2009年の元日、サンフランシスコ市のフルートベール駅で警官に射殺されたオスカー・グラント。彼の生涯最後の1日となった2008年12月31日を描いた作品。
2013年の作品だが、#BlackLivesMatter 運動の盛り上がりによって再度注目された。
特別だが普通の一日
2008年12月30日の深夜、オスカーは恋人のソフィーナと娘のタチアナと過ごしていた。31日はオスカーの母ワンダの誕生日、オスカーは日付が変わるとワンダに「おめでとう」と電話をして眠りにつく。
翌日、オスカーはタチアナを保育園へ、ソフィーナを職場へと送り届け、母親に電話をして誕生日会の算段をつける。母親に買って行くと約束したカニを買いに職場でもあるスーパーへ。実はオスカーは職場をクビになっていて、店長に復職を直談判するが、あっさりと断られる。
妹に借金を頼まれたオスカーは手元のドラッグを売ろうと電話を掛ける。そして、取引場所へ行くが、そこで1年前の大晦日を過ごした刑務所のことを思い出す…
貧しさ
大晦日であり、母親の誕生日でもある一日を過ごす黒人青年の姿を淡々と描いた映画。冒頭で「売人をやめたい」という発言があることからオスカーはドラッグの売人であることがわかるが、いわゆるギャングというわけではなく、ごく普通に暮らしている。
そして、まず目につくのは彼の貧しさだ。なんとか生活はしているがお金に困っている様子で、経済的困窮からドラッグの売買に手を染めたのであろうことが容易に推測できる。
のちに、決して恵まれた境遇で育ったわけではないこと、服役していたこと、職を失ったことも明らかになり、彼の貧しさの理由がわかってくる。
しかし、自業自得というわけではなく、社会が彼を貧しい境遇に追い込んでいることもみえてくる。親類たちや友人たちも決して裕福とは言えず、そんな彼らはお互い支え合って生きていくしかない。
社会は彼らを貧しくし、貧しい彼らは固まってそれをしのぐ。一部は犯罪に走り、社会は彼らに犯罪者というレッテルを貼る。そして彼らはさらに貧しくなっていく。そんな悪循環がみえてくる。
善人でも悪人でもない
そんな社会を描く一方で、この映画の本質は人間を描くことにある。オスカーは本当にごく普通の青年だ。たしかに前科はある、でも周りも認めるように悪人ではない。ドラッグの売買から足を洗いまっとうな生活をしたいと望んでもいる。子供のためにもちゃんと生きようとしている青年だ。
世の中の大部分はそんなごく普通の人たちで占められていて、それはアメリカの黒人であってもかわらない。それは当たり前だ。でもどこかでそうではないと思ってはいないだろうか?
よく言われることだが、映画にしろドラマにしろニュースにしろ、さまざまなメディアに登場するアメリカの黒人の多くは、われわれから見ると普通ではない人たちだ。もちろん、アメリカの黒人に限らずメディアに登場する人に普通ではない人は多いのだけれど、ことアメリカの黒人となると犯罪者だったりギャングだったりすることが特に多い。
その映像は知らず識らずのうちにわたしたちの頭に刷り込まれてイメージを形作ってしまっている。それはつくられたイメージに過ぎないとわかっていても、無意識に黒人男性と犯罪を結びつけてしまうのだ。私もオスカーを「本当に普通の青年だな」と思ったことで、自分の頭の中の回路がみえた気がした。
このような回路がわたしたちの頭の中に存在することがわかることが、この映画において最も重要なことなのではないだろうか。警察官に射殺されたオスカー・グラントは本当にごく普通の青年だということ。それがこの映画においていちばん重要なことだ。頭ではわかっているが実はそうではないという意識があることに映画を見るまで気づかなかったのだ。
そんなごく普通の青年が殺されてしまったこと。それはアメリカ社会が起こしてしまった不幸な事故だ。差別とイメージの歴史が作り上げた黒人像、そこから生み出される恐怖、それが彼の命を奪った。
なんともやるせなく、悲しいし、殺した警察官には罰を受けてほしいと願う。でもそれだけで済む話ではない。だから同じことがこのあとも繰り返し起きてしまっているのだ。
そこから逃れるために必要なのは、殺してしまった警察官も私も含めすべての人が「彼らも普通の人たちだ」と心の底から実感すること。それができてない人が多すぎると感じる。
死は平等か
そんな社会的な意味を考えながら、人の生き死にはどうすることもできないという素朴な感想も持った。死は誰にでも平等に訪れる。死を免れる可能性は平等ではないかもしれないが、死は平等に、人の意思とは関係なく訪れる。
身近な人が突然死ぬことは誰の身にも起こりうる。人種、年齢、性別関係なく。
それはあたり前のことだが、究極的には人は平等だということの証左なのではないか。本来人は平等である、という当たり前だけれど本当にはわかってはいないことをこの映画は意識させてくれる。
『フルートベール駅で』
Fruitvale Station
2013年,アメリカ,85分
監督:ライアン・クーグラー
脚本:ライアン・クーグラー
撮影:レイチェル・モリソン
音楽:ルドウィグ・ゴランソン
出演:マイケル・B・ジョーダン、オクタビア・スペンサー、メロニー・ディアス
https://socine.info/2020/12/25/fruitvale-station/https://i2.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2020/12/fruitvale_sub1_large.jpg?fit=640%2C347&ssl=1https://i2.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2020/12/fruitvale_sub1_large.jpg?resize=150%2C150&ssl=1ishimuraMovieBlackLivesMatter,人種差別(C)2013 OG Project, LLC. All Rights Reserved.
2009年の元日、サンフランシスコ市のフルートベール駅で警官に射殺されたオスカー・グラント。彼の生涯最後の1日となった2008年12月31日を描いた作品。
2013年の作品だが、#BlackLivesMatter 運動の盛り上がりによって再度注目された。
特別だが普通の一日
2008年12月30日の深夜、オスカーは恋人のソフィーナと娘のタチアナと過ごしていた。31日はオスカーの母ワンダの誕生日、オスカーは日付が変わるとワンダに「おめでとう」と電話をして眠りにつく。
翌日、オスカーはタチアナを保育園へ、ソフィーナを職場へと送り届け、母親に電話をして誕生日会の算段をつける。母親に買って行くと約束したカニを買いに職場でもあるスーパーへ。実はオスカーは職場をクビになっていて、店長に復職を直談判するが、あっさりと断られる。
妹に借金を頼まれたオスカーは手元のドラッグを売ろうと電話を掛ける。そして、取引場所へ行くが、そこで1年前の大晦日を過ごした刑務所のことを思い出す…
貧しさ
大晦日であり、母親の誕生日でもある一日を過ごす黒人青年の姿を淡々と描いた映画。冒頭で「売人をやめたい」という発言があることからオスカーはドラッグの売人であることがわかるが、いわゆるギャングというわけではなく、ごく普通に暮らしている。
そして、まず目につくのは彼の貧しさだ。なんとか生活はしているがお金に困っている様子で、経済的困窮からドラッグの売買に手を染めたのであろうことが容易に推測できる。
のちに、決して恵まれた境遇で育ったわけではないこと、服役していたこと、職を失ったことも明らかになり、彼の貧しさの理由がわかってくる。
しかし、自業自得というわけではなく、社会が彼を貧しい境遇に追い込んでいることもみえてくる。親類たちや友人たちも決して裕福とは言えず、そんな彼らはお互い支え合って生きていくしかない。
社会は彼らを貧しくし、貧しい彼らは固まってそれをしのぐ。一部は犯罪に走り、社会は彼らに犯罪者というレッテルを貼る。そして彼らはさらに貧しくなっていく。そんな悪循環がみえてくる。
(C)2013 OG Project, LLC. All Rights Reserved.
善人でも悪人でもない
そんな社会を描く一方で、この映画の本質は人間を描くことにある。オスカーは本当にごく普通の青年だ。たしかに前科はある、でも周りも認めるように悪人ではない。ドラッグの売買から足を洗いまっとうな生活をしたいと望んでもいる。子供のためにもちゃんと生きようとしている青年だ。
世の中の大部分はそんなごく普通の人たちで占められていて、それはアメリカの黒人であってもかわらない。それは当たり前だ。でもどこかでそうではないと思ってはいないだろうか?
よく言われることだが、映画にしろドラマにしろニュースにしろ、さまざまなメディアに登場するアメリカの黒人の多くは、われわれから見ると普通ではない人たちだ。もちろん、アメリカの黒人に限らずメディアに登場する人に普通ではない人は多いのだけれど、ことアメリカの黒人となると犯罪者だったりギャングだったりすることが特に多い。
その映像は知らず識らずのうちにわたしたちの頭に刷り込まれてイメージを形作ってしまっている。それはつくられたイメージに過ぎないとわかっていても、無意識に黒人男性と犯罪を結びつけてしまうのだ。私もオスカーを「本当に普通の青年だな」と思ったことで、自分の頭の中の回路がみえた気がした。
このような回路がわたしたちの頭の中に存在することがわかることが、この映画において最も重要なことなのではないだろうか。警察官に射殺されたオスカー・グラントは本当にごく普通の青年だということ。それがこの映画においていちばん重要なことだ。頭ではわかっているが実はそうではないという意識があることに映画を見るまで気づかなかったのだ。
そんなごく普通の青年が殺されてしまったこと。それはアメリカ社会が起こしてしまった不幸な事故だ。差別とイメージの歴史が作り上げた黒人像、そこから生み出される恐怖、それが彼の命を奪った。
なんともやるせなく、悲しいし、殺した警察官には罰を受けてほしいと願う。でもそれだけで済む話ではない。だから同じことがこのあとも繰り返し起きてしまっているのだ。
そこから逃れるために必要なのは、殺してしまった警察官も私も含めすべての人が「彼らも普通の人たちだ」と心の底から実感すること。それができてない人が多すぎると感じる。
(C)2013 OG Project, LLC. All Rights Reserved.
死は平等か
そんな社会的な意味を考えながら、人の生き死にはどうすることもできないという素朴な感想も持った。死は誰にでも平等に訪れる。死を免れる可能性は平等ではないかもしれないが、死は平等に、人の意思とは関係なく訪れる。
身近な人が突然死ぬことは誰の身にも起こりうる。人種、年齢、性別関係なく。
それはあたり前のことだが、究極的には人は平等だということの証左なのではないか。本来人は平等である、という当たり前だけれど本当にはわかってはいないことをこの映画は意識させてくれる。
https://youtu.be/iwEynmI63Pw
『フルートベール駅で』Fruitvale Station2013年,アメリカ,85分監督:ライアン・クーグラー脚本:ライアン・クーグラー撮影:レイチェル・モリソン音楽:ルドウィグ・ゴランソン出演:マイケル・B・ジョーダン、オクタビア・スペンサー、メロニー・ディアス
https://eigablog.com/vod/movie/frutvale/
https://socine.info/2020/06/15/blacklivesmatter/
Kenji
Ishimuraishimura@cinema-today.netAdministratorライター/映画観察者。
2000年から「ヒビコレエイガ」主宰、ライターとしてgreenz.jpなどに執筆中。まとめサイト→https://note.mu/ishimurakenji
映画、アート、書籍などのレビュー記事、インタビュー記事、レポート記事が得意。ソーシネ
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