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©PyramideInternational

29回目を迎えた東京国際映画祭、一時は「有料試写会」などと揶揄されたこともあったが、近年は名実ともにアジア“最大級”の映画祭として、日本やアジアの若手作家の映画の発掘に力を入れている。エンターテインメント系の作品も多いが、他方で社会的なメッセージを持つ作品も多い。特にアジア諸国や中東、中南米、アフリカと言った経済的に発展途上国と言われる国々でそれが顕著だ。その中で今回取り上げるのは、エジプト映画の『クラッシュ』である。

この作品は、ムバラク政権を倒した2011年のエジプト革命から2年後のカイロを描く。当時、エジプトでは選挙で選ばれたムスリム同胞団のモルシが大統領に就任、それに反対する市民がデモを行い、それに対しムスリム同胞団も支持のデモを行っていた。そんな中、2人のアメリカ人ジャーナリストが軍によって護送車に捉えられる。そしてその護送車にデモの参加者やムスリム同胞団の面々も収容され、立場の異なる人々が狭い空間の中に閉じ込められることに。果たしてそこで何が起きるのか。

護送車の中には、家族連れや少女、政治などには関心のなさそうな若者など雑多な人たちがいる。この中で起きる諍いを観ていると、このエジプトの対立も他の多くの内線と同じく、人々が対立する理由ははっきりとしない。昨日まで隣人同士だった人々が憎み合い罵り合い、最終的には殺し合う。当事者には肉親をさらわれたとか辱められたとか犬を殺されたとかそれぞれ理由があるわけだが、その理由というのはそもそもの対立の原因であるはずの思想の違いとは関係のないものになってしまっている。

もちろんそのように思うのは傍観者だからだ。当事者になれば悲劇の中にいて加害者にならずにいられるかはわからない。復讐のため、自分の身を守るため、周りからよく見られたいから、様々な理由で対立する相手を殺めようと思うかもしれない。

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©PyramideInternational

この作品が描こうとしたのは、そのような悲劇的な状況にあるエジプトの縮図だろう。エジプト全土で起きている対立の無意味さをこの狭い空間の対立に落とし込むことで描こうとしている。実際に彼らは、対立を抱え続きながらも互いを尊重し、助け合い、共通の脅威に立ち向かうようになっていく。その中で家族や友人の関係が変化し、新たな関係が生まれる。人間は対立を乗り越えられる、そんな希望を抱かさせてくれるものだ。

しかし、ネタバレになるが、最後にこの護送車は暴徒に襲われるその暴徒がどちらの側の人達なのかは最後まで判然としないが、その暴徒たちに彼らは襲われ一人一人と護送車から引きずり出されていく。このシーンに私は「ゾンビ映画」を思った。この暴徒が理由もなく人を襲うゾンビ集団にしか見えなかったのだ。ゾンビ映画で人間たちはゾンビの襲撃から生き残るために対立を乗り越え協力するようになっていく。しかしそれでもゾンビに襲われ、1人また一人と殺されていくのだ。

人間同士の対立であっても、その対立の原因がわからなくなってしまったらもう相手はゾンビと変わらなくなってしまうのかもしれない。何を言っても聞く耳をもたず、ただただ命を奪おうとする何か、ユーゴスラビアでもルワンダでもそのようなことが起きた。隣人がある日突然ゾンビのようにこちらを襲ってくるのだ。エジプトでそのような悲劇が繰り返されないためには、ゾンビを生み出さないように対話をすることだ。実際にこの狭い護送車の中ではそれが可能だった。それをあらゆるところで行えばゾンビは生まれない。そんな希望を私達に持たせようとこの映画は必死に訴えかけてくる。

今、日本でこの映画を見る時思うのは、ゾンビという「顔の見えない敵」を生み出さないための努力を怠ってはいけないということだ。具体的に何が的になるのかを予見することは出来ないが、不要なレッテル貼りや「仮想敵」を作ることは物事を悪い方にしか進めない。多様性を受け入れ、自分とは違うけど敵ではない人たちと共存していくこと、漠然としているが、それが出来なければある日、気づかぬうちに自分がゾンビになってしまっているかもしれないのだ。

『クラッシュ』
2010年/エジプト/98分
監督・脚本:モハメド・ディアーブ
脚本:ハイレド・ディアーブ
出演:ネリー・カリム、ハニ・アデル、タレク・アブデル・アジズ、アフマド・マレク、アフマド・ダッシュ
http://socine.info/wp-content/uploads/2016/11/clash.jpghttp://socine.info/wp-content/uploads/2016/11/clash-300x300.jpgishimuraMoviedemocracy,egypt,TIFF
©PyramideInternational 29回目を迎えた東京国際映画祭、一時は「有料試写会」などと揶揄されたこともあったが、近年は名実ともにアジア“最大級”の映画祭として、日本やアジアの若手作家の映画の発掘に力を入れている。エンターテインメント系の作品も多いが、他方で社会的なメッセージを持つ作品も多い。特にアジア諸国や中東、中南米、アフリカと言った経済的に発展途上国と言われる国々でそれが顕著だ。その中で今回取り上げるのは、エジプト映画の『クラッシュ』である。 この作品は、ムバラク政権を倒した2011年のエジプト革命から2年後のカイロを描く。当時、エジプトでは選挙で選ばれたムスリム同胞団のモルシが大統領に就任、それに反対する市民がデモを行い、それに対しムスリム同胞団も支持のデモを行っていた。そんな中、2人のアメリカ人ジャーナリストが軍によって護送車に捉えられる。そしてその護送車にデモの参加者やムスリム同胞団の面々も収容され、立場の異なる人々が狭い空間の中に閉じ込められることに。果たしてそこで何が起きるのか。 護送車の中には、家族連れや少女、政治などには関心のなさそうな若者など雑多な人たちがいる。この中で起きる諍いを観ていると、このエジプトの対立も他の多くの内線と同じく、人々が対立する理由ははっきりとしない。昨日まで隣人同士だった人々が憎み合い罵り合い、最終的には殺し合う。当事者には肉親をさらわれたとか辱められたとか犬を殺されたとかそれぞれ理由があるわけだが、その理由というのはそもそもの対立の原因であるはずの思想の違いとは関係のないものになってしまっている。 もちろんそのように思うのは傍観者だからだ。当事者になれば悲劇の中にいて加害者にならずにいられるかはわからない。復讐のため、自分の身を守るため、周りからよく見られたいから、様々な理由で対立する相手を殺めようと思うかもしれない。 ©PyramideInternational この作品が描こうとしたのは、そのような悲劇的な状況にあるエジプトの縮図だろう。エジプト全土で起きている対立の無意味さをこの狭い空間の対立に落とし込むことで描こうとしている。実際に彼らは、対立を抱え続きながらも互いを尊重し、助け合い、共通の脅威に立ち向かうようになっていく。その中で家族や友人の関係が変化し、新たな関係が生まれる。人間は対立を乗り越えられる、そんな希望を抱かさせてくれるものだ。 しかし、ネタバレになるが、最後にこの護送車は暴徒に襲われるその暴徒がどちらの側の人達なのかは最後まで判然としないが、その暴徒たちに彼らは襲われ一人一人と護送車から引きずり出されていく。このシーンに私は「ゾンビ映画」を思った。この暴徒が理由もなく人を襲うゾンビ集団にしか見えなかったのだ。ゾンビ映画で人間たちはゾンビの襲撃から生き残るために対立を乗り越え協力するようになっていく。しかしそれでもゾンビに襲われ、1人また一人と殺されていくのだ。 人間同士の対立であっても、その対立の原因がわからなくなってしまったらもう相手はゾンビと変わらなくなってしまうのかもしれない。何を言っても聞く耳をもたず、ただただ命を奪おうとする何か、ユーゴスラビアでもルワンダでもそのようなことが起きた。隣人がある日突然ゾンビのようにこちらを襲ってくるのだ。エジプトでそのような悲劇が繰り返されないためには、ゾンビを生み出さないように対話をすることだ。実際にこの狭い護送車の中ではそれが可能だった。それをあらゆるところで行えばゾンビは生まれない。そんな希望を私達に持たせようとこの映画は必死に訴えかけてくる。 今、日本でこの映画を見る時思うのは、ゾンビという「顔の見えない敵」を生み出さないための努力を怠ってはいけないということだ。具体的に何が的になるのかを予見することは出来ないが、不要なレッテル貼りや「仮想敵」を作ることは物事を悪い方にしか進めない。多様性を受け入れ、自分とは違うけど敵ではない人たちと共存していくこと、漠然としているが、それが出来なければある日、気づかぬうちに自分がゾンビになってしまっているかもしれないのだ。 『クラッシュ』 2010年/エジプト/98分 監督・脚本:モハメド・ディアーブ 脚本:ハイレド・ディアーブ 出演:ネリー・カリム、ハニ・アデル、タレク・アブデル・アジズ、アフマド・マレク、アフマド・ダッシュ