今日取り上げる映画は『ソウル・キッチン』などで知られるファティ・アキン監督のドキュメンタリー映画『トラブゾン狂騒曲~小さな村の大きなゴミ騒動~』。映画としてはそれほど面白くないけれど、あまり面白くないなぁと思いながら、そこにどのような問題があるのか考えてみると、色々考えさせられることが出てきた。

このサイトは、「ソーシャルシネマ」とわざわざ言って社会問題を映画にからめて考えようとしているわけだが、そもそも考えるべき社会問題とは何なのか。

改めて考えてみると、「社会」と「問題」というそれぞれが漠然とした言葉を組み合わせた幻影のような気がしてきた。なので、そもそもなぜ映画と社会問題を絡めるのかを考えてみると、日本において映画が社会で起きた問題と深く関わるようになった契機といえる「公害」に思い至った。具体的には土本典昭監督の水俣病シリーズなどがそれで、そのような問題について、ことさらに映画と絡めて考えようと思うのは、映画がニュースなどで語られる“客観的な事実”ではなく、当事者の生の姿を伝えてくれるからだ。ニュースなどを見て「この問題は…」などと「論じる」のではなく、いったいこの事象にどのような意味があるのかを考えたいからだ。

そのように言うのは、「社会」が人の集まりである以上、つまるところ個人個人について考えなければ、社会について考えることは出来ないと思うからだ。そして、「ソーシャルシネマ」の中にある「ソーシャル」という語は「社会的な」とかいう意味だが、日本語の「社会」という概念よりも、個人に近いというか、個人と個人のネットワークを指しているように思える。社会というのが人間の集団を指すのに対して、ソーシャルというのは人間と人間のつながりを指しているのではないかと感じるのだ。

このようなことを書いたのは、この映画『トラブゾン狂騒曲』が描くのがトルコの田舎の村に訪れた公害問題であるからで、そして公害問題の根底にあるのは個人と個人の分断であると言っているように思えるからだ。

この作品は、トルコ系ドイツ人のファティ・アキン監督が、祖父母の故郷であるトルコのチャンブルヌ村を初めて訪れた時、その美しい風景に感動を覚えたが、そこにゴミ処理場ができようとしていることを知り、その後の5年間、村に通ってそこで起きるさまざまな出来事を撮影し作品に仕上げたものだ。公害問題の例に漏れず、官僚主義の犠牲になる庶民たちの姿がそこにはある。そして「これはどうにもならない」と序盤でわかってしまうために映画としての面白みには欠けてしまう。同じことが世界中で何十年もの間、繰り返され、庶民たちは苦汁をなめてきた。諦めてはいけないのだろうけれど、官僚主義の迷宮はカフカの時代から庶民の手には負えないものなのだ。

ただ、現代のソーシャルの文脈で考えると、この官僚主義というのは個人と個人を分断するものであると言うことが出来るのではないか。この映画でもそうだが、官僚というのは個人ではなく国や地方自治体という機構の代理人として行動する。この関係は社会と個人の関係と同じものであり、そこに人と人との関係は結び得ないのである(もちろん交渉の中で「個人」が顔をだすことはあるのだが)。

そしてそれは近代以降どんどん進行してきた現象だ。この映画でも昔を懐かしむシーンがあるが、昔というのは個人と個人が結びついたコミュニティが機能していた。コミュニティとは社会だが、内部の関係性はソーシャルであり、個人と個人の関係だ。この映画の問題が生じたのは、複数の共同体、つまり社会と社会の関係に公共というより大きな社会が介入することで個人が完全にないがしろにされてしまったからだ。以前ならば社会の中の個人と個人が別の関係性を結ぶことで問題を解決することが可能だったわけだ。

trabuzon

もちろん現代では、そのような素朴な関係では解決できない問題がたくさんできてしまい、だからこそ権力が個人間の関係に介入してくるわけだ。だから、単純に昔はよかったと言っても仕方がないわけで、私たちは新たなソーシャルな関係を何らかの形で結び直さなければいけない。それは地道でなかなか進まないものだが、例えばこの映画の問題であれば、このゴミを出す人たちがきちんと分別をしてくれれば少しは問題が改善するはずだが、そうするためにはゴミを出す個人がゴミ処理場の問題に悩んでいる個人の問題を知り、そこにバーチャルな関係性が出来る必要がある。この映画はその契機となりうるという意味ではトルコにおいては意味があるし、同じような問題が自分たちのところでも起きているのではないかと考える切っ掛けにもなるという意味では誰にとっても意味が無いわけではない。

だからこそ私はこれを「ソーシャルシネマ」だと言う。自分とだれかとの関係性について考える契機となるからだ。そういう意味では、あらゆる映画がソーシャルでありえるし、それは見る人の捉え方次第だ。「何を当たり前なことを」と思うかもしれないけれど、映画を見るたびにちょっとそんなことを考えてみてほしいと思う。

『トラブゾン狂騒曲 ~小さな村の大きなゴミ騒動~』
2013年/ドイツ/98分
監督:ファティ・アキン
撮影:エルヴェ・デュー
音楽:アレキサンダー・ハッケ

ストリーミングはこちら↓

http://socine.info/wp-content/uploads/2016/12/trabuzon_dvd.jpghttp://socine.info/wp-content/uploads/2016/12/trabuzon_dvd.jpgishimuraMovieecology,environment,ごみ問題
今日取り上げる映画は『ソウル・キッチン』などで知られるファティ・アキン監督のドキュメンタリー映画『トラブゾン狂騒曲~小さな村の大きなゴミ騒動~』。映画としてはそれほど面白くないけれど、あまり面白くないなぁと思いながら、そこにどのような問題があるのか考えてみると、色々考えさせられることが出てきた。 このサイトは、「ソーシャルシネマ」とわざわざ言って社会問題を映画にからめて考えようとしているわけだが、そもそも考えるべき社会問題とは何なのか。 改めて考えてみると、「社会」と「問題」というそれぞれが漠然とした言葉を組み合わせた幻影のような気がしてきた。なので、そもそもなぜ映画と社会問題を絡めるのかを考えてみると、日本において映画が社会で起きた問題と深く関わるようになった契機といえる「公害」に思い至った。具体的には土本典昭監督の水俣病シリーズなどがそれで、そのような問題について、ことさらに映画と絡めて考えようと思うのは、映画がニュースなどで語られる“客観的な事実”ではなく、当事者の生の姿を伝えてくれるからだ。ニュースなどを見て「この問題は…」などと「論じる」のではなく、いったいこの事象にどのような意味があるのかを考えたいからだ。 そのように言うのは、「社会」が人の集まりである以上、つまるところ個人個人について考えなければ、社会について考えることは出来ないと思うからだ。そして、「ソーシャルシネマ」の中にある「ソーシャル」という語は「社会的な」とかいう意味だが、日本語の「社会」という概念よりも、個人に近いというか、個人と個人のネットワークを指しているように思える。社会というのが人間の集団を指すのに対して、ソーシャルというのは人間と人間のつながりを指しているのではないかと感じるのだ。 このようなことを書いたのは、この映画『トラブゾン狂騒曲』が描くのがトルコの田舎の村に訪れた公害問題であるからで、そして公害問題の根底にあるのは個人と個人の分断であると言っているように思えるからだ。 この作品は、トルコ系ドイツ人のファティ・アキン監督が、祖父母の故郷であるトルコのチャンブルヌ村を初めて訪れた時、その美しい風景に感動を覚えたが、そこにゴミ処理場ができようとしていることを知り、その後の5年間、村に通ってそこで起きるさまざまな出来事を撮影し作品に仕上げたものだ。公害問題の例に漏れず、官僚主義の犠牲になる庶民たちの姿がそこにはある。そして「これはどうにもならない」と序盤でわかってしまうために映画としての面白みには欠けてしまう。同じことが世界中で何十年もの間、繰り返され、庶民たちは苦汁をなめてきた。諦めてはいけないのだろうけれど、官僚主義の迷宮はカフカの時代から庶民の手には負えないものなのだ。 ただ、現代のソーシャルの文脈で考えると、この官僚主義というのは個人と個人を分断するものであると言うことが出来るのではないか。この映画でもそうだが、官僚というのは個人ではなく国や地方自治体という機構の代理人として行動する。この関係は社会と個人の関係と同じものであり、そこに人と人との関係は結び得ないのである(もちろん交渉の中で「個人」が顔をだすことはあるのだが)。 そしてそれは近代以降どんどん進行してきた現象だ。この映画でも昔を懐かしむシーンがあるが、昔というのは個人と個人が結びついたコミュニティが機能していた。コミュニティとは社会だが、内部の関係性はソーシャルであり、個人と個人の関係だ。この映画の問題が生じたのは、複数の共同体、つまり社会と社会の関係に公共というより大きな社会が介入することで個人が完全にないがしろにされてしまったからだ。以前ならば社会の中の個人と個人が別の関係性を結ぶことで問題を解決することが可能だったわけだ。 もちろん現代では、そのような素朴な関係では解決できない問題がたくさんできてしまい、だからこそ権力が個人間の関係に介入してくるわけだ。だから、単純に昔はよかったと言っても仕方がないわけで、私たちは新たなソーシャルな関係を何らかの形で結び直さなければいけない。それは地道でなかなか進まないものだが、例えばこの映画の問題であれば、このゴミを出す人たちがきちんと分別をしてくれれば少しは問題が改善するはずだが、そうするためにはゴミを出す個人がゴミ処理場の問題に悩んでいる個人の問題を知り、そこにバーチャルな関係性が出来る必要がある。この映画はその契機となりうるという意味ではトルコにおいては意味があるし、同じような問題が自分たちのところでも起きているのではないかと考える切っ掛けにもなるという意味では誰にとっても意味が無いわけではない。 だからこそ私はこれを「ソーシャルシネマ」だと言う。自分とだれかとの関係性について考える契機となるからだ。そういう意味では、あらゆる映画がソーシャルでありえるし、それは見る人の捉え方次第だ。「何を当たり前なことを」と思うかもしれないけれど、映画を見るたびにちょっとそんなことを考えてみてほしいと思う。 『トラブゾン狂騒曲 ~小さな村の大きなゴミ騒動~』 2013年/ドイツ/98分 監督:ファティ・アキン 撮影:エルヴェ・デュー 音楽:アレキサンダー・ハッケ ストリーミングはこちら↓ Amazon.co.jp ウィジェット