死が当たり前の風景

シリア北西部の町コバニでラジオ局を立ち上げたディロバン・キコは、手作りのスタジオからニュースや音楽、インタビューをまちに届けています。コバニはISによる攻撃を受け壊滅状態、ディロバンも大学に進学予定だったが内戦の影響で避難することになり断念しました。まちが半分解放されたのを機にコバニに戻ってきたディロバンは町の人達のために手作りのラジオ局を開設したのです。

町には平和が訪れたように見えますが、映画序盤は瓦礫の中から死体を掘り起こすシーン。かなりショッキングな映像で沢山の人がなくなった現実を突きつけられます。

映画はラジオ局の活動に過去の戦闘の様子や町の人達の様子がおりませられ、そこにディロバンのまだ見ぬわが子に対する手紙のようなメッセージが重ねられる構成で展開していきます。

映画の序盤、ディロバンはナレーションで「わが子よ、戦争に勝者などいません」と語り、その後、実際の戦闘シーンの映像が連なります。そのシーンから感じるのは、本当に戦争がすべてを奪うこと。ものや生活はもちろんですが、人の心も奪うのが戦争だということです。戦争を経験するとはそういうことなのです。本当に勝った負けたとか敵か味方かなんてことは意味がなく、巻き込まれた人はみな心を失ってしまうのです。

それはディロバンも同じこと。心をずたずたに引き裂かれた中でそれでも立ち上がっていくことに意味はあるのか、それを私たちに問うているように思えます。

絶望が駆り立てる戦争と希望が成し遂げる復興

それでもこの映画が描くのは希望です。全てが破壊され心を失った“底”の状態にあるコバニを描き、そこから上昇してさまを描写していくのです。コバニ全域が解放され、電気も復旧し、人々は復興に向け歩きだします。ラジオはそんな人達の姿を伝え、聞いている人たちもきっと励まされているのでしょう。

映画はディロバンと町の人達が取り戻した日常も映します。再開したパン屋さん、新しく建てられる建物、ディロバンは友だちと公園に行って男の子たちの視線を集めて楽しみます。

日常は少しずつ戻ってくるのです。

ただ、それは戦争前に描いていた未来とは全く違うものです。失ってしまったものを取り戻すことはできません。

ディロバンは終盤に「わが子」に「私は人を信じて生きることを諦めません」と語ります。 ここから読み取れるのは、すべてを失ってしまったとしても、人がいる限り、そこに希望はあるということではないでしょうか。

考えてみればディロバンは最初から未来のわが子に向けて語りかけていました。それは未来を信じていたということ、全てを失ったとしてもそこに人がいれば未来に希望はあるということです。ディロバン自身もそれを信じることができないときもあったでしょうが、ラジオ局を開設し、人と接する中で希望を見出していったのです。

ディバロンはどうやって希望を抱けるようになったのでしょうか。

映画に捕虜として捉えられたISの兵士が登場します。彼は、貧しさから戦闘員になるしかなかったと話します。もちろん他に選択肢がなかったはずはないですが、彼にはその選択肢しか見えなかった。彼はそれだけ絶望していたのです。

同じシリアとISを描いた映画『ラッカは静かに虐殺されている』の中に「人は自由と安全を求め、そのどちらも得られない世界では繁栄を約束する組織に取り込まれます」という言葉が出てきます。この兵士の行動はまさにそれで、人の絶望を利用して戦争へと駆り立てるのがISなのです。

そうならないために必要なのが希望だとこの映画は言っているように思えます。

ディバロンにとっての希望とは人の善性だったのだと私は思いました。家族や友人はもちろん、ラジオを通じて出会う人たちの善良さを通して「この人達と歩んでいく未来」に希望を持てたのだと。だから「人を信じて生きることを諦めません」と言えたのです。

人の善性を信じることができれば希望も抱けるし、自由と安全を感じることもできます。そうすれば悪に絶望を利用されることもないのです。私たちが自由で安全に生きられるかどうかは人の善性を信じられるかどうかにかかっているとこの映画は言っているのかもしれません。

『ラジオ・コバニ』
2016年/オランダ/69分
監督・脚本:ラベー・ドスキー
撮影:ニーナ・ボドゥ
音楽:ユホ・ヌルメラ
出演:ディロバン・キコ

https://socine.info/wp-content/uploads/2020/04/radio_kobani_main-1-1024x576.jpghttps://socine.info/wp-content/uploads/2020/04/radio_kobani_main-1-300x300.jpgishimuraMovieVODIS,シリア,ドキュメンタリー映画
死が当たり前の風景 シリア北西部の町コバニでラジオ局を立ち上げたディロバン・キコは、手作りのスタジオからニュースや音楽、インタビューをまちに届けています。コバニはISによる攻撃を受け壊滅状態、ディロバンも大学に進学予定だったが内戦の影響で避難することになり断念しました。まちが半分解放されたのを機にコバニに戻ってきたディロバンは町の人達のために手作りのラジオ局を開設したのです。 町には平和が訪れたように見えますが、映画序盤は瓦礫の中から死体を掘り起こすシーン。かなりショッキングな映像で沢山の人がなくなった現実を突きつけられます。 映画はラジオ局の活動に過去の戦闘の様子や町の人達の様子がおりませられ、そこにディロバンのまだ見ぬわが子に対する手紙のようなメッセージが重ねられる構成で展開していきます。 映画の序盤、ディロバンはナレーションで「わが子よ、戦争に勝者などいません」と語り、その後、実際の戦闘シーンの映像が連なります。そのシーンから感じるのは、本当に戦争がすべてを奪うこと。ものや生活はもちろんですが、人の心も奪うのが戦争だということです。戦争を経験するとはそういうことなのです。本当に勝った負けたとか敵か味方かなんてことは意味がなく、巻き込まれた人はみな心を失ってしまうのです。 それはディロバンも同じこと。心をずたずたに引き裂かれた中でそれでも立ち上がっていくことに意味はあるのか、それを私たちに問うているように思えます。 絶望が駆り立てる戦争と希望が成し遂げる復興 それでもこの映画が描くのは希望です。全てが破壊され心を失った“底”の状態にあるコバニを描き、そこから上昇してさまを描写していくのです。コバニ全域が解放され、電気も復旧し、人々は復興に向け歩きだします。ラジオはそんな人達の姿を伝え、聞いている人たちもきっと励まされているのでしょう。 映画はディロバンと町の人達が取り戻した日常も映します。再開したパン屋さん、新しく建てられる建物、ディロバンは友だちと公園に行って男の子たちの視線を集めて楽しみます。 日常は少しずつ戻ってくるのです。 ただ、それは戦争前に描いていた未来とは全く違うものです。失ってしまったものを取り戻すことはできません。 ディロバンは終盤に「わが子」に「私は人を信じて生きることを諦めません」と語ります。 ここから読み取れるのは、すべてを失ってしまったとしても、人がいる限り、そこに希望はあるということではないでしょうか。 考えてみればディロバンは最初から未来のわが子に向けて語りかけていました。それは未来を信じていたということ、全てを失ったとしてもそこに人がいれば未来に希望はあるということです。ディロバン自身もそれを信じることができないときもあったでしょうが、ラジオ局を開設し、人と接する中で希望を見出していったのです。 ディバロンはどうやって希望を抱けるようになったのでしょうか。 映画に捕虜として捉えられたISの兵士が登場します。彼は、貧しさから戦闘員になるしかなかったと話します。もちろん他に選択肢がなかったはずはないですが、彼にはその選択肢しか見えなかった。彼はそれだけ絶望していたのです。 同じシリアとISを描いた映画『ラッカは静かに虐殺されている』の中に「人は自由と安全を求め、そのどちらも得られない世界では繁栄を約束する組織に取り込まれます」という言葉が出てきます。この兵士の行動はまさにそれで、人の絶望を利用して戦争へと駆り立てるのがISなのです。 そうならないために必要なのが希望だとこの映画は言っているように思えます。 ディバロンにとっての希望とは人の善性だったのだと私は思いました。家族や友人はもちろん、ラジオを通じて出会う人たちの善良さを通して「この人達と歩んでいく未来」に希望を持てたのだと。だから「人を信じて生きることを諦めません」と言えたのです。 人の善性を信じることができれば希望も抱けるし、自由と安全を感じることもできます。そうすれば悪に絶望を利用されることもないのです。私たちが自由で安全に生きられるかどうかは人の善性を信じられるかどうかにかかっているとこの映画は言っているのかもしれません。 『ラジオ・コバニ』2016年/オランダ/69分監督・脚本:ラベー・ドスキー撮影:ニーナ・ボドゥ音楽:ユホ・ヌルメラ出演:ディロバン・キコ https://eigablog.com/vod/movie/radio-kobani/
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