© Agnès Varda – JR – Ciné-Tamaris – Social Animals 2016.

アニエス・ヴァルダが亡くなったことがあまりに話題にならないことに正直驚いています。そんなに知られてない監督だったんだねぇと。まあ、今どきヌーヴェル・ヴァーグの映画なんて観たことある人のほうが少数なのかもしれません。「映画ファンは全員ゴダールを観たことがある」なんて時代はもうはるか昔なのですね。

さて、おじさんの愚痴はさておいて、亡くなったアニエス・ヴァルダの今のところ最期の作品 の『顔たち、ところどころに』を観ました。 自伝的ドキュメンタリーが作られていて、ベルリン映画祭に出品されているらしいので、本当の遺作はこれから公開されるはずです。

『顔たち、ところどころに』は昨年の公開で、DVDの発売は7月なのですが、現在uplink cloudで期間限定(5/7まで)配信中ということで観てみました。昔のヴァルダを知らなくても、映画として単純に面白かったので、ぜひ観てほしい作品です。

JRが引き出すヴァルダの“素”

87歳の映画監督アニエス・ヴァルダと33歳の写真家JR(ジェイアール)が出会い、意気投合する。二人は映画を共作するために、撮った写真をすぐに引き伸ばして出力できるJRのトラックに乗り、フランスの田舎町を訪ねる旅に出る。

© Agnès Varda – JR – Ciné-Tamaris – Social Animals 2016.

その旅の先々で、二人は地元の人達の写真を撮り、それを大きく引き伸ばして壁に貼るという、JRがこれまでやってきた活動を二人でやることにする。彼らが撮影するのはごく普通の人たち、元炭鉱夫、カフェの店員、港湾労働者の妻たち、農家など。たくさんの田舎町を巡ったあと、二人はともに思い出の地である海岸へ行き、最後にはジャン=リュック・ゴダールを訪ねる。

この映画には特に物語があるわけではなく、JRのストリートアートの記録であり、アニエス・ヴァルダの過去を巡る旅であるだけ。しかし、JRの作品になった人々の顔、特に目の魅力に惹きつけられて、ついつい引き込まれてしまう。

アニエス・ヴァルダの作品ということで観始めたけれど、どんどんJRのほうが気になっていく。JRは作品も魅力的だけれど、人間としても魅力的で、50歳も年上のヴァルダを気遣ってはいるけれど、ストレートに物を言うし、時には辛辣にもなる。そういうキャラだからヴァルダも年齢差を超えて意気投合する。

そんなJRに感化されてか、アニエス・ヴァルダ作品が時に持つ難解さは影を潜め、軽快で和やかに映画は進む。そこには“素”のアニエス・ヴァルダが映っているようにも見える。

© Agnès Varda – JR – Ciné-Tamaris – Social Animals 2016.

切り取った現実を返す

ヴァルダがこの作品でやりたかったことは何か。作品の中でもヴァルダは「もうすぐ終わる」というようなことを何度も言っていて、自分の創作活動も終わりに差し掛かろうとしていることを強く意識して作品作りを行っていることが伺える。

その中で、JRという若者と共作したのにはどんな意図があったのか。一つ考えられるのは、ヴァルダがJRの作品に自分との共通点を感じ取ったということではないか。

JRとヴァルダの共通点とは何か。一つは、 ヴァルダ自身ももともとは写真家で、映画作家となってからも写真という表現の可能性を追求しているし、映画でも写真でも「人物」を撮ることを重視しているように見えるところだ。

そして、もう一つは1つ目とも重なるけれど、その作品の作り方が現実を切り取り、それを返すという形で行われていることではないか。写真というのはそもそも現実の一部を切り取るものだけれど、JRにとってはそれを被写体に「返す」ことが重要なように見えるのだ。

ヴァルダの作品にもそのような傾向がある。そもそもヴァルダの映画はフィクションでもドキュメンタリーでも現実を切り取った断片を集めて作品にするという傾向が強い(詳しくは過去作品のレビューを見てください)。 そして、それを「返そうとしている」と思ったのは『冬の旅』でヴァルダがロケハンで話を聞いた地元の人達をそのまま映画に出演させたというエピソードを聞いたときだ。ヴァルダは現実の断片を作品作りに利用するけれど、彼らを出演させることでそれを返しているのではないだろうか。

© Agnès Varda – JR – Ciné-Tamaris – Social Animals 2016.

フレームを変えれば現実が輝く

現実を切り取った断片を作品にすることと、それを被写体に返すこと。それによってJRやヴァルダは何を表現しようとしているのだろうか。

映画の中で引き伸ばされた自分の姿を目にした人たちは、一様に少し恥ずかしいけど嬉しい、誇らしいという反応を見せる。自分自身の姿が切り取られアートに変貌するとき、モデルとなった人は自己肯定感を得られるのではないか。

そう考えると、アニエス・ヴァルダが現実の断片を集めて作品にするのも、その断片を構成する人たちを肯定するためだったのかもしれないと思えてくる。ヴァルダは現実からエピソードや映像を拾い、それを構成して提示することで、観る人に考えることを求めてきたが、それと同時に拾われた人たちを肯定することもやろうとしていたのではないか。

自分ではつまらないと思っていた自分自身の姿や人生が、写真や映画というフレームで切り取られ、人の目を通して観られることで魅力的なものに見えてくる。それがJRやヴァルダのアートが対象に対してやっていることなのだ。

それはつまり、つまらないと思っていた現実もフレーム(視点)を変えてみると輝いて見えることがあるということだ。映画の中に、古い曾祖父母の写真にフレームを付けて引き伸ばして壁に貼るというシーンがあるが、そのシーンはまさにフレームによって見え方が変わることを象徴的に示しているように見えた。

© Agnès Varda – JR – Ciné-Tamaris – Social Animals 2016.

見る/見られる

映画の中に、本筋とは一見無関係そうなアニエス・ヴァルダが目の検査を受けるというシーンがある。そこでヴァルダは『アンダルシアの犬』に言及する。

そして、ヴァルダは「JRの作品の中で印象的なのは、大きな目を貼った作品だ」というようなことも言う。その作品というのは大写しにした目をガスタンクか何かに貼ったものだが、その近くを通った人は「見られている」という感覚を覚えることだろう。

ヴァルダはこの作品で繰り返し目に言及することで、見る/見られるというテーマを意識的に描いているのだと思う。

アニエス・ヴァルダはずっと「どう見られるか」について考えてきた映像作家とも言えるかもしれない。『5時から7時までのクレオ』の主人公クレオは男性が望む自分の姿を脱ぎ捨てることで「どう見られるか」という呪縛から解き放たれた。『冬の旅』の主人公モナはそもそも「どう見られるか」を気にしていないため、彼女を「どう見るか」によって見る側の人間性が浮き彫りになる。

この映画で大きな写真となって壁にはられた人々はみんなに見られる。しかし、見ている側も彼らから見られる(ように感じる)わけだ。これはJRの作品作りの意図とも関わってくるところだが、そうやって「見られる」ことに対して意識を向けることが重要なのではないか。

それは「どう見られているか」を気にしろということではない。どう見えるかなんてフレーミングの仕方でどうとでも変わるから、そこを気にしても意味ないということではないか。自分ではどうにもできないことに思い悩むより、自分が「どう見るか」を考えたほうがいい。

JRやヴァルダは自分が見たものを見られた側に返すことでそんなメッセージを送っているのではないだろうか。

『顔たち、ところどころに』
Visages villages
https://www.uplink.co.jp/kaotachi/
2017年/フランス/89分
監督・脚本・出演:アニエス・ヴァルダ、JR
音楽:マチュー・セディッド

電子書籍第2弾のテーマはアニエス・ヴァルダ!『顔たち、ところどころに』も所収。


http://socine.info/wp-content/uploads/2019/04/kaotachi_main-1024x683.jpghttp://socine.info/wp-content/uploads/2019/04/kaotachi_main-300x300.jpgishimuraFeaturedMovieアニエス・ヴァルダ,ドキュメンタリー,写真
© Agnès Varda - JR - Ciné-Tamaris - Social Animals 2016. アニエス・ヴァルダが亡くなったことがあまりに話題にならないことに正直驚いています。そんなに知られてない監督だったんだねぇと。まあ、今どきヌーヴェル・ヴァーグの映画なんて観たことある人のほうが少数なのかもしれません。「映画ファンは全員ゴダールを観たことがある」なんて時代はもうはるか昔なのですね。 さて、おじさんの愚痴はさておいて、亡くなったアニエス・ヴァルダの今のところ最期の作品 の『顔たち、ところどころに』を観ました。 自伝的ドキュメンタリーが作られていて、ベルリン映画祭に出品されているらしいので、本当の遺作はこれから公開されるはずです。 『顔たち、ところどころに』は昨年の公開で、DVDの発売は7月なのですが、現在uplink cloudで期間限定(5/7まで)配信中ということで観てみました。昔のヴァルダを知らなくても、映画として単純に面白かったので、ぜひ観てほしい作品です。 JRが引き出すヴァルダの“素” 87歳の映画監督アニエス・ヴァルダと33歳の写真家JR(ジェイアール)が出会い、意気投合する。二人は映画を共作するために、撮った写真をすぐに引き伸ばして出力できるJRのトラックに乗り、フランスの田舎町を訪ねる旅に出る。 © Agnès Varda - JR - Ciné-Tamaris - Social Animals 2016. その旅の先々で、二人は地元の人達の写真を撮り、それを大きく引き伸ばして壁に貼るという、JRがこれまでやってきた活動を二人でやることにする。彼らが撮影するのはごく普通の人たち、元炭鉱夫、カフェの店員、港湾労働者の妻たち、農家など。たくさんの田舎町を巡ったあと、二人はともに思い出の地である海岸へ行き、最後にはジャン=リュック・ゴダールを訪ねる。 この映画には特に物語があるわけではなく、JRのストリートアートの記録であり、アニエス・ヴァルダの過去を巡る旅であるだけ。しかし、JRの作品になった人々の顔、特に目の魅力に惹きつけられて、ついつい引き込まれてしまう。 アニエス・ヴァルダの作品ということで観始めたけれど、どんどんJRのほうが気になっていく。JRは作品も魅力的だけれど、人間としても魅力的で、50歳も年上のヴァルダを気遣ってはいるけれど、ストレートに物を言うし、時には辛辣にもなる。そういうキャラだからヴァルダも年齢差を超えて意気投合する。 そんなJRに感化されてか、アニエス・ヴァルダ作品が時に持つ難解さは影を潜め、軽快で和やかに映画は進む。そこには“素”のアニエス・ヴァルダが映っているようにも見える。 © Agnès Varda - JR - Ciné-Tamaris - Social Animals 2016. 切り取った現実を返す ヴァルダがこの作品でやりたかったことは何か。作品の中でもヴァルダは「もうすぐ終わる」というようなことを何度も言っていて、自分の創作活動も終わりに差し掛かろうとしていることを強く意識して作品作りを行っていることが伺える。 その中で、JRという若者と共作したのにはどんな意図があったのか。一つ考えられるのは、ヴァルダがJRの作品に自分との共通点を感じ取ったということではないか。 JRとヴァルダの共通点とは何か。一つは、 ヴァルダ自身ももともとは写真家で、映画作家となってからも写真という表現の可能性を追求しているし、映画でも写真でも「人物」を撮ることを重視しているように見えるところだ。 そして、もう一つは1つ目とも重なるけれど、その作品の作り方が現実を切り取り、それを返すという形で行われていることではないか。写真というのはそもそも現実の一部を切り取るものだけれど、JRにとってはそれを被写体に「返す」ことが重要なように見えるのだ。 ヴァルダの作品にもそのような傾向がある。そもそもヴァルダの映画はフィクションでもドキュメンタリーでも現実を切り取った断片を集めて作品にするという傾向が強い(詳しくは過去作品のレビューを見てください)。 そして、それを「返そうとしている」と思ったのは『冬の旅』でヴァルダがロケハンで話を聞いた地元の人達をそのまま映画に出演させたというエピソードを聞いたときだ。ヴァルダは現実の断片を作品作りに利用するけれど、彼らを出演させることでそれを返しているのではないだろうか。 © Agnès Varda - JR - Ciné-Tamaris - Social Animals 2016. フレームを変えれば現実が輝く 現実を切り取った断片を作品にすることと、それを被写体に返すこと。それによってJRやヴァルダは何を表現しようとしているのだろうか。 映画の中で引き伸ばされた自分の姿を目にした人たちは、一様に少し恥ずかしいけど嬉しい、誇らしいという反応を見せる。自分自身の姿が切り取られアートに変貌するとき、モデルとなった人は自己肯定感を得られるのではないか。 そう考えると、アニエス・ヴァルダが現実の断片を集めて作品にするのも、その断片を構成する人たちを肯定するためだったのかもしれないと思えてくる。ヴァルダは現実からエピソードや映像を拾い、それを構成して提示することで、観る人に考えることを求めてきたが、それと同時に拾われた人たちを肯定することもやろうとしていたのではないか。 自分ではつまらないと思っていた自分自身の姿や人生が、写真や映画というフレームで切り取られ、人の目を通して観られることで魅力的なものに見えてくる。それがJRやヴァルダのアートが対象に対してやっていることなのだ。 それはつまり、つまらないと思っていた現実もフレーム(視点)を変えてみると輝いて見えることがあるということだ。映画の中に、古い曾祖父母の写真にフレームを付けて引き伸ばして壁に貼るというシーンがあるが、そのシーンはまさにフレームによって見え方が変わることを象徴的に示しているように見えた。 © Agnès Varda -...
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