© TM and2006 Twentieth Century Fox. All rights reserved.

ジャーナリスト志望のアンディは有名ファッション誌“RUNWAY”の名物編集長ミランダのアシスタントの職を見つける。ファッションにまったく興味がない彼女はダサい服で面接に行くがなぜか採用される。しかし、ミランダは人を人とも思わぬ傍若無人の上司で、アンディは私生活もめちゃくちゃになってしまうが…

同名のベストセラー・小説の映画化、軽快なテンポと魅力的な登場人物で見せる文字通り“ファッショナブル”なコメディ。

爽快なコメディとして楽しめる映画

ジャーナリスト志望の堅物がファッション誌の世界に飛び込む。大体ファッションの世界というのは堅い人たちからは軽蔑され、真面目に考えるに値しないものだと思われるものだが、この映画の主人公アンディも、その恋人のネイトもまさにそのような人たちだ。しかしアンディは、このミランダの下で1年働けばどんなところでも通用するといわれて我慢して働こうと決意する。しかし、彼女のファッションに対する気持ちは変わらず、相変わらずダサい服で行くが、ある日仕事をよりよく理解するためにミランダの片腕ナイジェルの助けを借りてファッションに気をつけるようになるという話。

映画の核はミランダの理不尽な要求をアンディがいかにこなして行くかというチャレンジで、中には『ハリー・ポッター』のまだ出版されていない最新作を手に入れて来いなんてものまである。このような理不尽さに立ち向かって行くアンディは観客を味方にすることが出来、観客は気持ちよくアンディを応援しながら展開を見守ることが出来る。そしてその展開の中でアンディは成長し、ミランダとの関係も変化して行く。恋人とのすれ違いもあり、新しいロマンスのようなものもあり、まさに“ファッショナブル”なコメディとしてのあらゆる要素を盛り込んだ快作という感じだ。

だから、あっけらかんと映画を見たいときにこの作品は非常にいい。あははと笑って、うんうんとうなずいて、小難しいことは考えずに見終わればすっきり。そんな見方でこの映画はいいはずだし、そうすればかなり楽しめる。

© TM and2006 Twentieth Century Fox. All rights reserved.

人はファッションと無関係ではありえない

しかし、それでもやはりいろいろと考える材料もある。

まず、アンディがまだダサい服を着ているとき、その“ブルー”のセーターについてミランダが講釈をたれるシーンがある。その“ブルー”(バーガンディと言っていたと思うが)が数年前にコレクションで流行ったもので、それが量産品の流行につながり、流行が過ぎるとバーゲンに回り、それをアンディが買ったというような話で、つまり「ファッションに無関心」という態度をしているアンディが実はそのファッションに服を選ばされていたということを説明するのだ。

ここには非常に深い意味があると思う。ファッションというのはただ流行を作り出すものではなく、人々の欲望と密接にかかわるものだ。アンディがその“ブルー”のセーターを手にしたのはそれがファッションであったことによって潜在的な欲望の対象となったからであり、誰もファッションと無関係ではありえないのである。つまり、ミランダは雑誌を作ると同時に人々の欲望を作ってもいる。もちろん欲望は消費につながり、だからこそファッションは巨大な産業となるわけで、ミランダはそのシステムを熟知し、それを利用することで人々の羨望と尊敬と金を集める。

しかし、欲望はそのように金を作り出すだけでなく、社会を駆動するエンジンでもある。アンディも結局は自分の欲望を満たすために苦しい仕事を我慢してやっているんだし、全ての人が最終的には自分の欲望のためにあらゆる行動を起こしている。ミランダはそのことを知った上で、人々の欲望をかき立て、社会を動かしているのだ。企画会議の中で「裁判所の女たち」とか「落下傘部隊の女たち」なんてのも出てくるが、彼女は様々な企画によって社会に存在する様々なグループのイメージを構築し、人々の意識を変えて行っているのだ。

© TM and2006 Twentieth Century Fox. All rights reserved.

本当にアンディの選択が正しかったのか

この作品は結末の部分がなんだかバタバタし今ひとつという感じになっているが、それは結局アンディがそのことを理解せず、最後までファッションを軽蔑しているからだ。彼女は結局最後までミランダとは相容れず、彼女のような生き方をすることを拒否する。しかし、実はミランダのいうことのほうが正しいのだ。ミランダもアンディも自分が信じるもののために突き進む、ミランダにとってはそれはファッションであり、アンディにとってはそれはジャーナリズムなのだ。ミランダはそのことを理解しているが、アンディは理解していない。にもかかわらずこの作品は最終的にはアンディの選択が正しいかのように終わる。

それはジャーナリストという直接的な社会への働きかけのほうがわかりやすく、意義深いものに見えるからだが、私にはミランダのやり方のほうが結局は成功に近いように思える。アンディはこのままだと空虚な意見を叫んで自己満足に浸るだけのジャーナリストになりかねない。

彼女は最後に面接に行くとき服装について「好きだから着る」と言い放つ。しかし彼女がその服を「好き」なのは本当に彼女の選択なのだろうか…

『プラダを着た悪魔』
The Dvil Wears Prada
2006年,アメリカ,110分
監督:デヴィッド・フランケル
原作:ローレン・ワイズバーガー
脚本:アライン・ブロッシュ・マッケンナ
撮影:フロリアン・バルハウス
音楽:セオドア・シャピロ
出演:メリル・ストリープ、アン・ハサウェイ、スタンリー・トゥッチ、エイドリアン・グレニアー、サイモン・ベイカー

https://i1.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2020/10/prada3.jpg?fit=1024%2C678&ssl=1https://i1.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2020/10/prada3.jpg?resize=150%2C150&ssl=1ishimuraMovieコメディ
© TM and2006 Twentieth Century Fox. All rights reserved. ジャーナリスト志望のアンディは有名ファッション誌“RUNWAY”の名物編集長ミランダのアシスタントの職を見つける。ファッションにまったく興味がない彼女はダサい服で面接に行くがなぜか採用される。しかし、ミランダは人を人とも思わぬ傍若無人の上司で、アンディは私生活もめちゃくちゃになってしまうが… 同名のベストセラー・小説の映画化、軽快なテンポと魅力的な登場人物で見せる文字通り“ファッショナブル”なコメディ。 爽快なコメディとして楽しめる映画 ジャーナリスト志望の堅物がファッション誌の世界に飛び込む。大体ファッションの世界というのは堅い人たちからは軽蔑され、真面目に考えるに値しないものだと思われるものだが、この映画の主人公アンディも、その恋人のネイトもまさにそのような人たちだ。しかしアンディは、このミランダの下で1年働けばどんなところでも通用するといわれて我慢して働こうと決意する。しかし、彼女のファッションに対する気持ちは変わらず、相変わらずダサい服で行くが、ある日仕事をよりよく理解するためにミランダの片腕ナイジェルの助けを借りてファッションに気をつけるようになるという話。 映画の核はミランダの理不尽な要求をアンディがいかにこなして行くかというチャレンジで、中には『ハリー・ポッター』のまだ出版されていない最新作を手に入れて来いなんてものまである。このような理不尽さに立ち向かって行くアンディは観客を味方にすることが出来、観客は気持ちよくアンディを応援しながら展開を見守ることが出来る。そしてその展開の中でアンディは成長し、ミランダとの関係も変化して行く。恋人とのすれ違いもあり、新しいロマンスのようなものもあり、まさに“ファッショナブル”なコメディとしてのあらゆる要素を盛り込んだ快作という感じだ。 だから、あっけらかんと映画を見たいときにこの作品は非常にいい。あははと笑って、うんうんとうなずいて、小難しいことは考えずに見終わればすっきり。そんな見方でこの映画はいいはずだし、そうすればかなり楽しめる。 © TM and2006 Twentieth Century Fox. All rights reserved. 人はファッションと無関係ではありえない しかし、それでもやはりいろいろと考える材料もある。 まず、アンディがまだダサい服を着ているとき、その“ブルー”のセーターについてミランダが講釈をたれるシーンがある。その“ブルー”(バーガンディと言っていたと思うが)が数年前にコレクションで流行ったもので、それが量産品の流行につながり、流行が過ぎるとバーゲンに回り、それをアンディが買ったというような話で、つまり「ファッションに無関心」という態度をしているアンディが実はそのファッションに服を選ばされていたということを説明するのだ。 ここには非常に深い意味があると思う。ファッションというのはただ流行を作り出すものではなく、人々の欲望と密接にかかわるものだ。アンディがその“ブルー”のセーターを手にしたのはそれがファッションであったことによって潜在的な欲望の対象となったからであり、誰もファッションと無関係ではありえないのである。つまり、ミランダは雑誌を作ると同時に人々の欲望を作ってもいる。もちろん欲望は消費につながり、だからこそファッションは巨大な産業となるわけで、ミランダはそのシステムを熟知し、それを利用することで人々の羨望と尊敬と金を集める。 しかし、欲望はそのように金を作り出すだけでなく、社会を駆動するエンジンでもある。アンディも結局は自分の欲望を満たすために苦しい仕事を我慢してやっているんだし、全ての人が最終的には自分の欲望のためにあらゆる行動を起こしている。ミランダはそのことを知った上で、人々の欲望をかき立て、社会を動かしているのだ。企画会議の中で「裁判所の女たち」とか「落下傘部隊の女たち」なんてのも出てくるが、彼女は様々な企画によって社会に存在する様々なグループのイメージを構築し、人々の意識を変えて行っているのだ。 © TM and2006 Twentieth Century Fox. All rights reserved. 本当にアンディの選択が正しかったのか この作品は結末の部分がなんだかバタバタし今ひとつという感じになっているが、それは結局アンディがそのことを理解せず、最後までファッションを軽蔑しているからだ。彼女は結局最後までミランダとは相容れず、彼女のような生き方をすることを拒否する。しかし、実はミランダのいうことのほうが正しいのだ。ミランダもアンディも自分が信じるもののために突き進む、ミランダにとってはそれはファッションであり、アンディにとってはそれはジャーナリズムなのだ。ミランダはそのことを理解しているが、アンディは理解していない。にもかかわらずこの作品は最終的にはアンディの選択が正しいかのように終わる。 それはジャーナリストという直接的な社会への働きかけのほうがわかりやすく、意義深いものに見えるからだが、私にはミランダのやり方のほうが結局は成功に近いように思える。アンディはこのままだと空虚な意見を叫んで自己満足に浸るだけのジャーナリストになりかねない。 彼女は最後に面接に行くとき服装について「好きだから着る」と言い放つ。しかし彼女がその服を「好き」なのは本当に彼女の選択なのだろうか… https://youtu.be/UruFCjbi5EQ 『プラダを着た悪魔』The Dvil Wears Prada2006年,アメリカ,110分監督:デヴィッド・フランケル原作:ローレン・ワイズバーガー脚本:アライン・ブロッシュ・マッケンナ撮影:フロリアン・バルハウス音楽:セオドア・シャピロ出演:メリル・ストリープ、アン・ハサウェイ、スタンリー・トゥッチ、エイドリアン・グレニアー、サイモン・ベイカー https://eigablog.com/vod/movie/devil-wears-prada/
Share this: