© 東海テレビ放送

小池都知事も「ダイバーシティ、ダイバーシティ」と言っていて、多様性というのがもてはやされる時代になってきました。2020年のパラリンピックに向けた障害者と共存する社会を目指すとか、LGBTの人権の問題とか、超高齢化社会におけるお年寄りとの共存とか、いろいろありますが、そもそも「多様性」というのはどういうことなのか、何をもって「多様」というのか、そんなことを考えさせられたのが、東海テレビのドキュメンタリー作品『ヤクザと憲法』です。(今月もう1回、日本映画専門チャンネルで放送があります。そのためにスカパーに入った話はこちら

この映画は、大阪にある指定暴力団「二代目清勇会」の組事務所に密着して、現在の暴力団=ヤクザの有り様というのを描いた作品。最初に、指定暴力団というのが前科を持つ構成員が一定の割合いる団体で、そのような指定がされるようになった背景には、暴力団が覚せい剤の密売に関わるようになり、組同士の構想が激化して一般市民にも影響が及ぶようになって規制が必要になったという背景などが説明される。

そして、カメラは組の組長や若頭、部屋住みと言われる若いヤクザたちの生活を追い始めるわけだが、彼らの生活は一般に我々がイメージするいわゆるヤクザのような一面もたしかにあり、「ショバ代」(シノギ)の取り立てをするシーンや、カメラで映すことを断るような場面もある。しかし、彼らの生活は決して派手ではなく、どちらかと言うと地味だ。

© 東海テレビ放送

そして話は、暴力団排除条例の話になる。この条例は暴力団関係者との取引を一般企業が拒否しても良いようにするようなもので、暴力団関係者とみなされると銀行口座が作れなかったり、保険に入れなかったりしてしまう。清勇会の組長は、暴力団員のこどもだからという理由で保育園の入園を拒否されたりという事例を上げる。

さらに、山口組の顧問弁護士をやっているという男性が、微罪で逮捕され、通常なら起訴されないような「建造物損壊教唆」の罪で起訴され、弁護士資格を奪われそうになるというエピソードが出てくる。

要するにヤクザは社会から疎外されているわけだ。しかし「ヤクザをやめればいいだけの話でしょ」と誰もが思うはずだし、制作者も同じような疑問を持つ。このヤクザをやめられない、いいことはないのにヤクザになろうとする人はい続けるというところに、今の日本社会の「多様性」の誤謬があるように感じるのだ。

この映画を観ていると段々とヤクザに味方したくなってくる。それは、彼らは確かに「反社会的勢力」だけれど、人としては「社会」の側にいる人とそんなに変わらず、体制によって「反社会的」とレッテル貼りされてしまったことで、人権を奪われようとしているからだ。山口組の顧問弁護士という男性はなぜ顧問弁護士をやめないのかという質問に対して「組員たちと自分の境遇がどこか似ている」と言うようなことをいう。貧しい家庭で育ち、自分の力でなんとかやってきた。弁護士は知識と技術でそれをやっているわけだけれど、ヤクザは腕力や人間的魅力でやっている。今の日本社会では、知識や技術を身につける事ができる人は社会に受け入れられるが、そうではない人は社会に居場所がないという現実がある。

© 東海テレビ放送

要は弱者の切り捨てだ。もちろんヤクザになる人がみんな社会の落伍者というわけではないけれど、ヤクザが他では受け入れられない人たちの受け皿として機能してきたというのは事実だろう。これはヤクザが社会に対して果たしてきた役割の一つと言える。そして、社会は別の受け皿を作らないまま、ヤクザを潰そうとしている。それが問題なのだ。

清勇会で部屋住みとして働く若者が組長と宮崎学さんとの対談から「ヤクザもいる明るい社会」という言葉を引用する。そしてさらに気に食わないやつは排除しようというんじゃなくて、お互い気に食わないにしても、存在は認めあうべきだと言うようなことをいい、そのことをいじめの話にもつなげる。ここに、今の日本社会の狭量さが表れているように思える。彼は何をやってもだめで先輩に怒られてばかりいる。でもそんな彼を追い出すことなく受け入れるのが清勇会なのだ。

ヤクザは反社会的勢力だから潰してしまおうというのは理解できる考え方ではある。しかし、ヤクザになるような人は悪人だから社会から排除してしまっていいというのはどうだろうか?ここはもやもやするところだけれど、そのような人も「自分らしく」行きられる社会こそが多様性を受け入れる社会なのではないだろうか。だからといって犯罪を犯していいわけではもちろんない。しかし、暴力団関係者であろうとなかろうと、犯罪を犯したら平等に裁かれるべきだし、そもそも平等に生きる権利を与えられるべきではないか。「社会のため」という大義名分のもと、一部の人を差別的に扱うという権力の濫用を許すことはではない。いまのヤクザが置かれている境遇を描いたこの作品から見えてきたのは、そのような今の社会の構造的な問題だ。

この映画を観なければ、ヤクザについてこんな風に社会との関係の中で考えることはなかっただろう。その意味でこの映画は素晴らしいソーシャルシネマだと思う。

映画を観た後にさらに考えたのは、犯罪と社会の関係だ。犯罪社会学という学問分野があるくらいだから、犯罪と社会というのは密接に関わるものなのだけれど、いま「昔と犯罪の質が変わってきた」というようなことを言われる。インターネット犯罪はもちろんだけれど、振り込め詐欺の増大だとか、データ上はよくわからないけれど凶悪犯罪が増えているとか、犯罪に変化が起きているというのだ。それとヤクザが排除されていることとは関係ないのだろうか?本来はヤクザに取り込まれていたようなアウトサイダーが別の形で犯罪に走ることで犯罪の質が変わってきているのではないか。そんなことも考えた。

本当に多様性を受け入れる社会というのはどのようなものなのか。それはおそらくすべての個人がすべての「レッテル」から逃れる社会なのだろう。ヤクザというレッテル、前科者というレッテル、障害者というレッテルなどなど、そのようなレッテル貼りをせずに、同じ人間として全ての人を受け入れる社会、それが本当に多様化した社会だ。そんな社会はもちろん実現不可能だ。しかし、それに近づくためには、個人個人が自分が心に抱いているレッテルを1つずつ剥がしていくしかない。

この映画がそのようなことを思わせるのは、取材し制作したスタッフがヤクザの人たちと関わることで、ヤクザに対する先入観を少しずつ拭い去っていったことが映像からわかるからだ。観ている側も同じように、先入観を拭い去っていくことができる。これを見ただけで偏見がすべて無くなるわけではもちろんないが、別の視点からものを観ることができるようにはなるのではないだろうか。

*BSスカパーの時代劇専門チャンネルでこの『ヤクザと憲法』ほか、東海テレビ放送のドキュメンタリー9作品を今月放送!DVD化もされておらず、地上波全国ネットなどではおそらくやらないので今が観るチャンスかと思います。

『ヤクザと憲法』
2016年/日本/96分
監督:土方宏史
撮影:中根芳樹
音楽:村井秀清


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小池都知事も「ダイバーシティ、ダイバーシティ」と言っていて、多様性というのがもてはやされる時代になってきました。2020年のパラリンピックに向けた障害者と共存する社会を目指すとか、LGBTの人権の問題とか、超高齢化社会におけるお年寄りとの共存とか、いろいろありますが、そもそも「多様性」というのはどういうことなのか、何をもって「多様」というのか、そんなことを考えさせられたのが、東海テレビのドキュメンタリー作品『ヤクザと憲法』です。(今月もう1回、日本映画専門チャンネルで放送があります。そのためにスカパーに入った話はこちら) この映画は、大阪にある指定暴力団「二代目清勇会」の組事務所に密着して、現在の暴力団=ヤクザの有り様というのを描いた作品。最初に、指定暴力団というのが前科を持つ構成員が一定の割合いる団体で、そのような指定がされるようになった背景には、暴力団が覚せい剤の密売に関わるようになり、組同士の構想が激化して一般市民にも影響が及ぶようになって規制が必要になったという背景などが説明される。 そして、カメラは組の組長や若頭、部屋住みと言われる若いヤクザたちの生活を追い始めるわけだが、彼らの生活は一般に我々がイメージするいわゆるヤクザのような一面もたしかにあり、「ショバ代」(シノギ)の取り立てをするシーンや、カメラで映すことを断るような場面もある。しかし、彼らの生活は決して派手ではなく、どちらかと言うと地味だ。 そして話は、暴力団排除条例の話になる。この条例は暴力団関係者との取引を一般企業が拒否しても良いようにするようなもので、暴力団関係者とみなされると銀行口座が作れなかったり、保険に入れなかったりしてしまう。清勇会の組長は、暴力団員のこどもだからという理由で保育園の入園を拒否されたりという事例を上げる。 さらに、山口組の顧問弁護士をやっているという男性が、微罪で逮捕され、通常なら起訴されないような「建造物損壊教唆」の罪で起訴され、弁護士資格を奪われそうになるというエピソードが出てくる。 要するにヤクザは社会から疎外されているわけだ。しかし「ヤクザをやめればいいだけの話でしょ」と誰もが思うはずだし、制作者も同じような疑問を持つ。このヤクザをやめられない、いいことはないのにヤクザになろうとする人はい続けるというところに、今の日本社会の「多様性」の誤謬があるように感じるのだ。 この映画を観ていると段々とヤクザに味方したくなってくる。それは、彼らは確かに「反社会的勢力」だけれど、人としては「社会」の側にいる人とそんなに変わらず、体制によって「反社会的」とレッテル貼りされてしまったことで、人権を奪われようとしているからだ。山口組の顧問弁護士という男性はなぜ顧問弁護士をやめないのかという質問に対して「組員たちと自分の境遇がどこか似ている」と言うようなことをいう。貧しい家庭で育ち、自分の力でなんとかやってきた。弁護士は知識と技術でそれをやっているわけだけれど、ヤクザは腕力や人間的魅力でやっている。今の日本社会では、知識や技術を身につける事ができる人は社会に受け入れられるが、そうではない人は社会に居場所がないという現実がある。 要は弱者の切り捨てだ。もちろんヤクザになる人がみんな社会の落伍者というわけではないけれど、ヤクザが他では受け入れられない人たちの受け皿として機能してきたというのは事実だろう。これはヤクザが社会に対して果たしてきた役割の一つと言える。そして、社会は別の受け皿を作らないまま、ヤクザを潰そうとしている。それが問題なのだ。 清勇会で部屋住みとして働く若者が組長と宮崎学さんとの対談から「ヤクザもいる明るい社会」という言葉を引用する。そしてさらに気に食わないやつは排除しようというんじゃなくて、お互い気に食わないにしても、存在は認めあうべきだと言うようなことをいい、そのことをいじめの話にもつなげる。ここに、今の日本社会の狭量さが表れているように思える。彼は何をやってもだめで先輩に怒られてばかりいる。でもそんな彼を追い出すことなく受け入れるのが清勇会なのだ。 ヤクザは反社会的勢力だから潰してしまおうというのは理解できる考え方ではある。しかし、ヤクザになるような人は悪人だから社会から排除してしまっていいというのはどうだろうか?ここはもやもやするところだけれど、そのような人も「自分らしく」行きられる社会こそが多様性を受け入れる社会なのではないだろうか。だからといって犯罪を犯していいわけではもちろんない。しかし、暴力団関係者であろうとなかろうと、犯罪を犯したら平等に裁かれるべきだし、そもそも平等に生きる権利を与えられるべきではないか。「社会のため」という大義名分のもと、一部の人を差別的に扱うという権力の濫用を許すことはではない。いまのヤクザが置かれている境遇を描いたこの作品から見えてきたのは、そのような今の社会の構造的な問題だ。 この映画を観なければ、ヤクザについてこんな風に社会との関係の中で考えることはなかっただろう。その意味でこの映画は素晴らしいソーシャルシネマだと思う。 映画を観た後にさらに考えたのは、犯罪と社会の関係だ。犯罪社会学という学問分野があるくらいだから、犯罪と社会というのは密接に関わるものなのだけれど、いま「昔と犯罪の質が変わってきた」というようなことを言われる。インターネット犯罪はもちろんだけれど、振り込め詐欺の増大だとか、データ上はよくわからないけれど凶悪犯罪が増えているとか、犯罪に変化が起きているというのだ。それとヤクザが排除されていることとは関係ないのだろうか?本来はヤクザに取り込まれていたようなアウトサイダーが別の形で犯罪に走ることで犯罪の質が変わってきているのではないか。そんなことも考えた。 本当に多様性を受け入れる社会というのはどのようなものなのか。それはおそらくすべての個人がすべての「レッテル」から逃れる社会なのだろう。ヤクザというレッテル、前科者というレッテル、障害者というレッテルなどなど、そのようなレッテル貼りをせずに、同じ人間として全ての人を受け入れる社会、それが本当に多様化した社会だ。そんな社会はもちろん実現不可能だ。しかし、それに近づくためには、個人個人が自分が心に抱いているレッテルを1つずつ剥がしていくしかない。 この映画がそのようなことを思わせるのは、取材し制作したスタッフがヤクザの人たちと関わることで、ヤクザに対する先入観を少しずつ拭い去っていったことが映像からわかるからだ。観ている側も同じように、先入観を拭い去っていくことができる。これを見ただけで偏見がすべて無くなるわけではもちろんないが、別の視点からものを観ることができるようにはなるのではないだろうか。 *BSスカパーの時代劇専門チャンネルでこの『ヤクザと憲法』ほか、東海テレビ放送のドキュメンタリー9作品を今月放送!DVD化もされておらず、地上波全国ネットなどではおそらくやらないので今が観るチャンスかと思います。 『ヤクザと憲法』 2016年/日本/96分 監督:土方宏史 撮影:中根芳樹 音楽:村井秀清