(c) 2016 NORDISK FILM PRODUCTION

老境を迎えたクリスティーナは妹の葬儀のために息子と孫と数十年ぶりの帰郷を果たす。息子たちが溶けこもうとするのに反し、クリスティーナは故郷のサーミ人たちを「嘘つきばかり」と罵り、一人ホテルに泊まる。そこでクリスティーナは故郷を捨てる事になった経緯を振り返る。

スウェーデン北部のラップランドに暮らす先住民サーミの姉妹エレ・マリャとニェンナは父を亡くし寄宿学校で暮らすようになる。しかし、そこではサーミ人を低脳とみなして差別し、観察対象とみなすような教育が行われていた。

学業が優秀でそのことに疑問をいだいたエレ・マリャは、寄宿舎を抜け出してスウェーデン人の夏祭りに忍び込み、そこでニクラスと出会い恋に落ちる。そして、ここを抜け出そうと決意するが…

先住民である以前に若者であること

スウェーデンで先住民差別の歴史があり、その中で生きた一人の女性の人生を描くことで、そのことの問題点を浮かび上がらせようという映画です。

主人公のエレ・マリャ/クリスティーナは、そもそもサーミの伝統的な暮らしに馴染めず、都会に出ることを望んでいました。しかし当時のスウェーデンではそれが認められなかったため、身分を偽りなんとかスウェーデン人になろうとしたのです。

(c) 2016 NORDISK FILM PRODUCTION

まずここにこの映画の面白さがあります。この映画は先住民問題を扱っているようでいながら、実は普遍的な若者の社会への不満を描いているのです。エレ・マリャの場合は自分の生きたい道を行く障害になっているのが先住民だということなだけで、ありとあらゆる若者が何らかの障害に立ち向かって生きていく、それがおとなになるということだ、ということを描いているのです。

それで思い浮かべたのは、パレスティナの若者を描いた二部作『パラダイス・ナウ』『オマールの壁』です。あの作品も世界の若者に共通の恋というテーマを通して、パレスティナを描きました。

この『サーミの血』も若者、そして恋という普遍的なテーマを通して、局地的で特殊な問題を描いています。

これらの作品からわかるのは、若者は犠牲者であり、問題を作り出しているのは大人だということです。大人の欲望や虚栄心や想像力の欠如が若者やさらには子どもたちの生活や未来を奪っているのです。

エレ・マリャの眼差しが我々に突き刺すのはそんな問題意識です。

この物語がクリスティーナの回想という形で組み立てられているのも、それを補強します。大人たちに反発して自由を求めたエレ・マリャがおとなになってクリスティーナとなった末、自分が属するはずの民族に差別意識を持ってしまっているのです。しかし、同時にスウェーデン人が彼らを差別するような言葉を投げると、それには反発を覚えます。そのクリスティーナの複雑な感情に彼女が経験してきた出来事の重みが表現されていますし、差別はなぜ起きるのかより深く考えなければいけないというメッセージが込められているように思うのです。

(c) 2016 NORDISK FILM PRODUCTION

差別を生む恐怖と『ゴールデンカムイ』

映画では、サーミの人たちの独自の文化として遊牧生活や服装などが挙げられていますが、私がより独自性を感じたのはエレ・マリャの攻撃性でした。攻撃性というのは本能的というのか、怒りがすぐ攻撃に結びつくような性格を持っています。

これがサーミに共通のものとは言い切れませんが、映画全体を見ると多くがより感情的な性質をもっているように見えます。文明化が感情を押し殺すものだとするならば、未開の人々は本能や自分の感情により正直に生きているというのは想像に難くありません。

そして、これが差別のひとつの源になっているとも考えられます。文明化された人々は同じ文明人の間ではわかり合うことができますが、そうではない人たちを推し測ることができず、それが恐怖に繋がり、差別し攻撃することで優位に立とうとするのではないでしょうか。

映画の中に「科学的研究でサーミ人の文明に適応できない」という場面がありますが、もちろんそんなはずはなく、自分たちを正当化するために科学的なデータを曲解したに過ぎません。そのようにして自分たちにも嘘を付き恐怖を攻撃に変えるのが文明人のやり方なのです。

(c) 2016 NORDISK FILM PRODUCTION

そのことで思い当たったのがアニメ『ゴールデンカムイ』でした。このアニメに登場する倭人のアイヌに対する態度とスウェーデン人のサーミに対する態度は似通っているように思えたのです。

そして自然の中では文明人より彼らのほうが力を持つことは自明です。ただ、社会が変化していく中で、先住民たちも変わらなければいけない。それをこの映画のエレ・マリャと『ゴールデンカムイ』のアシリパは示しています。

差別と伝統と社会の変化と自然との関係、それらが複雑に入り組む中で、私たちは先住民の人たちと文化をどう尊重していけばいいのか、それは私たちがいま真摯に取り組まなければいけない課題だと強く感じました。

『サーミの血』
2016年/スウェーデン=デンマーク=ノルウェー/108分
監督・脚本:アマンダ・ケンネル
撮影:ソフィーア・オルソン、ペトルゥス・シェービーク
音楽:クリスティアン・エイドネス・アナスン
出演:レーネ=セシリア・スパルロク、ミーア=エリーカ・スパルロク、マイ=ドリス・リンピ、ハンナ・アルストム

https://i0.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2020/04/same_main.jpg?fit=1024%2C576&ssl=1https://i0.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2020/04/same_main.jpg?resize=150%2C150&ssl=1ishimuraMovieVOD先住民,北欧
(c) 2016 NORDISK FILM PRODUCTION 老境を迎えたクリスティーナは妹の葬儀のために息子と孫と数十年ぶりの帰郷を果たす。息子たちが溶けこもうとするのに反し、クリスティーナは故郷のサーミ人たちを「嘘つきばかり」と罵り、一人ホテルに泊まる。そこでクリスティーナは故郷を捨てる事になった経緯を振り返る。 スウェーデン北部のラップランドに暮らす先住民サーミの姉妹エレ・マリャとニェンナは父を亡くし寄宿学校で暮らすようになる。しかし、そこではサーミ人を低脳とみなして差別し、観察対象とみなすような教育が行われていた。 学業が優秀でそのことに疑問をいだいたエレ・マリャは、寄宿舎を抜け出してスウェーデン人の夏祭りに忍び込み、そこでニクラスと出会い恋に落ちる。そして、ここを抜け出そうと決意するが… 先住民である以前に若者であること スウェーデンで先住民差別の歴史があり、その中で生きた一人の女性の人生を描くことで、そのことの問題点を浮かび上がらせようという映画です。 主人公のエレ・マリャ/クリスティーナは、そもそもサーミの伝統的な暮らしに馴染めず、都会に出ることを望んでいました。しかし当時のスウェーデンではそれが認められなかったため、身分を偽りなんとかスウェーデン人になろうとしたのです。 (c) 2016 NORDISK FILM PRODUCTION まずここにこの映画の面白さがあります。この映画は先住民問題を扱っているようでいながら、実は普遍的な若者の社会への不満を描いているのです。エレ・マリャの場合は自分の生きたい道を行く障害になっているのが先住民だということなだけで、ありとあらゆる若者が何らかの障害に立ち向かって生きていく、それがおとなになるということだ、ということを描いているのです。 それで思い浮かべたのは、パレスティナの若者を描いた二部作『パラダイス・ナウ』と『オマールの壁』です。あの作品も世界の若者に共通の恋というテーマを通して、パレスティナを描きました。 この『サーミの血』も若者、そして恋という普遍的なテーマを通して、局地的で特殊な問題を描いています。 これらの作品からわかるのは、若者は犠牲者であり、問題を作り出しているのは大人だということです。大人の欲望や虚栄心や想像力の欠如が若者やさらには子どもたちの生活や未来を奪っているのです。 エレ・マリャの眼差しが我々に突き刺すのはそんな問題意識です。 この物語がクリスティーナの回想という形で組み立てられているのも、それを補強します。大人たちに反発して自由を求めたエレ・マリャがおとなになってクリスティーナとなった末、自分が属するはずの民族に差別意識を持ってしまっているのです。しかし、同時にスウェーデン人が彼らを差別するような言葉を投げると、それには反発を覚えます。そのクリスティーナの複雑な感情に彼女が経験してきた出来事の重みが表現されていますし、差別はなぜ起きるのかより深く考えなければいけないというメッセージが込められているように思うのです。 (c) 2016 NORDISK FILM PRODUCTION 差別を生む恐怖と『ゴールデンカムイ』 映画では、サーミの人たちの独自の文化として遊牧生活や服装などが挙げられていますが、私がより独自性を感じたのはエレ・マリャの攻撃性でした。攻撃性というのは本能的というのか、怒りがすぐ攻撃に結びつくような性格を持っています。 これがサーミに共通のものとは言い切れませんが、映画全体を見ると多くがより感情的な性質をもっているように見えます。文明化が感情を押し殺すものだとするならば、未開の人々は本能や自分の感情により正直に生きているというのは想像に難くありません。 そして、これが差別のひとつの源になっているとも考えられます。文明化された人々は同じ文明人の間ではわかり合うことができますが、そうではない人たちを推し測ることができず、それが恐怖に繋がり、差別し攻撃することで優位に立とうとするのではないでしょうか。 映画の中に「科学的研究でサーミ人の文明に適応できない」という場面がありますが、もちろんそんなはずはなく、自分たちを正当化するために科学的なデータを曲解したに過ぎません。そのようにして自分たちにも嘘を付き恐怖を攻撃に変えるのが文明人のやり方なのです。 (c) 2016 NORDISK FILM PRODUCTION そのことで思い当たったのがアニメ『ゴールデンカムイ』でした。このアニメに登場する倭人のアイヌに対する態度とスウェーデン人のサーミに対する態度は似通っているように思えたのです。 そして自然の中では文明人より彼らのほうが力を持つことは自明です。ただ、社会が変化していく中で、先住民たちも変わらなければいけない。それをこの映画のエレ・マリャと『ゴールデンカムイ』のアシリパは示しています。 差別と伝統と社会の変化と自然との関係、それらが複雑に入り組む中で、私たちは先住民の人たちと文化をどう尊重していけばいいのか、それは私たちがいま真摯に取り組まなければいけない課題だと強く感じました。 『サーミの血』2016年/スウェーデン=デンマーク=ノルウェー/108分監督・脚本:アマンダ・ケンネル撮影:ソフィーア・オルソン、ペトルゥス・シェービーク音楽:クリスティアン・エイドネス・アナスン出演:レーネ=セシリア・スパルロク、ミーア=エリーカ・スパルロク、マイ=ドリス・リンピ、ハンナ・アルストム https://eigablog.com/vod/movie/same-blood/
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