宮崎県におばと暮らす高校2年生の岩戸鈴芽はある日、廃墟の扉を探しているという青年・宗像草太に出会う。知らないと嘘をついてしまった鈴芽は気になって廃墟の遊園地へと向かう。そこには扉があり、開けると星がまたたく夜の世界が広がっていたが、扉をくぐるとその世界は消えてしまう。さらに扉の近くにあった石像を引き抜くと生き物に姿を変えてどこかに行ってしまった。怖くなった鈴芽はそこから逃げ出すが、数時間後、その遊園地から空に異様な物体がせり上がっているのを目にし、遊園地に駆けつける。すると草太が扉を閉めようと奮闘していた。
開くと災害が起きるという扉の鍵を閉めて回る「閉じ師」の草太と旅をすることになった鈴芽は様々な人と出会い、自分の過去とも向き合っていく。
『君の名は。』『天気の子』の新海誠監督が「災害」をテーマに描くファンタジー映画。
格闘シーンの迫力と怖さが物語の鍵に
感想を書くために物語をもう少し解説しておくと、鈴芽が抜いてしまった石像は猫に姿を変えて現れ、「すずめすき」「おまえはじゃま」といって草太を子供用の椅子の中に閉じ込めてしまう。その猫を追いかける椅子の草太を追いかけて鈴芽は四国に渡ることになるが、猫は姿を消す。SNSで「ダイジン」と名付けられたその猫を追って鈴芽と椅子の草太が旅をするという設定だ。
その先々で扉が開いてミミズが出てくるのを草太と鈴芽は防いでいくが、扉を守る「要石」であった「ダイジン」の目的は何なのか。鈴芽にはなぜ「ミミズ」が見えるのか。椅子に閉じ込められた草太はどうなってしまうのか。そんな謎を追っていく物語だ。
その物語について書く前に、この映画で一番印象的だったのはミミズとの格闘シーンの迫力だ。映画館の大画面と大音響の影響もあると思うが、本当に圧倒される迫力があり、見ていて怖くなるくらいだ。小さい子供だったら、夢に見るくらいの怖さではなかっただろうか。
なぜそんなにも迫力があるのかと考えると、実はそれこそがこの映画の核なのだと言うことがわかって来る。
この格闘を経験しているのは草太と鈴芽だが、草太は慣れているのでそれほどの恐怖は感じないはずで、観客と同じ恐怖を感じているのは鈴芽のはずだ。そして、なぜそんなに怖いのかと考えると、それは扉を失敗したときに起きる災害の大きさと関係している。
映画の序盤には明らかにされないが、鈴芽は東日本大震災で母を失い、おばに引き取られた。幼い頃に自分の母親を含めた沢山の人が災害でなくなるという経験をしてしまった。それは彼女の中で大きなトラウマになっている。それは、真っ黒に塗りつぶされた絵日記のページによって示唆されている。
そんな鈴芽だから、ミミズを止めることに失敗し、地震が起きてしまうことに大きな恐怖を覚え、それが格闘シーンの怖さにつながっているのだ。観客はこのシーンによってすずめの感じている恐怖を共有し、彼女に共感していく。
ダイジンが時折発する「人がいっぱい死ぬよ」という言葉はその恐怖をさらに煽り、ダイジンを「敵」と規定していくことにつながっていく。もちろんそんな単純な構図ではなく、ダイジンの意図も少しずつ明らかになっていくのだが、しばらくはこの鈴芽の「恐怖」が物語を推し進める原動力になっている。
「死ぬのは怖くない」の真の意味とは
そしてもう一つポイントになるのが、鈴芽が「死ぬのは怖くない」とたびたび言い、「生死は運」だと小さい頃から思っていたと草太に告げる点だ。鈴芽は死にたいとは思っていないが、自分が死ぬことを恐れてはいない、死んでもそれはそれで仕方ないと思っているのだ。
この映画は壮大なファンタジーだが、鈴芽の心の中の物語と捉えることもできる。鈴芽は死にたいとは思っていないが生きる意味が見いだせずにいる。そのうえで災害への恐怖が根深いところにある。ダイジンはこの恐怖の象徴であり、草太はその恐怖と戦う心の象徴だ。ダイジンは死、草太は生の象徴でもある。
ダイジンが出現したのは、(時系列は前後するが)宮崎で起きた地震によって、抑え込まれていた鈴芽のトラウマが蘇り恐怖心が意識に上ってきたことを意味するのだろう。それに対抗する草太は、母親の形見の椅子に化けるが、これは亡くなった母親の「鈴芽に生きてほしい」という遺志がが結実したものと見ることができる。
そのうえで、鈴芽の恐怖は自分が死ぬことではなく、災害で沢山の人が死ぬことであることを考えると、扉を閉めて回る行為は恐怖が現実になることを防ぐことであり、恐怖と戦いながら自分の死を先送りすることを意味する。いつか来る死を意味あるものにするための戦いなのだ。
草太の戦いはそうではない。草太が勝利するということは、恐怖心を閉じ込めることだ。草太が勝つということは恐怖を乗り越えて先に進むことを意味する。だが、鈴芽にはその先の生きる意味が見えていない。この物語が最終的に目指すのは、鈴芽が恐怖心に打ち勝ち生きる意味を見出すことだ。そうすれば鈴芽は「死ぬのは怖くない」とはいえなくなる。
災害でなくなった人たちへのレクイエム
映画を結末まで見れば、鈴芽が「生きる」ことを選択したことはわかる。しかし、いつどこで生きる意味を見出したのかは判然としない。それは決定的な瞬間によってではなく、少しずつ鈴芽の中で育ってきたのだろう。そしてそれは鈴芽の心の中からではなく、外部との関係の中で育ってきたのだ。
一番大きいのはおばの環との関係だ。12年間お互い気を使いながら暮らしてきた二人がその関係を見つめ直し、先を見つめられるようになる出来事が映画の終盤に描かれている。それが大きかっただろう。でもそれだけではなく、旅の途上で出会う様々な人々との出会いが鈴芽を変えた。愛媛で出会った同い年のチカ、神戸で出会ったシングルマザーのルミ、彼女たちと出会うことで鈴芽は外の世界を知り、少しずつ生きるということの意味を理解していく。
そして、その土地がかつて大きな災害があった場所であることにもおそらく意味がある。愛媛は西日本豪雨で大きな被害を受けたし、神戸はもちろん阪神淡路大震災があった。その後出てくる東京では関東大震災に言及されている。こういった大きな災害は繰り返され、多くの人が大切な人をなくしているという事実を実感を持って知ることが鈴芽には大事なことだったのだ。
この経験によって鈴芽は母親を奪っていった一つの災害に固執することから開放され、多くの災害でなくなった人たちに思いを馳せ、生き残った自分が生きることの意味を見出すことができるようになっていったのではないか。
死者に思いを馳せることによって自分が生きる意味を見出す。これは鈴芽が経験したことであると同時に、この映画によって観客に経験してほしいこととしても提示されているのではないだろうか。この映画自体が災害でなくなった人たちへのレクイエムであり、それを受け止めた観客たちが自分の生を見つめ直すよう促していると考えるのは考えすぎだろうか。
震災関連映画として
ここまでが映画の感想で、ここからは余談になるが、この映画を見て『風の電話』と似た設定だと思った。
『風の電話』は9歳のとき東日本大震災で家族を失ったハルが広島の叔母に引き取られて育てられ、高校3年生になったときの物語だ。ハルは広島から生まれ故郷の岩手県大槌町へと旅をし、その途上で様々な人と出会って成長していく。ハルも生きる意欲が感じられない少女だったが、この旅を通して生きる意味を見出していくのだ。
共通するのは震災遺児の心の問題だ。彼らを守るのは当然のことだけれど、過保護になってしまってはいけない。彼らが自分の人生を歩むために私達にできることは何か、それが今、考えなければいけないことなのだ。
そして、この12年の間に様々な災害が起き、たくさんの被災者が生まれてしまった。だから、東日本大震災のことを考えると同時にこれから起きてしまうであろう様々な災害のことについても、何ができるのか東日本大震災の悲劇を糧にしてでも考えていかなければいけない時期に来ているのだと思う。
生き残った私たちは死者を思いながら前へ進まなければならない。
『すずめの戸締まり』
2022年/日本/121分
監督・脚本・原作:新海誠
作画監督:土屋堅一
美術監督:丹治匠
音楽:RADWIMPS、陣内一真
出演(声):原菜乃華、松村北斗、深津絵里、染谷将太、伊藤沙莉、花瀬琴音、花澤香菜、神木隆之介、松本白鸚
https://socine.info/2023/03/10/suzumenotojimari/https://i0.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2023/03/suzume_1.jpg?fit=640%2C452&ssl=1https://i0.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2023/03/suzume_1.jpg?resize=150%2C150&ssl=1ishimuraFeaturedMovieTheaterアニメ,ファンタジー,東日本大震災,災害(C)2022「すずめの戸締まり」製作委員会
宮崎県におばと暮らす高校2年生の岩戸鈴芽はある日、廃墟の扉を探しているという青年・宗像草太に出会う。知らないと嘘をついてしまった鈴芽は気になって廃墟の遊園地へと向かう。そこには扉があり、開けると星がまたたく夜の世界が広がっていたが、扉をくぐるとその世界は消えてしまう。さらに扉の近くにあった石像を引き抜くと生き物に姿を変えてどこかに行ってしまった。怖くなった鈴芽はそこから逃げ出すが、数時間後、その遊園地から空に異様な物体がせり上がっているのを目にし、遊園地に駆けつける。すると草太が扉を閉めようと奮闘していた。
開くと災害が起きるという扉の鍵を閉めて回る「閉じ師」の草太と旅をすることになった鈴芽は様々な人と出会い、自分の過去とも向き合っていく。
『君の名は。』『天気の子』の新海誠監督が「災害」をテーマに描くファンタジー映画。
格闘シーンの迫力と怖さが物語の鍵に
感想を書くために物語をもう少し解説しておくと、鈴芽が抜いてしまった石像は猫に姿を変えて現れ、「すずめすき」「おまえはじゃま」といって草太を子供用の椅子の中に閉じ込めてしまう。その猫を追いかける椅子の草太を追いかけて鈴芽は四国に渡ることになるが、猫は姿を消す。SNSで「ダイジン」と名付けられたその猫を追って鈴芽と椅子の草太が旅をするという設定だ。
その先々で扉が開いてミミズが出てくるのを草太と鈴芽は防いでいくが、扉を守る「要石」であった「ダイジン」の目的は何なのか。鈴芽にはなぜ「ミミズ」が見えるのか。椅子に閉じ込められた草太はどうなってしまうのか。そんな謎を追っていく物語だ。
その物語について書く前に、この映画で一番印象的だったのはミミズとの格闘シーンの迫力だ。映画館の大画面と大音響の影響もあると思うが、本当に圧倒される迫力があり、見ていて怖くなるくらいだ。小さい子供だったら、夢に見るくらいの怖さではなかっただろうか。
(C)2022「すずめの戸締まり」製作委員会
なぜそんなにも迫力があるのかと考えると、実はそれこそがこの映画の核なのだと言うことがわかって来る。
この格闘を経験しているのは草太と鈴芽だが、草太は慣れているのでそれほどの恐怖は感じないはずで、観客と同じ恐怖を感じているのは鈴芽のはずだ。そして、なぜそんなに怖いのかと考えると、それは扉を失敗したときに起きる災害の大きさと関係している。
映画の序盤には明らかにされないが、鈴芽は東日本大震災で母を失い、おばに引き取られた。幼い頃に自分の母親を含めた沢山の人が災害でなくなるという経験をしてしまった。それは彼女の中で大きなトラウマになっている。それは、真っ黒に塗りつぶされた絵日記のページによって示唆されている。
そんな鈴芽だから、ミミズを止めることに失敗し、地震が起きてしまうことに大きな恐怖を覚え、それが格闘シーンの怖さにつながっているのだ。観客はこのシーンによってすずめの感じている恐怖を共有し、彼女に共感していく。
ダイジンが時折発する「人がいっぱい死ぬよ」という言葉はその恐怖をさらに煽り、ダイジンを「敵」と規定していくことにつながっていく。もちろんそんな単純な構図ではなく、ダイジンの意図も少しずつ明らかになっていくのだが、しばらくはこの鈴芽の「恐怖」が物語を推し進める原動力になっている。
(C)2022「すずめの戸締まり」製作委員会
「死ぬのは怖くない」の真の意味とは
そしてもう一つポイントになるのが、鈴芽が「死ぬのは怖くない」とたびたび言い、「生死は運」だと小さい頃から思っていたと草太に告げる点だ。鈴芽は死にたいとは思っていないが、自分が死ぬことを恐れてはいない、死んでもそれはそれで仕方ないと思っているのだ。
この映画は壮大なファンタジーだが、鈴芽の心の中の物語と捉えることもできる。鈴芽は死にたいとは思っていないが生きる意味が見いだせずにいる。そのうえで災害への恐怖が根深いところにある。ダイジンはこの恐怖の象徴であり、草太はその恐怖と戦う心の象徴だ。ダイジンは死、草太は生の象徴でもある。
ダイジンが出現したのは、(時系列は前後するが)宮崎で起きた地震によって、抑え込まれていた鈴芽のトラウマが蘇り恐怖心が意識に上ってきたことを意味するのだろう。それに対抗する草太は、母親の形見の椅子に化けるが、これは亡くなった母親の「鈴芽に生きてほしい」という遺志がが結実したものと見ることができる。
(C)2022「すずめの戸締まり」製作委員会
そのうえで、鈴芽の恐怖は自分が死ぬことではなく、災害で沢山の人が死ぬことであることを考えると、扉を閉めて回る行為は恐怖が現実になることを防ぐことであり、恐怖と戦いながら自分の死を先送りすることを意味する。いつか来る死を意味あるものにするための戦いなのだ。
草太の戦いはそうではない。草太が勝利するということは、恐怖心を閉じ込めることだ。草太が勝つということは恐怖を乗り越えて先に進むことを意味する。だが、鈴芽にはその先の生きる意味が見えていない。この物語が最終的に目指すのは、鈴芽が恐怖心に打ち勝ち生きる意味を見出すことだ。そうすれば鈴芽は「死ぬのは怖くない」とはいえなくなる。
災害でなくなった人たちへのレクイエム
映画を結末まで見れば、鈴芽が「生きる」ことを選択したことはわかる。しかし、いつどこで生きる意味を見出したのかは判然としない。それは決定的な瞬間によってではなく、少しずつ鈴芽の中で育ってきたのだろう。そしてそれは鈴芽の心の中からではなく、外部との関係の中で育ってきたのだ。
一番大きいのはおばの環との関係だ。12年間お互い気を使いながら暮らしてきた二人がその関係を見つめ直し、先を見つめられるようになる出来事が映画の終盤に描かれている。それが大きかっただろう。でもそれだけではなく、旅の途上で出会う様々な人々との出会いが鈴芽を変えた。愛媛で出会った同い年のチカ、神戸で出会ったシングルマザーのルミ、彼女たちと出会うことで鈴芽は外の世界を知り、少しずつ生きるということの意味を理解していく。
(C)2022「すずめの戸締まり」製作委員会
そして、その土地がかつて大きな災害があった場所であることにもおそらく意味がある。愛媛は西日本豪雨で大きな被害を受けたし、神戸はもちろん阪神淡路大震災があった。その後出てくる東京では関東大震災に言及されている。こういった大きな災害は繰り返され、多くの人が大切な人をなくしているという事実を実感を持って知ることが鈴芽には大事なことだったのだ。
この経験によって鈴芽は母親を奪っていった一つの災害に固執することから開放され、多くの災害でなくなった人たちに思いを馳せ、生き残った自分が生きることの意味を見出すことができるようになっていったのではないか。
死者に思いを馳せることによって自分が生きる意味を見出す。これは鈴芽が経験したことであると同時に、この映画によって観客に経験してほしいこととしても提示されているのではないだろうか。この映画自体が災害でなくなった人たちへのレクイエムであり、それを受け止めた観客たちが自分の生を見つめ直すよう促していると考えるのは考えすぎだろうか。
(C)2022「すずめの戸締まり」製作委員会
震災関連映画として
ここまでが映画の感想で、ここからは余談になるが、この映画を見て『風の電話』と似た設定だと思った。
https://socine.info/2023/03/08/kazenodenwa/
『風の電話』は9歳のとき東日本大震災で家族を失ったハルが広島の叔母に引き取られて育てられ、高校3年生になったときの物語だ。ハルは広島から生まれ故郷の岩手県大槌町へと旅をし、その途上で様々な人と出会って成長していく。ハルも生きる意欲が感じられない少女だったが、この旅を通して生きる意味を見出していくのだ。
共通するのは震災遺児の心の問題だ。彼らを守るのは当然のことだけれど、過保護になってしまってはいけない。彼らが自分の人生を歩むために私達にできることは何か、それが今、考えなければいけないことなのだ。
そして、この12年の間に様々な災害が起き、たくさんの被災者が生まれてしまった。だから、東日本大震災のことを考えると同時にこれから起きてしまうであろう様々な災害のことについても、何ができるのか東日本大震災の悲劇を糧にしてでも考えていかなければいけない時期に来ているのだと思う。
生き残った私たちは死者を思いながら前へ進まなければならない。
https://youtu.be/8zGz4z3bdzg
『すずめの戸締まり』2022年/日本/121分監督・脚本・原作:新海誠作画監督:土屋堅一美術監督:丹治匠音楽:RADWIMPS、陣内一真出演(声):原菜乃華、松村北斗、深津絵里、染谷将太、伊藤沙莉、花瀬琴音、花澤香菜、神木隆之介、松本白鸚
Kenji
Ishimuraishimura@cinema-today.netAdministratorライター/映画観察者。
2000年から「ヒビコレエイガ」主宰、ライターとしてgreenz.jpなどに執筆中。まとめサイト→https://note.mu/ishimurakenji
映画、アート、書籍などのレビュー記事、インタビュー記事、レポート記事が得意。ソーシネ
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