なんだかすっかり、東海テレビドキュメンタリー専門みたいになっていますが、今日もその東海テレビのドキュメンタリーの話。

今回取り上げる作品は『ホームレス理事長』、高校を中退した球児たちに再び野球をやる場を提供するために設立されたNPO「ルーキーズ」の活動を追ったドキュメンタリー作品だ。

理事長と監督と小山くん

「ホームレス理事長」という題名はこのNPOを立ち上げた山田理事長に由来する。映画の冒頭から、理事長が漫画喫茶でオセロゲームをしている場面が出てくるが、映画の前半からガス、水道、電気を止められた真っ暗なアパートの部屋が登場し、中盤には家賃滞納でアパートを追い出され、車で生活するようになる。それで「ホームレス」ということになるのだが、そうなってしまった理由は、ルーキーズの資金不足のためで、山田理事長は映画の全編を通して、資金繰りに奔走し続ける。

© 東海テレビ放送

この“ホームレス”理事長がタイトル通り主人公の1人であることは間違いないが、この映画にはあと2人主人公と呼んでもいい人物が登場する。1人は、ルーキーズの池村英樹監督、もうひとりはメンバーの1人の小山くんだ。

池村監督は、那覇高校を甲子園に導いた名監督だったが、岡山県の学校を指導している際に体罰を理由に傷害で逮捕され、野球界を追放されたという人物。小山くんは名門高校に入りながら球拾いばかりの毎日に嫌気が差して学校をやめ、ルーキーズにやってきた少年だ。

この映画のクライマックスは、ルーキーズに来ても何かと周囲のせいにして成長しない小山くんが試合に遅刻してきた際に、その理由として「自殺未遂をした」と監督に告げ、それを受けた監督が小山くんを殴るというシーンだ。監督は「命にかかわることだから」と言い、このことについて「また逮捕されたとしても本気でぶつかっていかないといけないと思った」と語る。そして、小山くんもその監督の想いを受け取ったようなのだが…

この体罰のシーンはテレビドキュメンタリーとして問題となったそうで、今後テレビ(地上波という意味だと思うが)で放送することはないかもしれないと言う。このシーンを観て思うのは、体罰の是非というよりは、体罰がコミュニケーションの手段の一つとして認められている世界があるということだ。池村監督は岡山でも最初の頃は保護者も体罰に賛成していたという。その世界の中で育ってきた池村監督は、体罰を受けたことで訴えるということが起きる世界を理解できないのだ。だから気持ちを伝えるために体罰以外の選択肢を取ることができない。逮捕され、後悔したとしても、結局そのことを理解できないから、また体罰を繰り返す。

© 東海テレビ放送

非常識と多様性

これは「多様性」(あるいは反「多様性」)の問題なのかもしれない。体罰をコミュニケーションの手段と考える「人種」と体罰などもってのほかと考える「人種」が世の中にはいる。もちろん、その間に無数のグラデーションがあるわけだが、その両極端の間には大きな隔たりがあり、互いを理解できない。そして、今の社会でマジョリティあるいは正義があるとされているのは体罰を認めない人々なので、体罰をした人は排除されてしまう。

同じような排除は、監督だけでなく生徒たちにも言える。彼らは様々な理由で野球に挫折し学校をやめている。理由はいじめられたとか、教師と対立したとか、いわゆる非行に走ったとかいろいろだが、全て学校という社会の規範から外れたために、高校野球という社会から排除された生徒たちだ。

© 東海テレビ放送

つまり、このルーキーズというのは社会から排除された人たちの集まりなのだ。多様化とは、これまで社会から疎外されていた人たちを社会に受け入れることであり、その意味で、彼らを社会が受け入れることもある種の多様化であるといえるのではないか。『ヤクザと憲法』のヤクザと同様、疎外されても仕方ない人たちだ、あるいは自己責任だという見方もできるが、それも受け入れるのが本当の多様化であると私は思う。

ならば、この映画は彼らを社会が受け入れるために山田理事長が活動をしている、という映画になるかと思うと、そうではないから話がややこしい。山田理事長は、寄付を募りに出かける時、ドロップ・アウトした球児たちを「再教育」して社会に送り出すと話す。つまり、彼らを排除した社会に戻そうとしているのだ。理事長は「社会が変わらないと」とも言うけれど、その真意はよくわからない。

そもそも、この山田理事長という人物はめちゃくちゃだ。金策に駆け回るのはいいのだが、要領が悪いし、話も下手だし、スタッフミーティングも休んで身内からも不評を買うし、しまいには策が付きて、撮影スタッフに借金を頼む。この撮影スタッフに借金を頼むシーンがこの映画のもう一つのクライマックスだ。これは本当にわけがわからない。理事長は「筋違いだということはわかっているんですが」と言いながら頼み、涙を流し、土下座までする。そして、「私に何が足りないんでしょう?」という。

これは一体何なのか。観ていると、撮影スタッフは「貸したいのは山々だが、ドキュメンタリーの撮影者が現場に介入することは出来ない」と説明する。それは至極まっとうな説明だし、観ているほとんどの人がそのことを理解するはずだ。しかし、理事長にはそれがわからない。簡単に言えば「非常識」なのだ。だから「私に何が足りないんでしょう?」というのだ。ここに、山田理事長と池内監督の共通点を感じる。自分のいる世界の外の世界のことが想像できないのだ。だから自分はこんなに頑張っているのに理解されないという思いに駆られる。家を失っても子供たちのために、社会のために頑張っているのだと。自分を犠牲にしてまでやっているのになぜ評価されないのかと。

この映画を観てすごくもやもやしたのだが、それはこの多様化と非常識の関係をうまく整理できていないからだと思い至った。

© 東海テレビ放送

想像の埒外にあっても尊重する

社会に受け入れられるためには「常識」を身につけることが必要だ。しかし、社会の側はその「常識」が「偏見」になってしまっていないかを常に省みなければならない。一般的に多様化の文脈で語られる障害者やLGBT、外国人というような人たちは偏見に晒されて来た人たちで、彼らを阻害することに正当性がなかったために、社会に受けれるべきだと論じられているわけだ。

では、同じように社会から疎外されているルーキーズの子供たちや池内監督はどうだろうか?個別に事情は違うにしろ、彼らが「自分らしく」生きられるような社会を我々は構築するべきなのだろうか?例えば、体罰が許される一定の環境というものは用意されるべきなのだろうか?

などと考えてみたが、このように一般的に論じるのは意味が無いのかもしれない。この作品の山田理事長を観て、彼の活動は素晴らしいから応援しよう!とは思わなかった。しかし、彼のような人がいることはすごく嬉しいとも感じた。それは多分、山田理事長とわたしの「距離」の問題だ。心理的にも物理的にも距離感を感じるから、直接関わろうとは思わない。しかし、そういう人が生きられる社会であってほしいとは思うのだ。

本当の多様化というのはそういうことではないのか。みんなが仲良くする必要など別にない。相手のことを理解できないけれど、存在は尊重する、『ヤクザと憲法』で若者が言っていたとおり、気に食わないやつでも存在は認める事が重要なのではないか。

LGBTの人たちだって、みんなに仲良くしてよと言っているわけではない。自分も他の人と同じように生きる権利をくれと言っているだけなのだ。

LGBTの人もいて、ヤクザもいて、山田理事長みたいな人もいて、そのすべてを受け入れるが社会であり、それが社会の多様性の意味だ。自分の想像の埒外にいる人が社会の中にいるのだからそれはもやもやするに違いない。しかし、それが多様性のある社会であり、そのもやもやを抱えたまま心理的な距離を乗り越えて相手のことを想像しようとすることが、個人にとっては重要な事なのだ。

この映画が提供してくれる、想像の埒外にある人を観て、その人のことを考えて見る機会、それはこれからの社会にとって非常に貴重なものに違いないのだ。

© 東海テレビ放送

『ホームレス理事長』
2013年/日本/110分
監督:土方宏史
撮影:中根芳樹
音楽:村井秀清
http://socine.info/wp-content/uploads/2017/01/homless_rijicho.jpghttp://socine.info/wp-content/uploads/2017/01/homless_rijicho-300x300.jpgishimuraMoviediversity,LGBT,地方テレビ局,多様性,教育,東海テレビ放送
なんだかすっかり、東海テレビドキュメンタリー専門みたいになっていますが、今日もその東海テレビのドキュメンタリーの話。 今回取り上げる作品は『ホームレス理事長』、高校を中退した球児たちに再び野球をやる場を提供するために設立されたNPO「ルーキーズ」の活動を追ったドキュメンタリー作品だ。 理事長と監督と小山くん 「ホームレス理事長」という題名はこのNPOを立ち上げた山田理事長に由来する。映画の冒頭から、理事長が漫画喫茶でオセロゲームをしている場面が出てくるが、映画の前半からガス、水道、電気を止められた真っ暗なアパートの部屋が登場し、中盤には家賃滞納でアパートを追い出され、車で生活するようになる。それで「ホームレス」ということになるのだが、そうなってしまった理由は、ルーキーズの資金不足のためで、山田理事長は映画の全編を通して、資金繰りに奔走し続ける。 この“ホームレス”理事長がタイトル通り主人公の1人であることは間違いないが、この映画にはあと2人主人公と呼んでもいい人物が登場する。1人は、ルーキーズの池村英樹監督、もうひとりはメンバーの1人の小山くんだ。 池村監督は、那覇高校を甲子園に導いた名監督だったが、岡山県の学校を指導している際に体罰を理由に傷害で逮捕され、野球界を追放されたという人物。小山くんは名門高校に入りながら球拾いばかりの毎日に嫌気が差して学校をやめ、ルーキーズにやってきた少年だ。 この映画のクライマックスは、ルーキーズに来ても何かと周囲のせいにして成長しない小山くんが試合に遅刻してきた際に、その理由として「自殺未遂をした」と監督に告げ、それを受けた監督が小山くんを殴るというシーンだ。監督は「命にかかわることだから」と言い、このことについて「また逮捕されたとしても本気でぶつかっていかないといけないと思った」と語る。そして、小山くんもその監督の想いを受け取ったようなのだが… この体罰のシーンはテレビドキュメンタリーとして問題となったそうで、今後テレビ(地上波という意味だと思うが)で放送することはないかもしれないと言う。このシーンを観て思うのは、体罰の是非というよりは、体罰がコミュニケーションの手段の一つとして認められている世界があるということだ。池村監督は岡山でも最初の頃は保護者も体罰に賛成していたという。その世界の中で育ってきた池村監督は、体罰を受けたことで訴えるということが起きる世界を理解できないのだ。だから気持ちを伝えるために体罰以外の選択肢を取ることができない。逮捕され、後悔したとしても、結局そのことを理解できないから、また体罰を繰り返す。 非常識と多様性 これは「多様性」(あるいは反「多様性」)の問題なのかもしれない。体罰をコミュニケーションの手段と考える「人種」と体罰などもってのほかと考える「人種」が世の中にはいる。もちろん、その間に無数のグラデーションがあるわけだが、その両極端の間には大きな隔たりがあり、互いを理解できない。そして、今の社会でマジョリティあるいは正義があるとされているのは体罰を認めない人々なので、体罰をした人は排除されてしまう。 同じような排除は、監督だけでなく生徒たちにも言える。彼らは様々な理由で野球に挫折し学校をやめている。理由はいじめられたとか、教師と対立したとか、いわゆる非行に走ったとかいろいろだが、全て学校という社会の規範から外れたために、高校野球という社会から排除された生徒たちだ。 つまり、このルーキーズというのは社会から排除された人たちの集まりなのだ。多様化とは、これまで社会から疎外されていた人たちを社会に受け入れることであり、その意味で、彼らを社会が受け入れることもある種の多様化であるといえるのではないか。『ヤクザと憲法』のヤクザと同様、疎外されても仕方ない人たちだ、あるいは自己責任だという見方もできるが、それも受け入れるのが本当の多様化であると私は思う。 ならば、この映画は彼らを社会が受け入れるために山田理事長が活動をしている、という映画になるかと思うと、そうではないから話がややこしい。山田理事長は、寄付を募りに出かける時、ドロップ・アウトした球児たちを「再教育」して社会に送り出すと話す。つまり、彼らを排除した社会に戻そうとしているのだ。理事長は「社会が変わらないと」とも言うけれど、その真意はよくわからない。 そもそも、この山田理事長という人物はめちゃくちゃだ。金策に駆け回るのはいいのだが、要領が悪いし、話も下手だし、スタッフミーティングも休んで身内からも不評を買うし、しまいには策が付きて、撮影スタッフに借金を頼む。この撮影スタッフに借金を頼むシーンがこの映画のもう一つのクライマックスだ。これは本当にわけがわからない。理事長は「筋違いだということはわかっているんですが」と言いながら頼み、涙を流し、土下座までする。そして、「私に何が足りないんでしょう?」という。 これは一体何なのか。観ていると、撮影スタッフは「貸したいのは山々だが、ドキュメンタリーの撮影者が現場に介入することは出来ない」と説明する。それは至極まっとうな説明だし、観ているほとんどの人がそのことを理解するはずだ。しかし、理事長にはそれがわからない。簡単に言えば「非常識」なのだ。だから「私に何が足りないんでしょう?」というのだ。ここに、山田理事長と池内監督の共通点を感じる。自分のいる世界の外の世界のことが想像できないのだ。だから自分はこんなに頑張っているのに理解されないという思いに駆られる。家を失っても子供たちのために、社会のために頑張っているのだと。自分を犠牲にしてまでやっているのになぜ評価されないのかと。 この映画を観てすごくもやもやしたのだが、それはこの多様化と非常識の関係をうまく整理できていないからだと思い至った。 想像の埒外にあっても尊重する 社会に受け入れられるためには「常識」を身につけることが必要だ。しかし、社会の側はその「常識」が「偏見」になってしまっていないかを常に省みなければならない。一般的に多様化の文脈で語られる障害者やLGBT、外国人というような人たちは偏見に晒されて来た人たちで、彼らを阻害することに正当性がなかったために、社会に受けれるべきだと論じられているわけだ。 では、同じように社会から疎外されているルーキーズの子供たちや池内監督はどうだろうか?個別に事情は違うにしろ、彼らが「自分らしく」生きられるような社会を我々は構築するべきなのだろうか?例えば、体罰が許される一定の環境というものは用意されるべきなのだろうか? などと考えてみたが、このように一般的に論じるのは意味が無いのかもしれない。この作品の山田理事長を観て、彼の活動は素晴らしいから応援しよう!とは思わなかった。しかし、彼のような人がいることはすごく嬉しいとも感じた。それは多分、山田理事長とわたしの「距離」の問題だ。心理的にも物理的にも距離感を感じるから、直接関わろうとは思わない。しかし、そういう人が生きられる社会であってほしいとは思うのだ。 本当の多様化というのはそういうことではないのか。みんなが仲良くする必要など別にない。相手のことを理解できないけれど、存在は尊重する、『ヤクザと憲法』で若者が言っていたとおり、気に食わないやつでも存在は認める事が重要なのではないか。 LGBTの人たちだって、みんなに仲良くしてよと言っているわけではない。自分も他の人と同じように生きる権利をくれと言っているだけなのだ。 LGBTの人もいて、ヤクザもいて、山田理事長みたいな人もいて、そのすべてを受け入れるが社会であり、それが社会の多様性の意味だ。自分の想像の埒外にいる人が社会の中にいるのだからそれはもやもやするに違いない。しかし、それが多様性のある社会であり、そのもやもやを抱えたまま心理的な距離を乗り越えて相手のことを想像しようとすることが、個人にとっては重要な事なのだ。 この映画が提供してくれる、想像の埒外にある人を観て、その人のことを考えて見る機会、それはこれからの社会にとって非常に貴重なものに違いないのだ。 『ホームレス理事長』 2013年/日本/110分 監督:土方宏史 撮影:中根芳樹 音楽:村井秀清