1998年、チェルノブイリ原発から4キロに位置する町プリピャチにカメラが入る。原発から30キロ以内は立入禁止区域で、そのエリア「ゾーン」からものを持ち出すことはできない。しかし、そのプリピャチには畑を耕し魚を獲って暮らす人々がいる。彼らは一旦は避難したもののふるさとで暮らしたくて戻ってきた老人たちだ。

またチェルノブイリ原発は稼働を続けている原子炉もあり、そこにはもちろん今も働いている人達がいる。彼らはゾーンの外から通勤してきているが、事故以前はプリピャチに暮らしていた人もいる。

のちに『いのちの食べ方』を撮るニコラウス・ゲイハルター監督が全編モノクロで完成させたチェルノブイリの12年後を描いたドキュメンタリー。

結局誰にもわからない放射能の影響

「放射線は人間の五感では感じられない」これはもうほとんどすべての人が知っている事実だと思う。この映画はまずそのことを説明し、インタビューを受ける人々の話から、原発から4キロのプリピャチで暮らすことが危険だという印象を観客が抱くようにさせる。

しかし、そこで暮らし、畑でできたものや川で捕れた魚を食べて暮らす人々がいる。実際に彼らの体は内側から被曝しているのだろう。でも彼らは老人で、被爆が深刻な病を起こすまで生きているかどうかはわからない。

映画の途中でチェルノブイリの科学者が登場し、放射線がDNAを破壊することを説明する。それは事実なのだろう。でも、それがいつどのような形で健康に影響を与えるのかはわからない。大量に浴びれば即死するし、かなりの量を浴びれば数日で死に至ることはわかっているが、どれくらいの量を浴びたらどのような影響があるのかはわからないのだ。

だから彼らはプリピャチで暮らす。影響は出るのだろうけれどどれくらい大きいかわからない健康被害を避けるために見知らぬ土地で暮らすより、慣れ親しんだ故郷で静かに死んでいったほうがいいと考えるのだ。もしかしたら寿命が尽きるまで健康に生きられるかも知れないから。

この映画では何もかもがわからないし、廃墟となった無人の街ばかり映るし、映像はモノクロだしで、全体にどこか夢のような印象を受ける。現実を切り取ったドキュメンタリーなのにまったく現実感がないのだ。

奪われた現実

しかし、映画の終盤でその夢から覚める瞬間がある。それは、プリピャチの研究所で働く女性がかつて住んでいた家に撮影クルーを招待するシーン。彼女は映画の前半で行くたびに悲しくなるから昔住んでいた家には行かないといっていた女性だ。

彼女がかつて住んでいた家にカメラが入ると、そこで「人が住んでいた」という厳然たる現実が映し出される。

そこでようやく私たちはここは現実の場所で、これは現実の出来事だったんだと実感を持つことができる。

それはどういうことかと言うと、それまで映されていたものは、すべて現実が奪われた跡だったということだ。原発事故前プリピャチには多くの人たちが暮らし、子供たちは走り回り、競技場ではサッカーの試合が行われていた。その現実すべてが事故によって奪われ、それで夢のような場所になってしまった。

夢は基本的に記憶から作られる。この場所はもはや記憶に過ぎなくなってしまったのだ。映画の中で「もう永遠に人は住めない」という証言も出てくるように、プリピャチはもう人類にとって現実の土地ではない。

それでもそこに住んでいる人がいるという事実をこの映画は提示する。そこにあるのは「現実とはなにか」という哲学的な問いではないだろうか。

『プリピャチ』
Prypyat
1999年/オーストリア/100分
監督:ニコラウス・ゲイハルター
撮影:ニコラウス・ゲイハルター

https://socine.info/wp-content/uploads/2020/05/pripyat_top.jpghttps://socine.info/wp-content/uploads/2020/05/pripyat_top-300x300.jpgishimuraMovieVOD原発事故
1998年、チェルノブイリ原発から4キロに位置する町プリピャチにカメラが入る。原発から30キロ以内は立入禁止区域で、そのエリア「ゾーン」からものを持ち出すことはできない。しかし、そのプリピャチには畑を耕し魚を獲って暮らす人々がいる。彼らは一旦は避難したもののふるさとで暮らしたくて戻ってきた老人たちだ。 またチェルノブイリ原発は稼働を続けている原子炉もあり、そこにはもちろん今も働いている人達がいる。彼らはゾーンの外から通勤してきているが、事故以前はプリピャチに暮らしていた人もいる。 のちに『いのちの食べ方』を撮るニコラウス・ゲイハルター監督が全編モノクロで完成させたチェルノブイリの12年後を描いたドキュメンタリー。 結局誰にもわからない放射能の影響 「放射線は人間の五感では感じられない」これはもうほとんどすべての人が知っている事実だと思う。この映画はまずそのことを説明し、インタビューを受ける人々の話から、原発から4キロのプリピャチで暮らすことが危険だという印象を観客が抱くようにさせる。 しかし、そこで暮らし、畑でできたものや川で捕れた魚を食べて暮らす人々がいる。実際に彼らの体は内側から被曝しているのだろう。でも彼らは老人で、被爆が深刻な病を起こすまで生きているかどうかはわからない。 映画の途中でチェルノブイリの科学者が登場し、放射線がDNAを破壊することを説明する。それは事実なのだろう。でも、それがいつどのような形で健康に影響を与えるのかはわからない。大量に浴びれば即死するし、かなりの量を浴びれば数日で死に至ることはわかっているが、どれくらいの量を浴びたらどのような影響があるのかはわからないのだ。 だから彼らはプリピャチで暮らす。影響は出るのだろうけれどどれくらい大きいかわからない健康被害を避けるために見知らぬ土地で暮らすより、慣れ親しんだ故郷で静かに死んでいったほうがいいと考えるのだ。もしかしたら寿命が尽きるまで健康に生きられるかも知れないから。 この映画では何もかもがわからないし、廃墟となった無人の街ばかり映るし、映像はモノクロだしで、全体にどこか夢のような印象を受ける。現実を切り取ったドキュメンタリーなのにまったく現実感がないのだ。 奪われた現実 しかし、映画の終盤でその夢から覚める瞬間がある。それは、プリピャチの研究所で働く女性がかつて住んでいた家に撮影クルーを招待するシーン。彼女は映画の前半で行くたびに悲しくなるから昔住んでいた家には行かないといっていた女性だ。 彼女がかつて住んでいた家にカメラが入ると、そこで「人が住んでいた」という厳然たる現実が映し出される。 そこでようやく私たちはここは現実の場所で、これは現実の出来事だったんだと実感を持つことができる。 それはどういうことかと言うと、それまで映されていたものは、すべて現実が奪われた跡だったということだ。原発事故前プリピャチには多くの人たちが暮らし、子供たちは走り回り、競技場ではサッカーの試合が行われていた。その現実すべてが事故によって奪われ、それで夢のような場所になってしまった。 夢は基本的に記憶から作られる。この場所はもはや記憶に過ぎなくなってしまったのだ。映画の中で「もう永遠に人は住めない」という証言も出てくるように、プリピャチはもう人類にとって現実の土地ではない。 それでもそこに住んでいる人がいるという事実をこの映画は提示する。そこにあるのは「現実とはなにか」という哲学的な問いではないだろうか。 https://youtu.be/l0ZDHvfSxA8 『プリピャチ』Prypyat1999年/オーストリア/100分監督:ニコラウス・ゲイハルター撮影:ニコラウス・ゲイハルター
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