© Fontana Film GmbH, 2012

アントニ・ガウディの名建築で世界遺産でもあるバルセロナの「サグラダ・ファミリア」、100年以上前に作られ始め、今も建設中であることはあまりにも有名。そのサグラダ・ファミリアの建設に携わる人々へのインタビューと、ガウディのアーカイブ映像からこの建築にガウディが何を込めたのかを明らかにしていくドキュメンタリー。

建築である前に教会である

あまりにも有名なので知っている人のほうが圧倒的に多いでしょうし、行ったことがあるという人もかなりの数にのぼると思われるサグラダ・ファミリア。でも、実際行ったことがあったとしても(私もありますが)、この映画を見ると本当に知らないことばかりです。

それだけこの建築には長い歴史があり、沢山の人が携わり、たくさんの要素が詰め込まれているのです。

日本であるいは日本人として見るなら、まず注目してしまうのは彫刻を手掛ける外尾悦郎さん。ある年齢以上の人には「違いのわかる男」としておなじみかもしれませんが、長くサグラダ・ファミリアの彫刻師として活躍されていて、この映画でも主要な登場人物の一人として登場しています。

© Fontana Film GmbH, 2012

この外尾さんの話からもわかるのですが、この映画で私がまず思ったのは、サグラダ・ファミリアが建築である前に教会であるということです。

外尾さんは若い頃に禅にはまり、欲を削ぎ落としていった結果、石を掘る欲望だけが残ったと語ります。そして世界を旅してバルセロナにたどり着き、サグラダ・ファミリアの彫刻を彫るようになったと。そして、そこでガウディの視線でものを見るためにカトリックに改宗したそうです。

ここで重要なのは「ガウディを見ることではなくガウディとして見る」ことなんですが、私が注目したのは「改宗した」ということの方。これが意味するのは、カトリックとしての視線で見ないと、ガウディがサグラダ・ファミリアに込めた本当の意味がわからないということです。

映画ではあまり説明されませんが、そもそもこの建物の構成が、生誕のファサード、受難のファサード、栄光のファサードとキリストの生涯を表現したものになっています。建物の意味を十全に理解するには聖書の知識が必要になることは想像に固くありません。

でも、キリスト教徒以外の人々もこの建物は魅了します。それはなぜなのか考えると、サグラダ・ファミリアの意味が見えてくるかもしれません。

© Fontana Film GmbH, 2012

宗教を超えた自然への畏敬の心

証言者の中でもうひとり印象に残ったのは、受難のファサードの彫刻を担当したという地元カタルーニャの著名な彫刻家の話でした。彼は抽象的な作品で知られる無神論者で、出来上がった無骨な作品には一部批判も上がったといいます。

それでも彼は自身の作風を崩すことなく作り上げました。そのことについて彼は「自分に信仰心はないけれど、キリスト教の環境で育ったから基本的なことはわかる」というようなことを言っていました。自分は神は信じないけれど、キリスト教的なものの見方は身につけているということの意味でしょう。

© Fontana Film GmbH, 2012

外尾さんもそうですが、重要なのは「キリスト教的なものの見方」だということがわかります。

私はキリスト教徒でもないし、キリスト教の環境でも育っていないので「キリスト教のものの見方」が身についているとは思いませんが、それでもこの建築がすごいと思うのはなぜなのでしょうか。

その理由のひとつは、ガウディは宗教の垣根を超えた一般的な真理に基づいて建築を作っていることではないかと思います。映画の序盤にガウディの建築が自然に似せて作られていると語られます。キリスト教は自然崇拝と相容れないもののはずですが、それでもガウディは自然の要素を取り入れたのです。

その要素がキリスト教のものの見方を持たない私達も魅了するのではないでしょうか。

果たしてキリスト教徒とこの自然への畏敬がガウディの中でどうバランシングされ、後世の人達がどのように解釈したのかはわかりません。でも、ある意味でこれは自然を似せた建物のキリスト教的な結実であるのではないかと私には思えました。そして、そのような建物であるから多くの人の心の拠り所になる。このサグラダ・ファミリアをローマ法王が訪れたときのバルセロナの人々の熱狂を皆が私はそんなことを思いました。

© Fontana Film GmbH, 2012

あらゆる宗教の「家族の教会」があれば世界は良くなる

外尾さんは終盤に「こういうのがたくさんできればいい、そうすれば人類は良くなっていく。それは教会でなくて神社仏閣でもいい」というようなことも言っていました。

これを私なりに解釈すると、自然への畏敬をさまざまな信仰に基づいた見方で結実させてものが世界中にできれば、人類/世界は良くなるということではないでしょうか。その建物は(建物でなくてもいいのかもしれませんが)そのコミュニティの人々の拠り所になるし、同時に宗教の垣根を超えて共通の価値観を持つことを示すものにもなるはずなのです。

いま宗教によって世界は分断されています。本当は経済によってなのかもしれませんが、表面上は宗教によって。それは、宗教/信仰が人々の価値観を形作る大きな要素だからで、だからこそ逆に信仰を通して相互理解や共感をすすめることこそが重要なのです。

「サグラダ・ファミリア」は家族の教会、全人類は家族である。というようなことを言うシーンもありました。ガウディが目指したのは世界中の人々がそれぞれ「家族の教会」を持ち、お互いを尊重し合うことだったのかもしれません。

『創造と神秘のサグラダ・ファミリア』
2012年/スイス/94分
監督・脚本:ステファン・ハウプト
撮影:パトリック・リンデンマイヤー
音楽:J・P・ゴールドウィン

https://socine.info/wp-content/uploads/2020/05/sagrada_main_C-1024x576.jpghttps://socine.info/wp-content/uploads/2020/05/sagrada_main_C-300x300.jpgishimuraMovieVODドキュメンタリー,宗教,建築
© Fontana Film GmbH, 2012 アントニ・ガウディの名建築で世界遺産でもあるバルセロナの「サグラダ・ファミリア」、100年以上前に作られ始め、今も建設中であることはあまりにも有名。そのサグラダ・ファミリアの建設に携わる人々へのインタビューと、ガウディのアーカイブ映像からこの建築にガウディが何を込めたのかを明らかにしていくドキュメンタリー。 建築である前に教会である あまりにも有名なので知っている人のほうが圧倒的に多いでしょうし、行ったことがあるという人もかなりの数にのぼると思われるサグラダ・ファミリア。でも、実際行ったことがあったとしても(私もありますが)、この映画を見ると本当に知らないことばかりです。 それだけこの建築には長い歴史があり、沢山の人が携わり、たくさんの要素が詰め込まれているのです。 日本であるいは日本人として見るなら、まず注目してしまうのは彫刻を手掛ける外尾悦郎さん。ある年齢以上の人には「違いのわかる男」としておなじみかもしれませんが、長くサグラダ・ファミリアの彫刻師として活躍されていて、この映画でも主要な登場人物の一人として登場しています。 © Fontana Film GmbH, 2012 この外尾さんの話からもわかるのですが、この映画で私がまず思ったのは、サグラダ・ファミリアが建築である前に教会であるということです。 外尾さんは若い頃に禅にはまり、欲を削ぎ落としていった結果、石を掘る欲望だけが残ったと語ります。そして世界を旅してバルセロナにたどり着き、サグラダ・ファミリアの彫刻を彫るようになったと。そして、そこでガウディの視線でものを見るためにカトリックに改宗したそうです。 ここで重要なのは「ガウディを見ることではなくガウディとして見る」ことなんですが、私が注目したのは「改宗した」ということの方。これが意味するのは、カトリックとしての視線で見ないと、ガウディがサグラダ・ファミリアに込めた本当の意味がわからないということです。 映画ではあまり説明されませんが、そもそもこの建物の構成が、生誕のファサード、受難のファサード、栄光のファサードとキリストの生涯を表現したものになっています。建物の意味を十全に理解するには聖書の知識が必要になることは想像に固くありません。 でも、キリスト教徒以外の人々もこの建物は魅了します。それはなぜなのか考えると、サグラダ・ファミリアの意味が見えてくるかもしれません。 © Fontana Film GmbH, 2012 宗教を超えた自然への畏敬の心 証言者の中でもうひとり印象に残ったのは、受難のファサードの彫刻を担当したという地元カタルーニャの著名な彫刻家の話でした。彼は抽象的な作品で知られる無神論者で、出来上がった無骨な作品には一部批判も上がったといいます。 それでも彼は自身の作風を崩すことなく作り上げました。そのことについて彼は「自分に信仰心はないけれど、キリスト教の環境で育ったから基本的なことはわかる」というようなことを言っていました。自分は神は信じないけれど、キリスト教的なものの見方は身につけているということの意味でしょう。 © Fontana Film GmbH, 2012 外尾さんもそうですが、重要なのは「キリスト教的なものの見方」だということがわかります。 私はキリスト教徒でもないし、キリスト教の環境でも育っていないので「キリスト教のものの見方」が身についているとは思いませんが、それでもこの建築がすごいと思うのはなぜなのでしょうか。 その理由のひとつは、ガウディは宗教の垣根を超えた一般的な真理に基づいて建築を作っていることではないかと思います。映画の序盤にガウディの建築が自然に似せて作られていると語られます。キリスト教は自然崇拝と相容れないもののはずですが、それでもガウディは自然の要素を取り入れたのです。 その要素がキリスト教のものの見方を持たない私達も魅了するのではないでしょうか。 果たしてキリスト教徒とこの自然への畏敬がガウディの中でどうバランシングされ、後世の人達がどのように解釈したのかはわかりません。でも、ある意味でこれは自然を似せた建物のキリスト教的な結実であるのではないかと私には思えました。そして、そのような建物であるから多くの人の心の拠り所になる。このサグラダ・ファミリアをローマ法王が訪れたときのバルセロナの人々の熱狂を皆が私はそんなことを思いました。 © Fontana Film GmbH, 2012 あらゆる宗教の「家族の教会」があれば世界は良くなる 外尾さんは終盤に「こういうのがたくさんできればいい、そうすれば人類は良くなっていく。それは教会でなくて神社仏閣でもいい」というようなことも言っていました。 これを私なりに解釈すると、自然への畏敬をさまざまな信仰に基づいた見方で結実させてものが世界中にできれば、人類/世界は良くなるということではないでしょうか。その建物は(建物でなくてもいいのかもしれませんが)そのコミュニティの人々の拠り所になるし、同時に宗教の垣根を超えて共通の価値観を持つことを示すものにもなるはずなのです。 いま宗教によって世界は分断されています。本当は経済によってなのかもしれませんが、表面上は宗教によって。それは、宗教/信仰が人々の価値観を形作る大きな要素だからで、だからこそ逆に信仰を通して相互理解や共感をすすめることこそが重要なのです。 「サグラダ・ファミリア」は家族の教会、全人類は家族である。というようなことを言うシーンもありました。ガウディが目指したのは世界中の人々がそれぞれ「家族の教会」を持ち、お互いを尊重し合うことだったのかもしれません。 https://youtu.be/DjnNJJm1j3k 『創造と神秘のサグラダ・ファミリア』2012年/スイス/94分監督・脚本:ステファン・ハウプト撮影:パトリック・リンデンマイヤー音楽:J・P・ゴールドウィン https://eigablog.com/vod/movie/post-754/
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