©2019 Miyuki Tokoi

子供の頃に自分の性別(女性)に違和感を覚え、赤いランドセルを拒否し、中学に入るとセーラー服を拒否し、性同一性障害の診断を得て男子生徒として通学することを認められた空雅が主人公のドキュメンタリー映画。女性からホルモン治療や性別適合手術を経て男性になっていく過程を追い、さらにその後も描いた9年間の記録。

NHKのドキュメンタリー番組「僕が性別“ゼロ”になった理由」の全長版という位置づけだが、本来的にはNHKのほうが短縮版で映画がオリジナルと考えたほうがいいし、映画版のほうが面白い。そして、テレビ版では伝わってこないことが映画にはかなりある。

余談だが、同じような展開をした作品に小児麻痺をテーマにした劇映画『37セカンズ』があるが、こちらも映画版のほうが遥かに面白かった。

“性同一性障害”という障害

女性として生まれてきた空雅が自分の体に違和感を覚える、というか自分のものではない器に入れられている絶望をこの映画は丹念に描く。そこで考えさせられるのは心と肉体の関係。心の性と体の性が違うとはどういうことなのか。心を生み出す脳だって肉体のはずだから、一人の肉体の中で性別に齟齬が生じているということなのか。

映画は空雅の心情を丹念に描き、その疑問を解くヒントを与えてくれる(もちろん答えは出ないのだが)。

ただ、言い方は悪いかもしれないがここまではよくある話。「性同一性障害」というトピックはドキュメンタリーでも劇映画でもテレビドラマでも繰り返し取り上げられてきた。

ただ、性同一性障害という「病気」自体にいまや違和感がある。なぜなら「性同一性障害」というのは男性と女性しか無いという前提に立ったときに生まれる考え方だからだ。これは体の性が2つであるという前提(厳密には両性具有の人もいるので2つではないが)から、心の性も2つだと仮定し、一致しない場合を疾患と捉えている。

©2019 Miyuki Tokoi

しかし、心の性は2つではない。男性と女性を2つの極に設定したとしてもその間のどこに位置するかは人それぞれで、それを類型化することすら難しいし、そもそも男性と女性が2つの極かどうかもわからない。それはもはや常識というか当たり前の考え方だと私は思うが、その考え方からすると「性同一性障害」という性別が2つしか無いという前提に立った「病気」は性の多様化の障害になりかねない。

この映画は、女性から男性になった空雅のその後を描くことで間接的にそのことを描いている。

男性と女性の間で揺れ動く性

空雅は性別適合手術も受け、肉体的に女性ではなくなり、戸籍も男性になっる。しかし、その自分にも違和感を覚えはじめる。

その間に空雅は様々な人と合う。その中で主要な人物が70代になってから男性から女性になった八代みゆきさんと、「Xジェンダー」として生きる中島潤さんだ。

この2人を見て私はみゆきさんのほうは歴史を語る存在として登場し、潤さんのほうは現在を語る存在なのだろうと考えた。みゆきさんの人生は日本の社会が性の多様性を受け入れる過程と重なる。同窓生や元妻の態度から昔の日本の社会の様子などが見て取れる。

©2019 Miyuki Tokoi

それはそれで重要なのだろうが私が注目したのは潤さんの方だ。潤さんは女性として生まれるが自分が男性か女性か明確ではないといい、でも肉体そのものには違和感がないと話す。そして自分は中間の存在なんだと気づく。そこにはそのような人たちが「Xジェンダー」と名乗るようになっていたことも関係しているだろう。

潤さんは子供の頃は「男か女かどっちかしかない」と思っていたという。LGBTQの当事者の多くが自分を定義づけられなくて悩んでいる。空雅もそうだ。彼らは自分にピッタリ来る「名前」が見つかるまで男と女の間をさまよい続ける。

でも実は、ぴったり来る名前なんて本当は無い。それはLGBTQの当事者に関わらずだ。映画の中でいくつかの項目について自分が男性と女性の間のどこに位置するかを示すことで自分の性自認を表現するチェックシートのようなものが出てくるが、これはLGBTQだけでなくあらゆる人に当てはまるものだ。私もあなたもそのマトリックスのどこかにいる。それにぴったり来る名前はおそらくない。

自分のことは好きですか?

そんな曖昧さもあり、空雅の自分探しが現在も続いていることもあり、もやもやとしたまま終わるわけだが、それでいいのだ。

だって本当はみんなもやもやするべきなのだから。「私は女だ」「俺は男だ」と断言できてしまう人こそ、その前提に疑問を持ち本当はどうなのか自分を見つめ直しもやもやするべきだ。

この映画で何年にも渡り繰り返させれる質問がある。それは「自分のことは好きですか?」という疑問。

なぜこの疑問が繰り返し投げかけられるのか?それはその疑問に答えようとすることが自分を見つめることになるからだ。自分は何者で、その自分を自分自身は好きなのか、その答えはじっくり自分を見つめないと出てこない。

空雅のように自分に対して違和感がある人はそのことを考えることが多いだろうから答えも出てきやすいが、自分に疑問を持たずに生きている人はその答えを出そうとするともやもやしてしまうだろう。それが大事なのだ。

潤さんは「マイノリティが生きやすい社会はマジョリティも生きやすい社会じゃないか」というが、その逆は真ではない。マジョリティは自分に疑問を持たないからマイノリティの生きづらさが目に入ってこない。だからもやもやして自分がマイノリティである可能性に目を向けなければいけない。

『ぼくが性別「ゼロ」に戻るとき 空と木の実の9年間』
https://konomi.work/
2019年/日本/84分
監督:常井美幸
音楽:上畑正和
出演:小林空雅、八代みゆき、中島潤

アップリンク渋谷にて7月24日(金)よりロードショー!以降全国順次

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©2019 Miyuki Tokoi 子供の頃に自分の性別(女性)に違和感を覚え、赤いランドセルを拒否し、中学に入るとセーラー服を拒否し、性同一性障害の診断を得て男子生徒として通学することを認められた空雅が主人公のドキュメンタリー映画。女性からホルモン治療や性別適合手術を経て男性になっていく過程を追い、さらにその後も描いた9年間の記録。 NHKのドキュメンタリー番組「僕が性別“ゼロ”になった理由」の全長版という位置づけだが、本来的にはNHKのほうが短縮版で映画がオリジナルと考えたほうがいいし、映画版のほうが面白い。そして、テレビ版では伝わってこないことが映画にはかなりある。 余談だが、同じような展開をした作品に小児麻痺をテーマにした劇映画『37セカンズ』があるが、こちらも映画版のほうが遥かに面白かった。 https://socine.info/2019/11/05/37seconds/ “性同一性障害”という障害 女性として生まれてきた空雅が自分の体に違和感を覚える、というか自分のものではない器に入れられている絶望をこの映画は丹念に描く。そこで考えさせられるのは心と肉体の関係。心の性と体の性が違うとはどういうことなのか。心を生み出す脳だって肉体のはずだから、一人の肉体の中で性別に齟齬が生じているということなのか。 映画は空雅の心情を丹念に描き、その疑問を解くヒントを与えてくれる(もちろん答えは出ないのだが)。 ただ、言い方は悪いかもしれないがここまではよくある話。「性同一性障害」というトピックはドキュメンタリーでも劇映画でもテレビドラマでも繰り返し取り上げられてきた。 ただ、性同一性障害という「病気」自体にいまや違和感がある。なぜなら「性同一性障害」というのは男性と女性しか無いという前提に立ったときに生まれる考え方だからだ。これは体の性が2つであるという前提(厳密には両性具有の人もいるので2つではないが)から、心の性も2つだと仮定し、一致しない場合を疾患と捉えている。 ©2019 Miyuki Tokoi しかし、心の性は2つではない。男性と女性を2つの極に設定したとしてもその間のどこに位置するかは人それぞれで、それを類型化することすら難しいし、そもそも男性と女性が2つの極かどうかもわからない。それはもはや常識というか当たり前の考え方だと私は思うが、その考え方からすると「性同一性障害」という性別が2つしか無いという前提に立った「病気」は性の多様化の障害になりかねない。 この映画は、女性から男性になった空雅のその後を描くことで間接的にそのことを描いている。 男性と女性の間で揺れ動く性 空雅は性別適合手術も受け、肉体的に女性ではなくなり、戸籍も男性になっる。しかし、その自分にも違和感を覚えはじめる。 その間に空雅は様々な人と合う。その中で主要な人物が70代になってから男性から女性になった八代みゆきさんと、「Xジェンダー」として生きる中島潤さんだ。 この2人を見て私はみゆきさんのほうは歴史を語る存在として登場し、潤さんのほうは現在を語る存在なのだろうと考えた。みゆきさんの人生は日本の社会が性の多様性を受け入れる過程と重なる。同窓生や元妻の態度から昔の日本の社会の様子などが見て取れる。 ©2019 Miyuki Tokoi それはそれで重要なのだろうが私が注目したのは潤さんの方だ。潤さんは女性として生まれるが自分が男性か女性か明確ではないといい、でも肉体そのものには違和感がないと話す。そして自分は中間の存在なんだと気づく。そこにはそのような人たちが「Xジェンダー」と名乗るようになっていたことも関係しているだろう。 潤さんは子供の頃は「男か女かどっちかしかない」と思っていたという。LGBTQの当事者の多くが自分を定義づけられなくて悩んでいる。空雅もそうだ。彼らは自分にピッタリ来る「名前」が見つかるまで男と女の間をさまよい続ける。 でも実は、ぴったり来る名前なんて本当は無い。それはLGBTQの当事者に関わらずだ。映画の中でいくつかの項目について自分が男性と女性の間のどこに位置するかを示すことで自分の性自認を表現するチェックシートのようなものが出てくるが、これはLGBTQだけでなくあらゆる人に当てはまるものだ。私もあなたもそのマトリックスのどこかにいる。それにぴったり来る名前はおそらくない。 自分のことは好きですか? そんな曖昧さもあり、空雅の自分探しが現在も続いていることもあり、もやもやとしたまま終わるわけだが、それでいいのだ。 だって本当はみんなもやもやするべきなのだから。「私は女だ」「俺は男だ」と断言できてしまう人こそ、その前提に疑問を持ち本当はどうなのか自分を見つめ直しもやもやするべきだ。 この映画で何年にも渡り繰り返させれる質問がある。それは「自分のことは好きですか?」という疑問。 なぜこの疑問が繰り返し投げかけられるのか?それはその疑問に答えようとすることが自分を見つめることになるからだ。自分は何者で、その自分を自分自身は好きなのか、その答えはじっくり自分を見つめないと出てこない。 空雅のように自分に対して違和感がある人はそのことを考えることが多いだろうから答えも出てきやすいが、自分に疑問を持たずに生きている人はその答えを出そうとするともやもやしてしまうだろう。それが大事なのだ。 潤さんは「マイノリティが生きやすい社会はマジョリティも生きやすい社会じゃないか」というが、その逆は真ではない。マジョリティは自分に疑問を持たないからマイノリティの生きづらさが目に入ってこない。だからもやもやして自分がマイノリティである可能性に目を向けなければいけない。 https://youtu.be/9zfo3krJ3HY 『ぼくが性別「ゼロ」に戻るとき 空と木の実の9年間』https://konomi.work/2019年/日本/84分監督:常井美幸音楽:上畑正和出演:小林空雅、八代みゆき、中島潤 アップリンク渋谷にて7月24日(金)よりロードショー!以降全国順次 【関連記事】 https://socine.info/2019/10/17/netflix-documentary-lgbtq/
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