©Plymorfilms

ただただ淡々と何かをする人たち

この映画の内容は、インドの寺院で沢山の人が一緒に食事をとる風景をナレーションも解説もなく映したというものだ。

ただ、映画は田園風景で始まり、何の説明もないのでここがどこなのかもわからないし、予備知識がなければ映し出される農作業がどこにつながるのかもわからない。本当に淡々とじゃがいもの収穫を映しているだけなので、映画が始まっているのかどうかも疑いたくなってくるくらいだ。

そんな映像を見ながら思ったのは、じゃがいもって南米原産なのに世界中で栽培されててすごいなぁということだ。映画とは関係ないのだけれど、食の映画であることを考えると全く関係ないわけではないのかもしれない。食べるということは、材料をとって(採って/獲って)くるところから始まるわけだが、世界中の人々の食べるは個々でつながっているのだ。

場面が寺院に移ると、沢山の人達が食事の準備をしている。とにかく大量の野菜を刻み、小麦粉をこね、チャパティを焼き、巨大な鍋でカレーを煮込む。料理ができあがると、集まってきた人々に皿を配り、人々はホールのようなところにずらーっと座って、籠にチャパティを盛った人やおかずの入ったバケツを持った人が歩き回り、欲しい人にどんどん上げる。みんな無言で食べる。

©Plymorfilms

そして食べ終わるとみんなが食器を持って列をなし、今度は食器洗い場で食器を洗う人たちが映る。食事をしていたホールを掃除している人もいる。その全てが流れるように進んでいく。ほとんど誰も喋らず、でもスムーズにことは進んでいく。

そして次の食事に参加する人たちが映り、寺でお祈りする人が映り、沐浴する人が映り、その池の周りを掃除している人が映り、日が暮れると厨房の掃除をしている人や洗濯物をたたんでいる人たちが映り、映画は終わっていく。

食べるという行為は人と世界の関わりを象徴的に示す

ただただ人々が何かをしているのが映っているだけのこの映画を観ながら考えたのは、映らなかったもののことだ。それは機械だ。終盤に信者の一人がカメラで写真を撮っているシーンがあるけれど、それ以外に機械は映らない。それはつまり、全てが手作業だということだ。食事を作るのも、皿を洗うのも、床を掃除するのも。でもそこに不便さや大変さは感じない。とにかくたくさん人がいるので人海戦術でものすごいスピードであらゆる作業が片付いていく。

これだけ沢山の人がいると、分業することで一人一人の作業量は大したものではなくても全体がスムーズに運営される。特に監督している人もいないようなのに。それが非常に印象的だ。

もう1つこの映画で不在なのは説明だ。映画の中で説明らしきものが映るのは、寺院に掲げられた神の言葉のようなものだ。神が食事を用意して自分自身も食べるというなものだったと思うが、その言葉を読んだところで、人々がここに集まりみんなで食事を作り食べる理由やその意味はわからない。ただ、彼らの姿を見ていると、食べるということにある種の宗教的な意味がある事はよく分かる。場所がお寺だからというのもあるけれど、一般的に言っても食事の前に神様やご先祖様に感謝をするというのは世界中で見られる風習だ。

©Plymorfilms

この寺院は、ほとんどの男性がターバンをしているのでシク教の寺院なんだろうと思いながら観ていたけれど、シク教の教義のことはほぼ知らないので、彼らにとって食事がどのような宗教的な意味を持つのかは推測するしかない。ただ、食べるという行為は宗教に関係なく必要、というよりは動物であれば必要な行為だ。それが宗教と密接につながっているということの意味を考えるとなると、そこにはかなり深い哲学が横たわっているような気がした。

あまり深くは考えられていないのだけれど、少なくとも食べるという行為が自分ではないものを自分の中に取り込む行為であることは間違いないし、同時に生きるためにどうしても必要な行為であることも間違いない。それは人は外部との関わりなしに生きていくことはできないということだ。だとすると、大人数で食事を摂るという行為は、人と世界との関わりを象徴的に表しているのではないか。

それは、陳腐な表現になってしまうが、人は周りの人と自然によって生かされているということだ。この寺での食事は、そのことを確認するためのものなのではないか。

この映画は、最後の最後にようやくここに描かれているものが何なのかという説明を文章で示す。その説明は、根源的な部分よりもう少し表層の話ではあるけれど、言っていることは同じなんだと思う。ここでこの場所が黄金寺院というところだと示されるのだが、それはシク教の総本山のような位置づけの「ハリマンディル・サーヒブ」という寺で、この風習は400年も前から続き、年齢、性別、カーストの別なくみんなが並んで食事を食べることの意味を告げる。シク教というのはカーストを否定する宗教だからある意味教義に則ったものなわけだけれど、それはつまり人と人との関係は縦ではなく横で、みんなが支え合ってこそ生きられるということなのではないか。

なんだかちょっと観念的な話になってしまったけれど、実は一番印象的だったのは、みんながやたらとものを投げることだ。チャパティの種とか、食器とか、かなり雑に投げていて、全然ちゃんとしていない。でもその雑さがまた人間らしくていいなと思った。

『聖者たちの食卓』
Himself He Cooks
2011年/ベルギー/65分
監督・撮影:バレリー・ベルトー、フィリップ・ウィチュス
撮影:カースティン・ジョンソン、ケイティ・スコッギン、トレバー・パグレン
音楽:ファブリス・コレ

RAKUTEN Showtimeなどでも観られます。
聖者たちの食卓【動画配信】

http://socine.info/wp-content/uploads/2018/01/seija_1.jpghttp://socine.info/wp-content/uploads/2018/01/seija_1-300x300.jpgishimuraMovieインド,宗教,食
ただただ淡々と何かをする人たち この映画の内容は、インドの寺院で沢山の人が一緒に食事をとる風景をナレーションも解説もなく映したというものだ。 ただ、映画は田園風景で始まり、何の説明もないのでここがどこなのかもわからないし、予備知識がなければ映し出される農作業がどこにつながるのかもわからない。本当に淡々とじゃがいもの収穫を映しているだけなので、映画が始まっているのかどうかも疑いたくなってくるくらいだ。 そんな映像を見ながら思ったのは、じゃがいもって南米原産なのに世界中で栽培されててすごいなぁということだ。映画とは関係ないのだけれど、食の映画であることを考えると全く関係ないわけではないのかもしれない。食べるということは、材料をとって(採って/獲って)くるところから始まるわけだが、世界中の人々の食べるは個々でつながっているのだ。 場面が寺院に移ると、沢山の人達が食事の準備をしている。とにかく大量の野菜を刻み、小麦粉をこね、チャパティを焼き、巨大な鍋でカレーを煮込む。料理ができあがると、集まってきた人々に皿を配り、人々はホールのようなところにずらーっと座って、籠にチャパティを盛った人やおかずの入ったバケツを持った人が歩き回り、欲しい人にどんどん上げる。みんな無言で食べる。 そして食べ終わるとみんなが食器を持って列をなし、今度は食器洗い場で食器を洗う人たちが映る。食事をしていたホールを掃除している人もいる。その全てが流れるように進んでいく。ほとんど誰も喋らず、でもスムーズにことは進んでいく。 そして次の食事に参加する人たちが映り、寺でお祈りする人が映り、沐浴する人が映り、その池の周りを掃除している人が映り、日が暮れると厨房の掃除をしている人や洗濯物をたたんでいる人たちが映り、映画は終わっていく。 食べるという行為は人と世界の関わりを象徴的に示す ただただ人々が何かをしているのが映っているだけのこの映画を観ながら考えたのは、映らなかったもののことだ。それは機械だ。終盤に信者の一人がカメラで写真を撮っているシーンがあるけれど、それ以外に機械は映らない。それはつまり、全てが手作業だということだ。食事を作るのも、皿を洗うのも、床を掃除するのも。でもそこに不便さや大変さは感じない。とにかくたくさん人がいるので人海戦術でものすごいスピードであらゆる作業が片付いていく。 これだけ沢山の人がいると、分業することで一人一人の作業量は大したものではなくても全体がスムーズに運営される。特に監督している人もいないようなのに。それが非常に印象的だ。 もう1つこの映画で不在なのは説明だ。映画の中で説明らしきものが映るのは、寺院に掲げられた神の言葉のようなものだ。神が食事を用意して自分自身も食べるというなものだったと思うが、その言葉を読んだところで、人々がここに集まりみんなで食事を作り食べる理由やその意味はわからない。ただ、彼らの姿を見ていると、食べるということにある種の宗教的な意味がある事はよく分かる。場所がお寺だからというのもあるけれど、一般的に言っても食事の前に神様やご先祖様に感謝をするというのは世界中で見られる風習だ。 この寺院は、ほとんどの男性がターバンをしているのでシク教の寺院なんだろうと思いながら観ていたけれど、シク教の教義のことはほぼ知らないので、彼らにとって食事がどのような宗教的な意味を持つのかは推測するしかない。ただ、食べるという行為は宗教に関係なく必要、というよりは動物であれば必要な行為だ。それが宗教と密接につながっているということの意味を考えるとなると、そこにはかなり深い哲学が横たわっているような気がした。 あまり深くは考えられていないのだけれど、少なくとも食べるという行為が自分ではないものを自分の中に取り込む行為であることは間違いないし、同時に生きるためにどうしても必要な行為であることも間違いない。それは人は外部との関わりなしに生きていくことはできないということだ。だとすると、大人数で食事を摂るという行為は、人と世界との関わりを象徴的に表しているのではないか。 それは、陳腐な表現になってしまうが、人は周りの人と自然によって生かされているということだ。この寺での食事は、そのことを確認するためのものなのではないか。 この映画は、最後の最後にようやくここに描かれているものが何なのかという説明を文章で示す。その説明は、根源的な部分よりもう少し表層の話ではあるけれど、言っていることは同じなんだと思う。ここでこの場所が黄金寺院というところだと示されるのだが、それはシク教の総本山のような位置づけの「ハリマンディル・サーヒブ」という寺で、この風習は400年も前から続き、年齢、性別、カーストの別なくみんなが並んで食事を食べることの意味を告げる。シク教というのはカーストを否定する宗教だからある意味教義に則ったものなわけだけれど、それはつまり人と人との関係は縦ではなく横で、みんなが支え合ってこそ生きられるということなのではないか。 なんだかちょっと観念的な話になってしまったけれど、実は一番印象的だったのは、みんながやたらとものを投げることだ。チャパティの種とか、食器とか、かなり雑に投げていて、全然ちゃんとしていない。でもその雑さがまた人間らしくていいなと思った。 『聖者たちの食卓』 Himself He Cooks 2011年/ベルギー/65分 監督・撮影:バレリー・ベルトー、フィリップ・ウィチュス 撮影:カースティン・ジョンソン、ケイティ・スコッギン、トレバー・パグレン 音楽:ファブリス・コレ RAKUTEN Showtimeなどでも観られます。 聖者たちの食卓【動画配信】
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