ソウルのゲストハウスを訪れたフレディは、韓国人の両親のもとに生まれたが、赤ん坊の頃にフランスに養子に出され、初めて韓国を訪れた。生みの親を探す気などなかった彼女だが、友だちになったテナにハマンドという養子を斡旋する団体のことを聞き訪れてみる。そこからトントン拍子に父親と会うことになるが、言葉も通じない父親とその家族との対面はぎこちないものになり、フレディは逃げ出すように彼らと別れるが…

カンボジア人の両親のもとフランスに生まれたダヴィ・シュー監督が、友人の実際のエピソードをもとにオリジナル脚本で映画化した作品。ルーツであるはずなのに言葉もわからず、人も理解できないもやもやを自身に重ねて描いた。深く見ていくと複雑化する現代社会の課題が浮き彫りになってくる。

韓国人の体とフランス人の心

フレディは見た目は韓国人だが、内面は完全にフランス人だ。だから韓国では彼女の行動は突飛にうつる。たぶん、フランスでもおとなしい方ではないだろうが、フランス社会では許容される行動も、韓国では白い目で見られるということがたびたび起きる。

それに彼女は戸惑うというよりイラつく。そして結局、自分のやりたいようにやることにし、韓国の人たちに理解されない。

映画の中盤で、DJのいるカフェでフレディが踊りだすシーンがある。いわゆる踊る店ではなく、ダンスミュージックがかかってる中でお酒を飲むだけの店だ。そこで彼女は力いっぱい踊り、カメラはそれを長尺で捉える。欧米だったら周りの人も踊りだすところだが、ここでは誰も踊り出さず、他の客は笑顔を浮かべたり、指を指したりしながら彼女のことをただ見つめる。

このシーンは、苛立ちをつのらせたフレディが内なるフランス人を解放し、心が求めるがままに体を動かしたというシーンだ。韓国人の体にフランス人の心を入れた彼女は、韓国では心を閉じ込めて置かなければならない場面が多く、それが苛立ちを募らせる。そのことをよく表している。

気づかない無理解

彼女を苛立たせるのは、韓国人は当たり前に理解できる感覚だ。最初に出会うのが、「手酌は侮辱だ」という発言で、彼女はその感覚を理解することができない。父親と祖母の考え方も彼女は理解できない。

そして、それに拍車をかけるのがテナの通訳だ。フレディはストレートな物言いで言いたいことを言うが、テナはそれを韓国ならではの、目上の人に対してへりくだる感覚で通訳する。だから、彼女の言いたいことは伝わらず、そのディスコミュニケーションが彼女の苛立ちをさらに募らせるのだ。

フレディは父親に歩み寄ろうとするが、言葉の壁と価値観の壁、そして通訳の壁によってその歩みは阻まれる。二人は理解し合えないまま別れる。

それでも彼女はまだ歩み寄ろうとする。時間はかかるが、韓国語をある程度習得し(父親のためというわけではないが)、自分なりのやり方で韓国を理解しようとする。

それに対して、父親の方はどうなのか。フレディに「韓国語は学んだほうがいい」と言うばかりで、自分はフランス語どころか英語も学ぼうともせず、韓国語で一方的にメールを送り電話をし続ける。そして、生物学的な父親であることだけでフレディの人生に介入できると信じてしまっている。そのあり方がフレディにはやはり理解できない。

多様性と共生社会と共同体

この父親のあり方が示唆するのは、同質な共同体にいると自分の無理解に気がつかないということではないか。父親は自分の「当たり前」にもとづいて行動しているだけで、それがフレディにとってはおかしい事に気がついていない。自分が理解していないことを理解していないのだ。

これはあらゆる同質な共同体で起きうることだ。自分たちの価値観に合わないと言うだけで「よそ者」を排除するが、それを排除とも思っていないことさえある。

人々が同質な共同体の中だけで生きることができる時代ならそれで良かった。しかし、あらゆる国に、あらゆる民族の人達が暮らすようになった現代社会においては、そのような生き方は軋轢を生む。以前から住んでいたというだけであとから来た人に価値観を押し付けていいのか、お互いを理解しようとし、歩み寄り共生を目指すべきではないか。

フレディは多様な共生社会を生きてきた。だから韓国に身を置くと違和感に悩まされる。でも彼女はその韓国社会を受け入れようとしているようにも見える。どこかで自分のルーツに軸足をおいた生き方をしたいとも考えているのだ。

彼女はフランスでもどこか違和感を抱えていたのだろう。そのいらだちは育ての母親との短い会話にも表れていた。彼女は、自分が安住できるコミュニティを探しているのかもしれない。しかし、多様化が進めば進むほどコミュニティは小さくなり、安住の地は見つかりづらくなる。

多様な世界とはそういう世界だ。人はみな違和感を抱えながら、理解できない人達であふれる世界を彷徨い続けるしかない。でも、そもそも同質な共同体などというものはまやかしで、人間とはそういう生き物だったのではないだろうか。

『ソウルに帰る』
Return To Seoul
2022年/ドイツ、フランス、ベルギー、カタール/116分
監督・脚本:ダヴィ・シュー
撮影:トマ・ファヴル
音楽:ジェレミ・アルカシュ、クリストフ・ミュゼ
出演:パク・ジミン、オ・ガンロク、グカ・ハン、キム・スンヨン

東京フィルメックス『ソウルに帰る』

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ソウルのゲストハウスを訪れたフレディは、韓国人の両親のもとに生まれたが、赤ん坊の頃にフランスに養子に出され、初めて韓国を訪れた。生みの親を探す気などなかった彼女だが、友だちになったテナにハマンドという養子を斡旋する団体のことを聞き訪れてみる。そこからトントン拍子に父親と会うことになるが、言葉も通じない父親とその家族との対面はぎこちないものになり、フレディは逃げ出すように彼らと別れるが… カンボジア人の両親のもとフランスに生まれたダヴィ・シュー監督が、友人の実際のエピソードをもとにオリジナル脚本で映画化した作品。ルーツであるはずなのに言葉もわからず、人も理解できないもやもやを自身に重ねて描いた。深く見ていくと複雑化する現代社会の課題が浮き彫りになってくる。 韓国人の体とフランス人の心 フレディは見た目は韓国人だが、内面は完全にフランス人だ。だから韓国では彼女の行動は突飛にうつる。たぶん、フランスでもおとなしい方ではないだろうが、フランス社会では許容される行動も、韓国では白い目で見られるということがたびたび起きる。 それに彼女は戸惑うというよりイラつく。そして結局、自分のやりたいようにやることにし、韓国の人たちに理解されない。 映画の中盤で、DJのいるカフェでフレディが踊りだすシーンがある。いわゆる踊る店ではなく、ダンスミュージックがかかってる中でお酒を飲むだけの店だ。そこで彼女は力いっぱい踊り、カメラはそれを長尺で捉える。欧米だったら周りの人も踊りだすところだが、ここでは誰も踊り出さず、他の客は笑顔を浮かべたり、指を指したりしながら彼女のことをただ見つめる。 このシーンは、苛立ちをつのらせたフレディが内なるフランス人を解放し、心が求めるがままに体を動かしたというシーンだ。韓国人の体にフランス人の心を入れた彼女は、韓国では心を閉じ込めて置かなければならない場面が多く、それが苛立ちを募らせる。そのことをよく表している。 気づかない無理解 彼女を苛立たせるのは、韓国人は当たり前に理解できる感覚だ。最初に出会うのが、「手酌は侮辱だ」という発言で、彼女はその感覚を理解することができない。父親と祖母の考え方も彼女は理解できない。 そして、それに拍車をかけるのがテナの通訳だ。フレディはストレートな物言いで言いたいことを言うが、テナはそれを韓国ならではの、目上の人に対してへりくだる感覚で通訳する。だから、彼女の言いたいことは伝わらず、そのディスコミュニケーションが彼女の苛立ちをさらに募らせるのだ。 フレディは父親に歩み寄ろうとするが、言葉の壁と価値観の壁、そして通訳の壁によってその歩みは阻まれる。二人は理解し合えないまま別れる。 それでも彼女はまだ歩み寄ろうとする。時間はかかるが、韓国語をある程度習得し(父親のためというわけではないが)、自分なりのやり方で韓国を理解しようとする。 それに対して、父親の方はどうなのか。フレディに「韓国語は学んだほうがいい」と言うばかりで、自分はフランス語どころか英語も学ぼうともせず、韓国語で一方的にメールを送り電話をし続ける。そして、生物学的な父親であることだけでフレディの人生に介入できると信じてしまっている。そのあり方がフレディにはやはり理解できない。 多様性と共生社会と共同体 この父親のあり方が示唆するのは、同質な共同体にいると自分の無理解に気がつかないということではないか。父親は自分の「当たり前」にもとづいて行動しているだけで、それがフレディにとってはおかしい事に気がついていない。自分が理解していないことを理解していないのだ。 これはあらゆる同質な共同体で起きうることだ。自分たちの価値観に合わないと言うだけで「よそ者」を排除するが、それを排除とも思っていないことさえある。 人々が同質な共同体の中だけで生きることができる時代ならそれで良かった。しかし、あらゆる国に、あらゆる民族の人達が暮らすようになった現代社会においては、そのような生き方は軋轢を生む。以前から住んでいたというだけであとから来た人に価値観を押し付けていいのか、お互いを理解しようとし、歩み寄り共生を目指すべきではないか。 フレディは多様な共生社会を生きてきた。だから韓国に身を置くと違和感に悩まされる。でも彼女はその韓国社会を受け入れようとしているようにも見える。どこかで自分のルーツに軸足をおいた生き方をしたいとも考えているのだ。 彼女はフランスでもどこか違和感を抱えていたのだろう。そのいらだちは育ての母親との短い会話にも表れていた。彼女は、自分が安住できるコミュニティを探しているのかもしれない。しかし、多様化が進めば進むほどコミュニティは小さくなり、安住の地は見つかりづらくなる。 多様な世界とはそういう世界だ。人はみな違和感を抱えながら、理解できない人達であふれる世界を彷徨い続けるしかない。でも、そもそも同質な共同体などというものはまやかしで、人間とはそういう生き物だったのではないだろうか。 『ソウルに帰る』Return To Seoul2022年/ドイツ、フランス、ベルギー、カタール/116分監督・脚本:ダヴィ・シュー撮影:トマ・ファヴル音楽:ジェレミ・アルカシュ、クリストフ・ミュゼ出演:パク・ジミン、オ・ガンロク、グカ・ハン、キム・スンヨン 東京フィルメックス『ソウルに帰る』
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