放射性廃棄物の最終処分場として建設が進むフィンランドの「オンカロ」。耐用年数10万年といういまだかつてない建造物は地下深くにある18億年前の地層に掘られている。
ドキュメンタリー作家のマイケル・マドセンは建設現場を取材、さらに計画に携わる関係者から話を聞き、果たして本当に10万年後まで安全なのかを調べていく。
オンカロは10万年後の人類の安全を守れるのか
クラフトワークの「レーディーオーアクティービティー」の歌声が妙に耳に残るこの映画には、目を背けたくなるような事実がいくつも出てくる。例えばこの「オンカロ」が世界で最初の最終処分場だということ。25万トン以上の高レベル廃棄物があると言うのに、その最終処分場はまだ世界のどこにもないのだ。
あるいは単純に高レベル廃棄物が無害になるまで10万年かかるということ。10万年前といえばアフリカで現生人類が誕生した頃だという説明もある。10万年前の人類がああだとしたら、10万年後の人類はどうなっているのか想像することすら難しい。
そして、想像することすら難しいからこそ、オンカロをどう作るかも非常に難しくなると関係者は口を揃えて言う。この施設が危険であることをどう伝えるか、あるいは隠して伝えないほうがいいのか。
彼らが危惧するのは、私たちが遺跡を発掘したように将来の人類が知らずにオンカロを発掘してしまうことだ。そうして被曝して悲劇が起きるかも知れないと。
マドセンは大事なのは「忘れることを決して忘れないようにする」ことだと結論づける。将来の人類はオンカロが存在していることをずっと忘れていなければいけない。思い出してもいけないし、再発見してもいけない。
彼らの言いたいことはわかる。10万年後、いや1万年後でも人類がどうなっているかなんてわからない。1万年前といえば日本では縄文時代、世界的にみると中国や中東で農耕が始まったとされる時代で、その頃と現代では文化も言語も何もかも違っている。
だから、1万年後の人々も私たちの言語を理解しないかも知れないし、放射性物質の何たるかもわからなくなっているかも知れないと危惧するのだ。
未来にもっと希望を持っていいのではないか
ただ、私はこの映画を見ながら、未来にもっと希望を持っていいのではないかとも思った。
途中で科学者の一人が、放射性物質を無害化することは理論的には可能だと言っていた。ただ、今の技術では実現不可能なんだと。ならば、将来的には可能になるかも知れないということだ。
なぜ、みな人類は退化していくと考えているのか。この10万年の人類の歩みは進化の歩みだ。しかも進化の速度は急激に上がっている。もちろん現代の地球と人類には様々な危機があるし、人類が滅びる恐れだってある。でも、人口が減少しながらも進歩していく可能性のほうが高いんじゃないだろうか。
そんな人類に期待する人物が登場しないことに違和感を感じた。どうして将来の人類の可能性を信じないのだろう?
大事なのは、廃棄物をこれ以上増やさないこと
映画として現状を知ってもらい、未来への危機感を共有することが目的だと考えるなら、そういう悲観的な味方の人ばかり登場するのもうなずける。
そして、この映画が盛んに言うのは、将来の世代に課題を押し付けないということだ。そう言われるとそれは正しい気がするが、果たしてそうなのだろうか?私たちにそんな事ができるのだろうか?正しい保管方法もわからないのに。
私はむしろ、将来の世代に託したほうがいいのではないかと思う。彼らの押し付けないというのはべき論に過ぎず、そもそも「自分たちの世代がこんなふうにしてしまったんだ」という罪悪感から出てきた発想ではないだろうか。
私はむしろ、今の問題自体が前の世代に押し付けられたものだと思うし、私たちはその割によくやってると思う。そして、後の世代はもっとうまくやってくれるんじゃないかと思う。
私たちは自分たちの手に負えない問題を背伸びしてなんとかしようとするのではなく、自分たちにできることをまずするべきだ。それは何かというと、これ以上、廃棄物を増やさないことだ。
オンカロを作ってみるという試みは間違っていないと思う。それも自分たちにできることをやってみることだから。でも、おそらくオンカロは最終的な答えではないだろう。映画の中にも出てくるが、世界中の放射性廃棄物を最終処分するためにいったいオンカロが何個いるのか。結局、この方法では問題を解決できないのではないか。
だとしたら、まずやらなければいけないのは廃棄物を増やさないことだ。そのために自然エネルギーを推進し、エネルギーをなるべく使わないようにして原発をなくし、核兵器もなくし、出てしまった廃棄物はできる限り安全に保管する。
私たちにできることはそれしかないのではないか。10万年なんて手に負えない未来のことを考えるよりも、10年後100年後のことを考えれば、そのほうがいいように思えてならない。
『100,000年後の安全』
2009年/デンマーク=スウェーデン=フィンランド=イタリア/75分
監督:マイケル・マドセン
脚本:マイケル・マドセン、ジャスパー・ベルグマン
撮影:ヘイッキ・ファルム
音楽:カルステン・フンダル
https://socine.info/2020/05/27/100000years/https://i1.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2020/05/100000_sub03_large.jpg?fit=500%2C280&ssl=1https://i1.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2020/05/100000_sub03_large.jpg?resize=150%2C140&ssl=1ishimuraMovieVODドキュメンタリー,原発放射性廃棄物の最終処分場として建設が進むフィンランドの「オンカロ」。耐用年数10万年といういまだかつてない建造物は地下深くにある18億年前の地層に掘られている。
ドキュメンタリー作家のマイケル・マドセンは建設現場を取材、さらに計画に携わる関係者から話を聞き、果たして本当に10万年後まで安全なのかを調べていく。
オンカロは10万年後の人類の安全を守れるのか
クラフトワークの「レーディーオーアクティービティー」の歌声が妙に耳に残るこの映画には、目を背けたくなるような事実がいくつも出てくる。例えばこの「オンカロ」が世界で最初の最終処分場だということ。25万トン以上の高レベル廃棄物があると言うのに、その最終処分場はまだ世界のどこにもないのだ。
あるいは単純に高レベル廃棄物が無害になるまで10万年かかるということ。10万年前といえばアフリカで現生人類が誕生した頃だという説明もある。10万年前の人類がああだとしたら、10万年後の人類はどうなっているのか想像することすら難しい。
そして、想像することすら難しいからこそ、オンカロをどう作るかも非常に難しくなると関係者は口を揃えて言う。この施設が危険であることをどう伝えるか、あるいは隠して伝えないほうがいいのか。
彼らが危惧するのは、私たちが遺跡を発掘したように将来の人類が知らずにオンカロを発掘してしまうことだ。そうして被曝して悲劇が起きるかも知れないと。
マドセンは大事なのは「忘れることを決して忘れないようにする」ことだと結論づける。将来の人類はオンカロが存在していることをずっと忘れていなければいけない。思い出してもいけないし、再発見してもいけない。
彼らの言いたいことはわかる。10万年後、いや1万年後でも人類がどうなっているかなんてわからない。1万年前といえば日本では縄文時代、世界的にみると中国や中東で農耕が始まったとされる時代で、その頃と現代では文化も言語も何もかも違っている。
だから、1万年後の人々も私たちの言語を理解しないかも知れないし、放射性物質の何たるかもわからなくなっているかも知れないと危惧するのだ。
未来にもっと希望を持っていいのではないか
ただ、私はこの映画を見ながら、未来にもっと希望を持っていいのではないかとも思った。
途中で科学者の一人が、放射性物質を無害化することは理論的には可能だと言っていた。ただ、今の技術では実現不可能なんだと。ならば、将来的には可能になるかも知れないということだ。
なぜ、みな人類は退化していくと考えているのか。この10万年の人類の歩みは進化の歩みだ。しかも進化の速度は急激に上がっている。もちろん現代の地球と人類には様々な危機があるし、人類が滅びる恐れだってある。でも、人口が減少しながらも進歩していく可能性のほうが高いんじゃないだろうか。
そんな人類に期待する人物が登場しないことに違和感を感じた。どうして将来の人類の可能性を信じないのだろう?
大事なのは、廃棄物をこれ以上増やさないこと
映画として現状を知ってもらい、未来への危機感を共有することが目的だと考えるなら、そういう悲観的な味方の人ばかり登場するのもうなずける。
そして、この映画が盛んに言うのは、将来の世代に課題を押し付けないということだ。そう言われるとそれは正しい気がするが、果たしてそうなのだろうか?私たちにそんな事ができるのだろうか?正しい保管方法もわからないのに。
私はむしろ、将来の世代に託したほうがいいのではないかと思う。彼らの押し付けないというのはべき論に過ぎず、そもそも「自分たちの世代がこんなふうにしてしまったんだ」という罪悪感から出てきた発想ではないだろうか。
私はむしろ、今の問題自体が前の世代に押し付けられたものだと思うし、私たちはその割によくやってると思う。そして、後の世代はもっとうまくやってくれるんじゃないかと思う。
私たちは自分たちの手に負えない問題を背伸びしてなんとかしようとするのではなく、自分たちにできることをまずするべきだ。それは何かというと、これ以上、廃棄物を増やさないことだ。
オンカロを作ってみるという試みは間違っていないと思う。それも自分たちにできることをやってみることだから。でも、おそらくオンカロは最終的な答えではないだろう。映画の中にも出てくるが、世界中の放射性廃棄物を最終処分するためにいったいオンカロが何個いるのか。結局、この方法では問題を解決できないのではないか。
だとしたら、まずやらなければいけないのは廃棄物を増やさないことだ。そのために自然エネルギーを推進し、エネルギーをなるべく使わないようにして原発をなくし、核兵器もなくし、出てしまった廃棄物はできる限り安全に保管する。
私たちにできることはそれしかないのではないか。10万年なんて手に負えない未来のことを考えるよりも、10年後100年後のことを考えれば、そのほうがいいように思えてならない。
『100,000年後の安全』2009年/デンマーク=スウェーデン=フィンランド=イタリア/75分監督:マイケル・マドセン脚本:マイケル・マドセン、ジャスパー・ベルグマン撮影:ヘイッキ・ファルム音楽:カルステン・フンダル
Kenji
Ishimuraishimura@cinema-today.netAdministratorライター/映画観察者。
2000年から「ヒビコレエイガ」主宰、ライターとしてgreenz.jpなどに執筆中。まとめサイト→https://note.mu/ishimurakenji
映画、アート、書籍などのレビュー記事、インタビュー記事、レポート記事が得意。ソーシネ
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