『鉄西区』第一部「工場」

いまや中国を代表するドキュメンタリー作家の一人となった王兵(ワン・ビン)のデビュー作にして代表作の『鉄西区』。ワン・ビンは1999年から3年間に渡り中国北東部瀋陽の工業地域・鉄西区で暮らしながら映画を撮影した。1930年代に作られた鉄西区の工場の多くが徐々に閉鎖され、ワン・ビンが去る2001年にはほとんどの工場が稼働を停止していた。

ワン・ビンはその「滅びゆく街」を第一部「工場」、第二部「街」、第三部「鉄路」という三部構成、合計9時間で描ききった。

この大長編が評価されたのは、中国社会の今をリアルに描いた作品だったということが大きいが、当時の中国の社会事情を知らずに見ても面白い。それはこの作品が普遍的な「人間」や「街という小さな社会」を描いているからだ。

一体この映画の何が面白いのか考えたい。

描かれているのは人々

この映画はタイトルの通り鉄西区という場所を題材にした映画だ。しかし、ワン・ビンが焦点を当てるのは常に人である。

第一部の序盤から主に映画を構成するのは作業員たちの休憩室での会話だ。彼らは仕事終わりに休憩室で酒を飲んで酔って喧嘩をし、全裸になって風呂に行き、将棋を打ったり、給料に文句を言ったり、工場の先行きに不満を漏らしたりする。ワン・ビンはその様子をじっくりと映し出す。そこになにか意味があるわけではないけれど、ここにこういう人たちがいた事自体に意味があることを示すかのように。

その傾向は第二部、第三部に至っても変わらない。場所が変わり被写体が変わるけれど、基本は会話でその意味は説明されない。なぜワン・ビンはそうしたのか、そんな意味のない会話を9時間観続けると何がわかってくるのか。第一部ではよくわからないが第二部、第三部と進むにつれて徐々にわかってくる。

第一部は「労働者」の物語

第一部「工場」は鉄西区にある様々な工場とそこで働く人々が登場する。銅、亜鉛、鉛を溶解したり、圧延したり、電解したりする工場の作業員、ケーブル工場の事務員、工場が停止している間に点検補修作業をする臨時工たちだ。

4時間という長い時間ではあるがかなり多くの人たちが登場し、それぞれ独立しているのでそこにいわゆる「物語」は存在しない。主人公のような人もグループもいないのだ。

だから散漫とした印象があり、時には退屈にも感じる。作業員たちがやることといえば、文句を言いながら作業をし、酒を飲み、博打をし、喧嘩をし、風呂に入る、そんなことばかりだからだ。

ただ、だからといって彼らが個性のない人々の群れに見えるかというとそういうわけではない。行動や会話の内容にはそれぞれ個性があり、様々な人が「作業員」という肩書にくくられているだけだとわかるのだ。特に彼らは素直に感情を表すので、(それで喧嘩も起こるわけだが)それぞれが異なる考えを持っていることがよく分かる。

だからこそ全体として「物語」になりにくく、散漫とした印象にもなるのだけれど、人が生きるとはそういうことだ。人々の人生は一つの物語に収斂したりしない。それぞれがそれぞれの物語を生きる。

滅びゆくものの美しさをとらえる

そんな人々の人生の断片をかき集め一つの「物語」を編み上げるドキュメンタリー作家もいるが、ワン・ビンはそうせずにただただ断片を並べた。しかし、その断片は「なくなりつつある工業地帯」という背景の上に並べられることで一つの風景を作り上げていく。漠然としているはずの「滅びゆくもの」の姿をとらえるのだ。

個人にとってはそれは仕事が減り、給料が減り、最終的には自宅待機になったり、職を失ったりすることだ。ただ、それに加えて建物自体が崩壊していく姿や、すでにボロボロの内装や、増えていく休みなどの要素があることで、街が滅びゆくことがどういうことなのかが見えてくるのだ。

4時間という時間をかけてワン・ビンがやろうとしたのはこの滅びゆく姿を捉えることなのではないだろうか。そして、それは鉄西区の姿を留めることであると同時に、世界中の様々な場所ですでに生まれ、これからも生まれるであろう「滅びゆく街」を描くことでもある。

この第一部を見ながらしばしば「廃墟になりつつある建物の美しさ」を感じた。私は廃墟マニアではないけれど、廃墟に美しさを感じることもある。その美しさの源泉はそこに生きた人々の生活の残滓なのだろう。「ただの工場」が「美しい廃墟」変わりゆく映像を見ながらそんなことを思った。

第二部は若者と家族の物語

第一部に登場する人物はほとんどがおじさん(時々、おばさん)で若者はほとんど登場しない。まあ閉鎖されようとしている工場で働いている人たちだから当然といえば当然だが、彼らの家族も登場しないというのは少し不思議だった。

その家族が登場するのが第二部「街」だ。

工場が閉鎖されてゆくのに伴い、労働者たちが暮らす街の家屋も取り壊され再開発が始まり、住人たちは立ち退きを迫られる。第二部の主人公はそんな街に暮らす十代の若者たち。変わりゆく街で彼らはどんな暮らしをし、どんな未来を描くのか。

若者たちの考えること、やることは世界中どこでも同じだ。恋愛に重きを置き、友だちと遊び、時に悪さをする。ここ鉄西区でも誰が誰を好きで、バレンタインに花をあげるだの、ラブレターを渡すだのという話をする。そのあたりは単純に青春群像劇として面白い。

鉄西区が他と違うところがあるとすれば、コミュニティがしっかりとあるところだろうか。雑貨屋のような店を中心に人々は交流し、結構踏み込んだ関係性を築いている。

そして、だからこそ立ち退きによってドラマが生まれる。人々は立ち退いたあとにもらえる家の広さや立ち退き条件について情報を交換し、「それなら立ち退かない」とか「もっと交渉する」と言い合う。それでも早くに居なくなる人もいれば、最後まで居座る人もいる。居座る人たちの家は電気も水道も止められて、不便な中で生活するようになるのだけれど、それでもたくましく生きていく。

国家との関係

ここに描かれているのは国家と人々の関係でもある。第一部から国家の影はちらついている。中国では人々は国家に従うしかない。給料も、労働条件も、住む場所も国家に決められているのだろう。でも、ただ盲従しているわけではなく、給料のやすさや立ち退きのことについて文句も言うし、すきを突いて?アルバイトをしたり、不用品を拾って転売したりすることで国家からかすめ取ることもしている。

それでも国家に対する感謝というか支持もあるようで、カラオケでは国家体制を賛美するような歌を歌う(それしか知らないのかもしれないが)。

この国家に対して抱いている微妙な感情が日本に暮らす私にはちょっとわかりにくかった。中国人ならその機微がわかるのだろうなぁと想像するけれど、どうしても実感としてわからなかったのだ。

ただ、第三部ではもう少しその関係に踏み込んでいく。

第三部は家族と周縁の物語

第三部には老杜(ラオトー)とその息子の杜洋という主人公がいる。

第三部の冒頭から登場する老杜は、鉄西区の鉄道の周辺で石炭や鉄くずをくすねて生計を立てている。その老杜が暮らすボロ屋には17歳の息子杜洋がいる。そのボロ屋は違法建築でそもそもそこに住むことは許されていない。杜洋の何年も前に出ていってしまっていない。

その老杜を鉄道員たちは受け入れている。仲間ではないけれど、そこにいる存在として石炭を掠め取ったりしても不問に付す。

しかし、ある時、誰かに密告され老杜は警察に捕まってしまう。

ここに描かれるのは国家体制の周縁にこぼれ落ちてしまった人々の危うさだ。老杜もかつてはちゃんとした仕事についていた、しかしどこかで転落が始まり、定食を失い、極貧の生活を送ることになってしまった。

こういう人たちは可視化されていないがたくさんいるはずだ。共産主義の国家体制においては存在しないはずの人々が。

でもこのエピソードは国家批判ではない。彼らは体制からはこぼれ落ちたがそれでも周りの人たちに助けられなんとか生きているし、警察に捕まった老杜も不問に付され帰ってくる。そして1年後のエピソードでは新天地で新しい暮らしを手に入れているのだ。

1年ぶりに帰ってきた老杜を鉄道員たちは暖かく迎え入れ、昔話に花を咲かせる。

滅びゆく街の人々のつながり

この温かみというか人々のつながりが実はこの映画を貫いていた一本の筋なのかもしれない。

表面的にはすぐに言い合いをし、喧嘩をする人たちだが、その対立は一時的なもので、その後には和解が待っているのだ。

第三部ではそのことが印象的に描かれる。鉄道の進行の邪魔になっていた車輪を撤去された若者が事務所に怒鳴り込んでくる。鉄道員もそれに応じ、いまにもつかみかからんという言い合いになる。ただ、お互いに言い方が悪かったという結論に達し、若者がまず謝り、車輪を引き取って握手をして立ち去る。

ここでわかるのは彼らの喧嘩は利害の対立から生じるものではなく、人と人との関係性のあり方によって生じるもので、相互理解が生じれば解消されるものだということだ。それが意味するのは、この鉄西区のコミュニティで価値観が共有されていることであり、そこからそれる行動をする人を戒めるのが是とされているということだ。

ここから話を大きくすると、中国の人たちは人と人との関係を大事にする人たちだということだ。その中心には血縁があるのだろうが(この映画でも家族や親戚のつながりは強い)、地域のつながりも強い。

その関係は言ってしまえば国家との関係より強い。もちろん国家に歯向かうことはできない。でも国家統制の間隙をついて家族や地域の人々のために何かをするのは彼らにとっては正しいことなのではないか。

老杜と周りの人たちの関係をみながら中国の人たちと国家の関係が少しわかった気がした。

『鉄西区』第一部「工場」
2003年/中国/240分
『鉄西区』第二部「街」
2003年/中国/175分
『鉄西区』第三部「鉄路」
2003年/中国/130分
監督・撮影・編集:ワン・ビン

この作品『鉄西区』ほかワン・ビンの主な作品が「Help! The 映画配給会社プロジェクト」の「ムヴィオラ配信見放題パック」で観ることができます。11月15日までの期間限定ですので、興味のある方はぜひ!

https://i2.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2020/08/tetsunishi1.jpg?fit=600%2C313&ssl=1https://i2.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2020/08/tetsunishi1.jpg?resize=150%2C150&ssl=1ishimuraMovieドキュメンタリー,ワン・ビン
いまや中国を代表するドキュメンタリー作家の一人となった王兵(ワン・ビン)のデビュー作にして代表作の『鉄西区』。ワン・ビンは1999年から3年間に渡り中国北東部瀋陽の工業地域・鉄西区で暮らしながら映画を撮影した。1930年代に作られた鉄西区の工場の多くが徐々に閉鎖され、ワン・ビンが去る2001年にはほとんどの工場が稼働を停止していた。 ワン・ビンはその「滅びゆく街」を第一部「工場」、第二部「街」、第三部「鉄路」という三部構成、合計9時間で描ききった。 この大長編が評価されたのは、中国社会の今をリアルに描いた作品だったということが大きいが、当時の中国の社会事情を知らずに見ても面白い。それはこの作品が普遍的な「人間」や「街という小さな社会」を描いているからだ。 一体この映画の何が面白いのか考えたい。 描かれているのは人々 この映画はタイトルの通り鉄西区という場所を題材にした映画だ。しかし、ワン・ビンが焦点を当てるのは常に人である。 第一部の序盤から主に映画を構成するのは作業員たちの休憩室での会話だ。彼らは仕事終わりに休憩室で酒を飲んで酔って喧嘩をし、全裸になって風呂に行き、将棋を打ったり、給料に文句を言ったり、工場の先行きに不満を漏らしたりする。ワン・ビンはその様子をじっくりと映し出す。そこになにか意味があるわけではないけれど、ここにこういう人たちがいた事自体に意味があることを示すかのように。 その傾向は第二部、第三部に至っても変わらない。場所が変わり被写体が変わるけれど、基本は会話でその意味は説明されない。なぜワン・ビンはそうしたのか、そんな意味のない会話を9時間観続けると何がわかってくるのか。第一部ではよくわからないが第二部、第三部と進むにつれて徐々にわかってくる。 第一部は「労働者」の物語 第一部「工場」は鉄西区にある様々な工場とそこで働く人々が登場する。銅、亜鉛、鉛を溶解したり、圧延したり、電解したりする工場の作業員、ケーブル工場の事務員、工場が停止している間に点検補修作業をする臨時工たちだ。 4時間という長い時間ではあるがかなり多くの人たちが登場し、それぞれ独立しているのでそこにいわゆる「物語」は存在しない。主人公のような人もグループもいないのだ。 だから散漫とした印象があり、時には退屈にも感じる。作業員たちがやることといえば、文句を言いながら作業をし、酒を飲み、博打をし、喧嘩をし、風呂に入る、そんなことばかりだからだ。 ただ、だからといって彼らが個性のない人々の群れに見えるかというとそういうわけではない。行動や会話の内容にはそれぞれ個性があり、様々な人が「作業員」という肩書にくくられているだけだとわかるのだ。特に彼らは素直に感情を表すので、(それで喧嘩も起こるわけだが)それぞれが異なる考えを持っていることがよく分かる。 だからこそ全体として「物語」になりにくく、散漫とした印象にもなるのだけれど、人が生きるとはそういうことだ。人々の人生は一つの物語に収斂したりしない。それぞれがそれぞれの物語を生きる。 滅びゆくものの美しさをとらえる そんな人々の人生の断片をかき集め一つの「物語」を編み上げるドキュメンタリー作家もいるが、ワン・ビンはそうせずにただただ断片を並べた。しかし、その断片は「なくなりつつある工業地帯」という背景の上に並べられることで一つの風景を作り上げていく。漠然としているはずの「滅びゆくもの」の姿をとらえるのだ。 個人にとってはそれは仕事が減り、給料が減り、最終的には自宅待機になったり、職を失ったりすることだ。ただ、それに加えて建物自体が崩壊していく姿や、すでにボロボロの内装や、増えていく休みなどの要素があることで、街が滅びゆくことがどういうことなのかが見えてくるのだ。 4時間という時間をかけてワン・ビンがやろうとしたのはこの滅びゆく姿を捉えることなのではないだろうか。そして、それは鉄西区の姿を留めることであると同時に、世界中の様々な場所ですでに生まれ、これからも生まれるであろう「滅びゆく街」を描くことでもある。 この第一部を見ながらしばしば「廃墟になりつつある建物の美しさ」を感じた。私は廃墟マニアではないけれど、廃墟に美しさを感じることもある。その美しさの源泉はそこに生きた人々の生活の残滓なのだろう。「ただの工場」が「美しい廃墟」変わりゆく映像を見ながらそんなことを思った。 第二部は若者と家族の物語 第一部に登場する人物はほとんどがおじさん(時々、おばさん)で若者はほとんど登場しない。まあ閉鎖されようとしている工場で働いている人たちだから当然といえば当然だが、彼らの家族も登場しないというのは少し不思議だった。 その家族が登場するのが第二部「街」だ。 工場が閉鎖されてゆくのに伴い、労働者たちが暮らす街の家屋も取り壊され再開発が始まり、住人たちは立ち退きを迫られる。第二部の主人公はそんな街に暮らす十代の若者たち。変わりゆく街で彼らはどんな暮らしをし、どんな未来を描くのか。 若者たちの考えること、やることは世界中どこでも同じだ。恋愛に重きを置き、友だちと遊び、時に悪さをする。ここ鉄西区でも誰が誰を好きで、バレンタインに花をあげるだの、ラブレターを渡すだのという話をする。そのあたりは単純に青春群像劇として面白い。 鉄西区が他と違うところがあるとすれば、コミュニティがしっかりとあるところだろうか。雑貨屋のような店を中心に人々は交流し、結構踏み込んだ関係性を築いている。 そして、だからこそ立ち退きによってドラマが生まれる。人々は立ち退いたあとにもらえる家の広さや立ち退き条件について情報を交換し、「それなら立ち退かない」とか「もっと交渉する」と言い合う。それでも早くに居なくなる人もいれば、最後まで居座る人もいる。居座る人たちの家は電気も水道も止められて、不便な中で生活するようになるのだけれど、それでもたくましく生きていく。 国家との関係 ここに描かれているのは国家と人々の関係でもある。第一部から国家の影はちらついている。中国では人々は国家に従うしかない。給料も、労働条件も、住む場所も国家に決められているのだろう。でも、ただ盲従しているわけではなく、給料のやすさや立ち退きのことについて文句も言うし、すきを突いて?アルバイトをしたり、不用品を拾って転売したりすることで国家からかすめ取ることもしている。 それでも国家に対する感謝というか支持もあるようで、カラオケでは国家体制を賛美するような歌を歌う(それしか知らないのかもしれないが)。 この国家に対して抱いている微妙な感情が日本に暮らす私にはちょっとわかりにくかった。中国人ならその機微がわかるのだろうなぁと想像するけれど、どうしても実感としてわからなかったのだ。 ただ、第三部ではもう少しその関係に踏み込んでいく。 第三部は家族と周縁の物語 第三部には老杜(ラオトー)とその息子の杜洋という主人公がいる。 第三部の冒頭から登場する老杜は、鉄西区の鉄道の周辺で石炭や鉄くずをくすねて生計を立てている。その老杜が暮らすボロ屋には17歳の息子杜洋がいる。そのボロ屋は違法建築でそもそもそこに住むことは許されていない。杜洋の何年も前に出ていってしまっていない。 その老杜を鉄道員たちは受け入れている。仲間ではないけれど、そこにいる存在として石炭を掠め取ったりしても不問に付す。 しかし、ある時、誰かに密告され老杜は警察に捕まってしまう。 ここに描かれるのは国家体制の周縁にこぼれ落ちてしまった人々の危うさだ。老杜もかつてはちゃんとした仕事についていた、しかしどこかで転落が始まり、定食を失い、極貧の生活を送ることになってしまった。 こういう人たちは可視化されていないがたくさんいるはずだ。共産主義の国家体制においては存在しないはずの人々が。 でもこのエピソードは国家批判ではない。彼らは体制からはこぼれ落ちたがそれでも周りの人たちに助けられなんとか生きているし、警察に捕まった老杜も不問に付され帰ってくる。そして1年後のエピソードでは新天地で新しい暮らしを手に入れているのだ。 1年ぶりに帰ってきた老杜を鉄道員たちは暖かく迎え入れ、昔話に花を咲かせる。 滅びゆく街の人々のつながり この温かみというか人々のつながりが実はこの映画を貫いていた一本の筋なのかもしれない。 表面的にはすぐに言い合いをし、喧嘩をする人たちだが、その対立は一時的なもので、その後には和解が待っているのだ。 第三部ではそのことが印象的に描かれる。鉄道の進行の邪魔になっていた車輪を撤去された若者が事務所に怒鳴り込んでくる。鉄道員もそれに応じ、いまにもつかみかからんという言い合いになる。ただ、お互いに言い方が悪かったという結論に達し、若者がまず謝り、車輪を引き取って握手をして立ち去る。 ここでわかるのは彼らの喧嘩は利害の対立から生じるものではなく、人と人との関係性のあり方によって生じるもので、相互理解が生じれば解消されるものだということだ。それが意味するのは、この鉄西区のコミュニティで価値観が共有されていることであり、そこからそれる行動をする人を戒めるのが是とされているということだ。 ここから話を大きくすると、中国の人たちは人と人との関係を大事にする人たちだということだ。その中心には血縁があるのだろうが(この映画でも家族や親戚のつながりは強い)、地域のつながりも強い。 その関係は言ってしまえば国家との関係より強い。もちろん国家に歯向かうことはできない。でも国家統制の間隙をついて家族や地域の人々のために何かをするのは彼らにとっては正しいことなのではないか。 老杜と周りの人たちの関係をみながら中国の人たちと国家の関係が少しわかった気がした。 『鉄西区』第一部「工場」2003年/中国/240分『鉄西区』第二部「街」2003年/中国/175分『鉄西区』第三部「鉄路」2003年/中国/130分監督・撮影・編集:ワン・ビン この作品『鉄西区』ほかワン・ビンの主な作品が「Help! The 映画配給会社プロジェクト」の「ムヴィオラ配信見放題パック」で観ることができます。11月15日までの期間限定ですので、興味のある方はぜひ! https://www.uplink.co.jp/cloud/features/2413/
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