縄文“ブーム”は始まったばかり。『縄文にハマる人々』から見える縄文にハマったほうがいい理由。
今年2018年もいろいろなものが流行りました。まあもうほとんど思い出せませんが。
今年流行ったと言えるものの中で唯一、私がハマったのが「縄文」です。「え?縄文なんて流行った?」という人もいるかも知れない、というか多いとは思いますが、東京国立博物館で開催された『縄文展』の来場者数は30万人を超え、展覧会が開催されていた夏場には、テレビでも縄文関係の番組が放送されていました。
最近の流行の多くはSNSで作られると言われますが、この縄文ブームも縄文にまつわる様々なものが「かわいい」ということでSNSで拡散されたのが流行の源だったのかもしれません。
流行というのは移り変わるものですから、来年には縄文なんて言葉はあまり聞かなくなるかもしれません。でも流行が起きるとそのうちの何割か何%かは流行が終わった後もそれを追い続けるもの。つまり、縄文好きの人口は確実に増えたということです。
今年を振り返ると、一番のニュースは「縄文にハマったこと」だという人があなたの周りにもいるかも知れませんよ。
そんな「縄文にハマる」ことを題材にした映画、その名も『縄文にハマる人々』はまさに縄文にハマりつつある人、縄文に興味があるけどハマってない人に、ピッタリの、縄文に対する新たな視座を与えてくれる作品でした。
現在も全国あちこちでポツポツと公開されているので、今年の縄文ブームの締めくくりにぜひ見てください。
縄文にハマっていく映画
映画の主人公は、監督の山岡信貴さん。ひょんなことから縄文に詳しい弁護士と知り合いになり、縄文にハマってる人たちに会ったり、遺跡や博物館を訪れていくうちに自分も縄文にハマっていくというドキュメンタリーだ。
最初はなんとなく惹かれる程度だった監督が、「どうして人は縄文に惹かれるのか」と、すでにハマってしまっている人たちの話を足がかりにして探っていくうちに、ミイラ取りがミイラになっていく。
監督の興味に従って「人はなぜ縄文に惹かれるのか」という関心で映画を観始めるのだが、観ているうちに惹かれる理由というのは本当に人それぞれで、2つと同じものはないことがわかってくる。そして、もしかしたらハマっている人たちもその理由が実ははっきりとはわからず、その理由を探し続けているのではないかという気もしてくるのだ。
登場人物の一人、デザイナーの佐藤卓さんは、縄文のデザインの現代性について語る。特に「縄文の女神」(山形県西ノ前遺跡で出土した高さ約45センチメートルの日本最大級の土偶、国宝)のデザインの秀逸さは現代のデザイン理論で分析しても理にかなっていると言う。
縄文の遺物を「かわいい」とぼんやりとした魅力で表現するのではなく、プロのデザイナーの視点から分析していくところが面白かった。私が縄文に惹かれる理由の一つも遺物の造形の魅力にあるので、それを現代のデザインの視点から解きほぐしていき、現代人が縄文に惹かれる理由があると説明するのには、妙な納得感があった。
しかし、私が縄文に惹かれる理由がそれだけではない。佐藤卓さんも同じだろう。その理由とは何か。
縄文を解釈する自由
そこで、もうひとり注目したいのが北海道大学の教授・小杉康さんだ。彼は縄文の遺物や遺構について「こんな解釈もできるし、こんな解釈もできる」というように、解釈の余地が大きいことを示す。文字もなく、“もの”しか残っていないがゆえに見る人が自由に解釈することができるというのだ。
縄文の遺物がそれ以降のものと決定的に違う要素の一つに、その用途や使われ方が明らかでないということがある。弥生以降の土器は明らかに生活用品だし、勾玉や銅鐸は儀式に使うものだし、墓は墓だし、高床式倉庫は倉庫なのだ。しかし、土偶も実はなんのためのものかわからないし、土器も生活用品なのはわかるけれど、例えば火焔式土器にどうしてあんなにゴテゴテとした装飾がついているのかはわからない。集落の中心部に巨大な6本の柱の跡があってもそれがなんのためのものかわからないし、子どもの足型の土製品の意味もわからない。そして、何故、家の入口に子どもの遺体を埋めたのかもわからないのだ。
わからないから想像する、想像すると物語ができる。物語ができるとそれを語りたくなる。そうやって縄文にハマった人たちは自分なりの物語を組み立てて、それを熱く語る。
いとうせいこうさんは「ギャル」という言葉を使って女性的だったり女性が主役の時代ではないかと推測してみるし、宇宙と生物の誕生の統一理論が説明できるという人もいるし、カオス理論を駆使して図像の謎を解き明かそうとする人もいる。
語っていることはバラバラだけれど、そのようにバラバラに見えることこそが皆が共通して思っている縄文の魅力を指し示している。それが、縄文は自由だ!ということだ。
皆が語る縄文にハマる理由は縄文に自由な解釈が許されることに下支えされている。だから、山岡監督を含め多くの人が縄文にハマっている人達と接することで自分にとっての縄文の魅力とは何かを考え始め、結果、縄文にハマっていってしまうのだ。
この映画で語られることには「本当かよ」とか「そんなはずはない」と思うこともある。しかし、それも解釈の一つとして許される。その寛容さを生み出す”わからなさ”こそが縄文の最大の魅力なのだ。
時間の旅と空間の旅
最後にもう一つ、この映画で示されている「縄文にハマること」の魅力がある。それは旅だ。山岡監督は遺跡や人を訪ねて日本中を旅する。実際、縄文にハマってみると、現地に赴いて遺物を見たり、遺跡に立ってみたいという思いに駆られる。縄文にハマること=旅に出ることだと言っても過言ではないほどだ。
そして旅に出れば出たで縄文以外のその土地の魅力に触れることになって、気に入った土地があれば、何度もそこに足を運ぶことになる。縄文という過去への時間の旅は、日本各地への空間の旅へとつながっているのだ。
縄文人も旅をして交易をしたと考えられている。長野県の黒曜石が北海道で発見されたり、新潟県の翡翠が九州で発見されたりしているのだ。そんなことも縄文を訪ねて旅をしているうちにわかってくる。そうして人は縄文にハマっていくのだ。そしてハマったほうがきっと楽しい。
『縄文にハマる人々』
2018年/日本/103分
監督:山岡信貴
ナレーション:コムアイ
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