はあるときからミュリエルという女性としても生きるようになる。このキャラクターが示しているのは二重性、あるいは性の境を越境しながら生きる生き方だ。
via Muriel Total
社会はLGBTという新しい「性別」を設け、男性/女性に収まらない人々を再び社会に回収しようとしたけれど、それもあくまで性別に過ぎず、そこに収まらない人たちが必ず出てくる。それを今度は「Q」としてLGBTQに収めようといましているのだろう。
この区分から言えばラエルチはQだ。でも社会は彼女をTに収めようとする。
それはなぜか。世の中には、疑問を持ちたくない人がいるからではないか。
本当は、誰しも社会が規定する「男らしさ」「女らしさ」に疑問を持つ瞬間くらいあるはずで、社会が規定する性別の枠にきっちり収まり続けている人などいないと思うのだけれど、実際にはそういう人が世の中には多い。それは社会の枠に自分を合わせに行っているからで、ある種の自己欺瞞なのだ。
ラエルチは性の違和感に直面して、自分らしさとは何かを追求していった結果、今ある性別の枠には収まりきらない自分を発見した。だから、彼女自身は自分が男性だとも女性だともTだともQだとも思っていないだろう。彼女はそのような社会的な性別の縛りは乗り越えたのだ。
そんな彼女を見て落ち着かない人は、自分自身をいったんQにおいてみて、自分を顧みてみるべきだ。そうすれば彼女の迷いを理解できるし、この映画が言わんとしてることを感覚的に掴むことができるだろう。
この映画は最後に私たちにそんな機会を与えてくれている。それは、実は冒頭にもあるのだけれど、彼女が絵を描いているシーンだ。最初は何を描いているのかわからないが、絵ができていくに従ってそれは「女性の」胸と「男性の」性器の両方を持った人のヌードであると分る。そして、実際に豊満な胸と男性器を持ったモデルがそこにいるのだ。
映画を見るあなたが、その彼女/彼にどのような感覚を覚え、どのような感情を抱くのか、それを見つめるところからあなた自身のQが始まるのだ。
https://youtu.be/XruSkaEMPog
『ラエルチのすべて』 Laerte-se2017年/ブラジル/100分監督:リジア・バルボサ、イリアーヌ・ブルン脚本:イリアーヌ・ブルン出演:ラエルチ・コウチーニョ
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
Kenji
Ishimuraishimura@cinema-today.netAdministratorライター/映画観察者。
2000年から「ヒビコレエイガ」主宰、ライターとしてgreenz.jpなどに執筆中。まとめサイト→https://note.mu/ishimurakenji
映画、アート、書籍などのレビュー記事、インタビュー記事、レポート記事が得意。ソーシネ
コメントを残す