パトリシオ・グスマン監督が『光のノスタルジア』から5年後に撮った続編的な作品。『光のノスタルジア』ではチリ北部のアタカマ砂漠が舞台でしたが、今度は最南端の西パタゴニアが舞台。そこにもチリの悲劇の跡があり、グスマン監督はそこから宇宙と人間を見つめ、私たちに行き方を問うてきます。
西パタゴニアの素敵な先住民と悲劇
映画はチリの海岸線の空撮から始まります。水は宇宙からやってきたという話があり、最南端の西パタゴニアにはインディオたちが住んでいると語られます。1万年前からこの地に暮らし、小舟で航海し石器で魚介を獲って生きていた人々です。
「なるほどそうか」と思っていると、川には音があって合わさると音楽になるというおじさんが現れて歌い出します。いったいこれはなんの映画なのだろうと不思議な気持ちになります。
その次に出てくるのは、かつてこの西パタゴニアにいたという体に絵を描く部族。彼らは人は死んだら星に生まれ変わると考えていて、彼らが体に描く絵も星空をモデルにしているように見えます。先住民と宇宙とのつながりがここで示されますが、まだこれがなんの映画なのかは見えてきません。
この先住民たちは19世紀の終わりにやってきた入植者によってほぼ絶滅に追い込まれます。持ち込まれた病気と、虐殺によって。今では純粋なインディオは20人しかおらず、真の消滅の危機を迎えているのです。
このパタゴニアの先住民についてはもう一つエピソードがあり、それは19世紀のはじめにイギリス人が探検にやってきて、真珠のボタンと交換で先住民をイギリスに連れ帰り、彼をジェイミー・ボタンと名付けたという話です。ジェイミーは1年後もとの地に戻されますが、以前の彼には戻れなかったといいます。
一気に時代が下って1970年代、チリに成立したアジェンデ政権は農地開放を行い先住民に土地を返し始めます。しかしそれもつかの間クーデターによりピノチェト政権が誕生すると、その地に強制収容所が作られ、そこに沢山の人が収容されました。
なぜ人間はこんなにも愚かなのか
この映画はひとつのストーリーと言うよりは、宇宙と人々と水の間を行き来する思考の流れを追ったような映画です。
宇宙空間に大量の水蒸気が存在する銀河があるという話になり、水の民である西パタゴニアの人々が死んでそこで星になったら幸せに暮らせただろうかと考えたりします。
このことでこの映画がやろうとしているのは総合的な視点を提示することではないかと思います。一つの視点から物語を語るのではなく、複合的な視点から歴史を見ることで、そこに何を見いだせるか考えさせる、それがこの映画の狙いなのではないかと。
なので、何かをはっきりと語るということはあまりなく、ほとんどがメタファーのようなもので構成されているのです。ただ、はっきりと語られていることもあります。そのひとつで、一番強いと私が感じるのは、「力あるものが弱者を殺す」ことに対する疑問です。入植者やピノチェト政権が先住民や政治犯を殺したことに対する疑問です。なぜそんな事が起きてしまうのか。
その答えはありません。それは見た人それぞれが考えることです。
私もその人間の愚かさはどこからやってきたのだろうかと考えました。もちろん答えは出ません。でも、西パタゴニアに昔すばらしい文化を持った人達が暮らしていたことを知って勇気づけられました。1万年前の人類はそれほど愚かではなかったんだと。愚かな人々が力を持ってしまったために人類全体が愚かなように見えるだけで、そうではないんだと。
私は縄文が好きですが、この西パタゴニアの人たちが彼の地にやってきたのは日本で言う縄文時代。生活様式も半定住で狩猟採集という近いものを感じます。そういういわば原始的な生活をしていた人たちのほうが現代の人たちよりも賢かったかもしれない、その可能性が私(と少なくない人たち)を縄文や世界中の先史時代に惹きつけるのかもしれません。
この憧憬のほとんどはノスタルジーに終わってしまい、現代に暮らすわれわれは愚かなままです。でも、歴史を省みて少しでも賢くなろうと考えることは大事です。
1年間西洋で暮らしたジェイミー・ボタンが昔の自分に戻れなかったのはなぜか、それは自分の愚かさを隠すことを覚えてしまったからではないか、この映画を最後まで見て思ったのはそんなことでした。
『真珠のボタン』
2015年/フランス=チリ=スペイン/82分
監督・脚本:パトリシオ・グスマン
撮影:カテル・ジアン
https://socine.info/2020/04/17/boton-de-nacar/https://i0.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2020/04/baton_main.jpg?fit=1024%2C576&ssl=1https://i0.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2020/04/baton_main.jpg?resize=150%2C150&ssl=1ishimuraMovieVODチリ,ドキュメンタリー映画(c) Atacama Productions, Valdivia Film, Mediapro, France 3 Cinema - 2015
パトリシオ・グスマン監督が『光のノスタルジア』から5年後に撮った続編的な作品。『光のノスタルジア』ではチリ北部のアタカマ砂漠が舞台でしたが、今度は最南端の西パタゴニアが舞台。そこにもチリの悲劇の跡があり、グスマン監督はそこから宇宙と人間を見つめ、私たちに行き方を問うてきます。
西パタゴニアの素敵な先住民と悲劇
映画はチリの海岸線の空撮から始まります。水は宇宙からやってきたという話があり、最南端の西パタゴニアにはインディオたちが住んでいると語られます。1万年前からこの地に暮らし、小舟で航海し石器で魚介を獲って生きていた人々です。
「なるほどそうか」と思っていると、川には音があって合わさると音楽になるというおじさんが現れて歌い出します。いったいこれはなんの映画なのだろうと不思議な気持ちになります。
その次に出てくるのは、かつてこの西パタゴニアにいたという体に絵を描く部族。彼らは人は死んだら星に生まれ変わると考えていて、彼らが体に描く絵も星空をモデルにしているように見えます。先住民と宇宙とのつながりがここで示されますが、まだこれがなんの映画なのかは見えてきません。
この先住民たちは19世紀の終わりにやってきた入植者によってほぼ絶滅に追い込まれます。持ち込まれた病気と、虐殺によって。今では純粋なインディオは20人しかおらず、真の消滅の危機を迎えているのです。
(c) Atacama Productions, Valdivia Film, Mediapro, France 3 Cinema - 2015
このパタゴニアの先住民についてはもう一つエピソードがあり、それは19世紀のはじめにイギリス人が探検にやってきて、真珠のボタンと交換で先住民をイギリスに連れ帰り、彼をジェイミー・ボタンと名付けたという話です。ジェイミーは1年後もとの地に戻されますが、以前の彼には戻れなかったといいます。
一気に時代が下って1970年代、チリに成立したアジェンデ政権は農地開放を行い先住民に土地を返し始めます。しかしそれもつかの間クーデターによりピノチェト政権が誕生すると、その地に強制収容所が作られ、そこに沢山の人が収容されました。
なぜ人間はこんなにも愚かなのか
この映画はひとつのストーリーと言うよりは、宇宙と人々と水の間を行き来する思考の流れを追ったような映画です。
宇宙空間に大量の水蒸気が存在する銀河があるという話になり、水の民である西パタゴニアの人々が死んでそこで星になったら幸せに暮らせただろうかと考えたりします。
(c) Atacama Productions, Valdivia Film, Mediapro, France 3 Cinema - 2015
このことでこの映画がやろうとしているのは総合的な視点を提示することではないかと思います。一つの視点から物語を語るのではなく、複合的な視点から歴史を見ることで、そこに何を見いだせるか考えさせる、それがこの映画の狙いなのではないかと。
なので、何かをはっきりと語るということはあまりなく、ほとんどがメタファーのようなもので構成されているのです。ただ、はっきりと語られていることもあります。そのひとつで、一番強いと私が感じるのは、「力あるものが弱者を殺す」ことに対する疑問です。入植者やピノチェト政権が先住民や政治犯を殺したことに対する疑問です。なぜそんな事が起きてしまうのか。
その答えはありません。それは見た人それぞれが考えることです。
私もその人間の愚かさはどこからやってきたのだろうかと考えました。もちろん答えは出ません。でも、西パタゴニアに昔すばらしい文化を持った人達が暮らしていたことを知って勇気づけられました。1万年前の人類はそれほど愚かではなかったんだと。愚かな人々が力を持ってしまったために人類全体が愚かなように見えるだけで、そうではないんだと。
ジェイミー・ボタンを描いた絵 (c) Atacama Productions, Valdivia Film, Mediapro, France 3 Cinema -...
Kenji
Ishimuraishimura@cinema-today.netAdministratorライター/映画観察者。
2000年から「ヒビコレエイガ」主宰、ライターとしてgreenz.jpなどに執筆中。まとめサイト→https://note.mu/ishimurakenji
映画、アート、書籍などのレビュー記事、インタビュー記事、レポート記事が得意。ソーシネ
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