映像作家の青柳拓さんが、コロナ禍の東京で、Uber Eatsの配達員をする自分を撮影したセルフドキュメンタリー。
山梨で運転代行のアルバイトをしながら映像制作をしていた青柳監督だったが、コロナ禍でバイトがなくなり、550万円の奨学金も返せない状態に。そんなとき、東京でウーバーの配達をしながら映像を撮ったらどうかという提案を受ける。「それだ!」と思った青柳監督は、自転車で新宿まで出て、友人の家に居候しながら配達員を始めるが…
ウーバー配達員という仕事
コロナ禍で宅配需要が増え、Uber Eatsをはじめとする配達員が爆発的に増えた。ただ数々の労働問題もニュースになって、果たして配達員という仕事がどうなのかと傍目には思わざるを得ない。そんな配達員を自ら体験しながら実態を明らかにしていくという作品。
映画の前半は「やっぱりきついし全然儲からないなー」という感想をいだきながら、青柳監督を応援するというのがベースの見方になる。しかし、この青柳拓という男はなかなかダメなやつで、お金を貯めなきゃいけないのにすぐ使ってしまったり、やる気を無くして仕事に行かない日が続いたりする。
努力を惜しまない人や苦難を乗り越える人が主人公のドキュメンタリーが多い中では異色だが、まあ人間そんなものだし、憎めないキャラクターなので、応援してしまう。
でも実はこのダメさや人間臭さを全面に出すことこそ、この映画が巷にあふれるウーバー配達員のYoutubeとの違いであり、映画として楽しむことができる作品になっている肝なのだ。
人と人をつなぐ
ここでポイントとなるのは、青柳監督が「人と人をつなぐ仕事」を目指しているというところだ。ちょっとはっきりと覚えていないのだが、青柳監督はウーバー配達員を人と人をつなぐ仕事だと思って始めたと言っていたと思う。しかし、やってみたら使い捨ての歯車に過ぎないと感じて、やる気を無くしてしまう。
でも、やはりお金を稼がなきゃいけなかったりなんだりで、仕事を続けるうちに、やはりこれは人と人をつなぐ仕事だと思うようになるのだ。
そう思うようになったきっかけの一つが、たまたま公園で出会った老女と話したことだっただろう。そこで青柳監督は東京の空襲の話を聞き、東京は焼け野原だった事を知る(もちろん知っていたのだろうが、改めて知る)。そして、「東京は今も焼け野原だ」というようなことを考える。
でも、その文字が映し出される背景にあるのは、焼け野原とは正反対の建物が密集する東京の映像だ。では青柳監督は、東京がどう焼け野原だと考えたのだろうか。
このあとのシーンを注意深く見ているとそのことがわかってくる気がする。このあと青柳監督はやる気を取り戻し、ウーバーが設定するミッションをクリアしようと必死に働く。画面に映るのは暗い雨の東京と受け渡しをするシーンばかりで、そこに「オーバーシュート」のようなコロナ禍で言われるようになった言葉が心の声として重ねられる。
「孤独」に焼き尽くされた東京
これを見ながら思うのは、彼は圧倒的に孤独だということだ。確かに彼を泊めてくれる友人はいるが、そのつながりはどうも薄い。彼が人とつながってると感じさせるシーンは地元の友人と電話で話している時くらいで、東京では彼は徹底的に孤独なのだ。
つまり彼は、東京は孤独な人の集まりで、人間関係の焼け野原だと感じているのではないか。人と人のつながりが感じられない場所、それが東京なのだ。
その中で彼は、ウーバーで商品を配達することで、お店の人と受け取る人の間をつなごうとしている。そこで重要なのは、それをつないでいるのが人間だと言うことだ。人間がつないだつながりは、ものやインターネットによるつながりよりも強固なはずだと、人とのつながりの中で育ってきた彼は感じているのだ。
だから、自分の人間臭さを描き、ウーバーが人と人を人がつなぐメディアであることを映画で表現しようとしたのではないか。
今の形からはなかなかそうは思えないが、ウーバーはもともとシェアリングエコノミーの文脈から生まれたサービスで、青柳監督の言う通り人と人とのつながりに基づいたものだったはずだ。それが都会の孤独に焼かれ、焼け野原に気づかれた社会を動かす歯車になってしまった。
それだけ「人と人のつながり」を取り戻すのが難しいということだと思うが、可能性は感じられる。人を孤独にするのは構造化された資本主義システムで、そのカウンターとしてシェアエコノミーのシステムが存在する。ウーバーは本来シェアエコノミーに基づいたシステムだったものが資本主義に取り込まれてしまった。しかし、それは動かしている人たちが(配達員も消費者も)資本主義になれきってしまっているからで、それが新しいシステムなのだと気づき、それにふさわしいあり方を模索するようになれば、新たなエコノミーが生まれていく可能性はまだあるのではないか。
映画が言おうとしていることからは遠くに来てしまった気はするが、ウーバーというシステムの末端を見つめているとそんな事を考えさせられる。
『東京自転車節』
2021年/日本/93分
監督:青柳拓
撮影:青柳拓、辻井潔、大澤一生
音楽:秋山周
出演:青柳拓
https://socine.info/2021/09/16/tokyo-jitensha-bushi/https://i1.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2021/09/tokyojitensha1.jpg?fit=640%2C360&ssl=1https://i1.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2021/09/tokyojitensha1.jpg?resize=150%2C150&ssl=1ishimuraMovieUber Eats(C)2021水口屋フィルム、ノンデライコ
映像作家の青柳拓さんが、コロナ禍の東京で、Uber Eatsの配達員をする自分を撮影したセルフドキュメンタリー。
山梨で運転代行のアルバイトをしながら映像制作をしていた青柳監督だったが、コロナ禍でバイトがなくなり、550万円の奨学金も返せない状態に。そんなとき、東京でウーバーの配達をしながら映像を撮ったらどうかという提案を受ける。「それだ!」と思った青柳監督は、自転車で新宿まで出て、友人の家に居候しながら配達員を始めるが…
ウーバー配達員という仕事
コロナ禍で宅配需要が増え、Uber Eatsをはじめとする配達員が爆発的に増えた。ただ数々の労働問題もニュースになって、果たして配達員という仕事がどうなのかと傍目には思わざるを得ない。そんな配達員を自ら体験しながら実態を明らかにしていくという作品。
映画の前半は「やっぱりきついし全然儲からないなー」という感想をいだきながら、青柳監督を応援するというのがベースの見方になる。しかし、この青柳拓という男はなかなかダメなやつで、お金を貯めなきゃいけないのにすぐ使ってしまったり、やる気を無くして仕事に行かない日が続いたりする。
努力を惜しまない人や苦難を乗り越える人が主人公のドキュメンタリーが多い中では異色だが、まあ人間そんなものだし、憎めないキャラクターなので、応援してしまう。
でも実はこのダメさや人間臭さを全面に出すことこそ、この映画が巷にあふれるウーバー配達員のYoutubeとの違いであり、映画として楽しむことができる作品になっている肝なのだ。
(C)2021水口屋フィルム、ノンデライコ
人と人をつなぐ
ここでポイントとなるのは、青柳監督が「人と人をつなぐ仕事」を目指しているというところだ。ちょっとはっきりと覚えていないのだが、青柳監督はウーバー配達員を人と人をつなぐ仕事だと思って始めたと言っていたと思う。しかし、やってみたら使い捨ての歯車に過ぎないと感じて、やる気を無くしてしまう。
でも、やはりお金を稼がなきゃいけなかったりなんだりで、仕事を続けるうちに、やはりこれは人と人をつなぐ仕事だと思うようになるのだ。
そう思うようになったきっかけの一つが、たまたま公園で出会った老女と話したことだっただろう。そこで青柳監督は東京の空襲の話を聞き、東京は焼け野原だった事を知る(もちろん知っていたのだろうが、改めて知る)。そして、「東京は今も焼け野原だ」というようなことを考える。
でも、その文字が映し出される背景にあるのは、焼け野原とは正反対の建物が密集する東京の映像だ。では青柳監督は、東京がどう焼け野原だと考えたのだろうか。
このあとのシーンを注意深く見ているとそのことがわかってくる気がする。このあと青柳監督はやる気を取り戻し、ウーバーが設定するミッションをクリアしようと必死に働く。画面に映るのは暗い雨の東京と受け渡しをするシーンばかりで、そこに「オーバーシュート」のようなコロナ禍で言われるようになった言葉が心の声として重ねられる。
(C)2021水口屋フィルム、ノンデライコ
「孤独」に焼き尽くされた東京
これを見ながら思うのは、彼は圧倒的に孤独だということだ。確かに彼を泊めてくれる友人はいるが、そのつながりはどうも薄い。彼が人とつながってると感じさせるシーンは地元の友人と電話で話している時くらいで、東京では彼は徹底的に孤独なのだ。
つまり彼は、東京は孤独な人の集まりで、人間関係の焼け野原だと感じているのではないか。人と人のつながりが感じられない場所、それが東京なのだ。
その中で彼は、ウーバーで商品を配達することで、お店の人と受け取る人の間をつなごうとしている。そこで重要なのは、それをつないでいるのが人間だと言うことだ。人間がつないだつながりは、ものやインターネットによるつながりよりも強固なはずだと、人とのつながりの中で育ってきた彼は感じているのだ。
だから、自分の人間臭さを描き、ウーバーが人と人を人がつなぐメディアであることを映画で表現しようとしたのではないか。
今の形からはなかなかそうは思えないが、ウーバーはもともとシェアリングエコノミーの文脈から生まれたサービスで、青柳監督の言う通り人と人とのつながりに基づいたものだったはずだ。それが都会の孤独に焼かれ、焼け野原に気づかれた社会を動かす歯車になってしまった。
それだけ「人と人のつながり」を取り戻すのが難しいということだと思うが、可能性は感じられる。人を孤独にするのは構造化された資本主義システムで、そのカウンターとしてシェアエコノミーのシステムが存在する。ウーバーは本来シェアエコノミーに基づいたシステムだったものが資本主義に取り込まれてしまった。しかし、それは動かしている人たちが(配達員も消費者も)資本主義になれきってしまっているからで、それが新しいシステムなのだと気づき、それにふさわしいあり方を模索するようになれば、新たなエコノミーが生まれていく可能性はまだあるのではないか。
映画が言おうとしていることからは遠くに来てしまった気はするが、ウーバーというシステムの末端を見つめているとそんな事を考えさせられる。
https://youtu.be/fLsLijed-G8
『東京自転車節』2021年/日本/93分監督:青柳拓撮影:青柳拓、辻井潔、大澤一生音楽:秋山周出演:青柳拓
Kenji
Ishimuraishimura@cinema-today.netAdministratorライター/映画観察者。
2000年から「ヒビコレエイガ」主宰、ライターとしてgreenz.jpなどに執筆中。まとめサイト→https://note.mu/ishimurakenji
映画、アート、書籍などのレビュー記事、インタビュー記事、レポート記事が得意。ソーシネ
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