チェルノブイリと福島を舞台にした原子力についてのドキュメンタリー。だが、事実を伝えるドキュメンタリーではなく、映像による観念的なモノローグというべきもので、ドキュメンタリーと呼ぶべきではないかもしれない。

まず描かれるのは、チェルノブイリの避難地域、いわゆるゾーンにある村に戻り1人で暮らす老人。続いて、福島で避難所を点々とし、今は仮設住宅に落ち着いた老夫婦。チェルノブイリに描写は『プリピャチ』を思い出させるが、何も変わっておらず、戻った住人たちがさらに年老いただけだ。

福島は、のちに除染のシーンも出てきて、人が住める場所を取り戻そうとしている(その実効性はともかくとして)のに対し、チェルノブイリは完全に打ち捨てられた感がある。集合住宅が森に飲み込まれて行っているのを映す空撮のシーンは圧巻だ。

福島はそうではなく、汚染された草木や表土を集めフレコンパックに詰めて積み上げる。ただ、削った土地は荒涼とした大地となり、人影は見えず、野生動物の足跡のみが残る。

この辺りの映像の意味は、ヒトが自ら住むことができない土地を作ってしまったことであろし、自然はお構いなしにそれを克服していくということだ。チェルノブイリがいいのか、福島がいいのか、私たちは考えなければいけないが、そもそも原発がない方がもちろんいい。そうやってみるものの思考をたゆたせるのがこの映画の本質なのかもしれない。

しかし、ベラルーシの重度心身障害児についての一連のシーンはどうだろうか。原発事故と障害との関連性は示されないまま、この文脈に入れられると、関連性があると断言していると読み取れてしまう。原発によって障害児が増えるという警句なのだとしたら、根拠に欠けるし誠実ではない。

さらには障害を多様性の一つと考えるように変わりつつある世相においても違和感が残る描写だ。

この辺りの印象描写が、ある種の印象操作を行っているように見えてしまい、これはドキュメンタリーとは呼べないと思ってしまった。まあ作り手としてもそれでいいのだと思うが。

そんな感じて揺蕩う自分の思考を追いながら気づいたのは、この映画が描いているのは、自分で選択していないことによって人生を左右されてしまう悔しさと無力感ではないかということだ。原発事故の被災者になってしまうのも、障害児の親になってしまうのも自分で選択したことではない。そもそも原発を持つことも私たちが自分で選択したこととは言えない。にもかかわらず、私たちはそのことに人生を大きく左右されてしまう。チェルノブイリの老人は選択を自らの手に取り戻そうとして本来住んではいけないはずの場所に戻り、でもそこには孤独しかなかった。福島の夫婦は7年で8回もの引っ越しを余儀なくされ、疲れ切ってしまう。

そしてその無力感は未来に向けて行動を起こしているはずのデモ隊の人々にも。自らの手に選択の力を取り戻そうとする動きがいつも無力感につながってしまうなら、われわれはきっと諦めてしまう。それでも立ち上がれる力を私たちはどこで得られるのだろうか。

行くあてもなく
I’m so sorry
2021年/香港=フランス=オランダ/96分
監督:チャオ・リン
脚本:チャオ・リン
撮影:チャオ・リン、スン・シャオガン
音楽:ミカエル・プルニアン

https://i2.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2021/11/IMG_0084.jpg?fit=800%2C422&ssl=1https://i2.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2021/11/IMG_0084.jpg?resize=150%2C150&ssl=1ishimuraMovieチェルノブイリ,福島
チェルノブイリと福島を舞台にした原子力についてのドキュメンタリー。だが、事実を伝えるドキュメンタリーではなく、映像による観念的なモノローグというべきもので、ドキュメンタリーと呼ぶべきではないかもしれない。 まず描かれるのは、チェルノブイリの避難地域、いわゆるゾーンにある村に戻り1人で暮らす老人。続いて、福島で避難所を点々とし、今は仮設住宅に落ち着いた老夫婦。チェルノブイリに描写は『プリピャチ』を思い出させるが、何も変わっておらず、戻った住人たちがさらに年老いただけだ。 福島は、のちに除染のシーンも出てきて、人が住める場所を取り戻そうとしている(その実効性はともかくとして)のに対し、チェルノブイリは完全に打ち捨てられた感がある。集合住宅が森に飲み込まれて行っているのを映す空撮のシーンは圧巻だ。 福島はそうではなく、汚染された草木や表土を集めフレコンパックに詰めて積み上げる。ただ、削った土地は荒涼とした大地となり、人影は見えず、野生動物の足跡のみが残る。 この辺りの映像の意味は、ヒトが自ら住むことができない土地を作ってしまったことであろし、自然はお構いなしにそれを克服していくということだ。チェルノブイリがいいのか、福島がいいのか、私たちは考えなければいけないが、そもそも原発がない方がもちろんいい。そうやってみるものの思考をたゆたせるのがこの映画の本質なのかもしれない。 しかし、ベラルーシの重度心身障害児についての一連のシーンはどうだろうか。原発事故と障害との関連性は示されないまま、この文脈に入れられると、関連性があると断言していると読み取れてしまう。原発によって障害児が増えるという警句なのだとしたら、根拠に欠けるし誠実ではない。 さらには障害を多様性の一つと考えるように変わりつつある世相においても違和感が残る描写だ。 この辺りの印象描写が、ある種の印象操作を行っているように見えてしまい、これはドキュメンタリーとは呼べないと思ってしまった。まあ作り手としてもそれでいいのだと思うが。 そんな感じて揺蕩う自分の思考を追いながら気づいたのは、この映画が描いているのは、自分で選択していないことによって人生を左右されてしまう悔しさと無力感ではないかということだ。原発事故の被災者になってしまうのも、障害児の親になってしまうのも自分で選択したことではない。そもそも原発を持つことも私たちが自分で選択したこととは言えない。にもかかわらず、私たちはそのことに人生を大きく左右されてしまう。チェルノブイリの老人は選択を自らの手に取り戻そうとして本来住んではいけないはずの場所に戻り、でもそこには孤独しかなかった。福島の夫婦は7年で8回もの引っ越しを余儀なくされ、疲れ切ってしまう。 そしてその無力感は未来に向けて行動を起こしているはずのデモ隊の人々にも。自らの手に選択の力を取り戻そうとする動きがいつも無力感につながってしまうなら、われわれはきっと諦めてしまう。それでも立ち上がれる力を私たちはどこで得られるのだろうか。 『行くあてもなく』I’m so sorry2021年/香港=フランス=オランダ/96分監督:チャオ・リン脚本:チャオ・リン撮影:チャオ・リン、スン・シャオガン音楽:ミカエル・プルニアン
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