子供用プールの周りではしゃぐ女性たち、ポルポラ、ニコル、ソフィア、サンデー、ミツィアはトランスジェンダーの仲間たちだ。一番年長のポルポラがかつてみなで集まった空き家にみなを呼び出した。数年ぶりに集まった理由は、30年前に亡くなった仲間アントニアの手紙の内容を皆に知らせること。そして彼女の霊を降ろすことだった。
集まった5人はそれぞれ自分の半生をカメラの前で語り始める。70年代に活動家として活躍したポラポラ・マルカシャーノを始め、実際にトランスジェンダーとして生きた女性たちが自身の似姿を演じるドキュメンタリー的ドラマ。ファンタジックにすることで彼女たちの心情がよりリアルに伝わってくる。
トランスジェンダーと売春
集まった女性たちは50歳から60歳前後、かつて皆で集まった家で昔話を始める。その話によれば、30年以上前、彼女たちはトランスジェンダーの走りとしてある種のスターだった。すべては語られないので、想像するしかない部分もあるが、売春をしながら、金持ちのパトロンを捕まえ、優雅な生活をしていたということのようだ。
しかし、もちろん彼女たちがの生き方はそれぞれ異なる。売春が嫌だったという者もいれば、売春を通じてお金を儲けて整形をし一番キレイになってやるという野望を持った者もいる。
それでも、70年代当時、彼女たちの生きる道は売春しかなかった。自らの性である女性として生きるには、売春するしかなかったというのはあまりに過酷ではないか。
彼女たちは(もちろん私たちと同じように)人生を生き、その瞬間瞬間に幸せをつかもうと生きてきた。70年代のトランスジェンダーに強いられた(と私たちには見える)生き方がむしろ性に合っていたから、彼女たちは優雅に幸せに生きることができた。その過去と比べて、年を取り美しさが失われた今は、社会がどうあれ、当時より幸せではないのかもしれない。
それはトランスジェンダーとしてではなく、人としての話だ。部外者はトランスジェンダーというものさしでつい見てしまうが、彼女たちはひとりの人間として人生を生きている、この物語はその視点から語られていることは忘れてはいけない。
そして、彼女たちのように本来の自分の性で生きられなかったトランスジェンダーが無数にいることも忘れてはいけない。異性の姿という殻に閉じ込められる人生より、生きづらくとも本来の性で生きることができた彼女たちは、自由に幸せに生きることができたのだろう。
ただ彼女たちはその時代を「幸せだった」と語り、逆にこれまでの人生は「幸せだったのか?」と疑問を抱く。部外者からしてみれば、彼女たちは過酷な時代を生き、そのおかげで少しはマシな世の中になったように思う。でも彼女たちの捉え方は違う。そこには、部外者から見た単純な構図では割り切れないものがある。
社会と自由と人間と
彼女たちはたびたび「自由」を口にする。幼少から女の子の格好をすることを禁じられてきた彼女たちにとっては、女性の姿になることが自由であることの必須条件である。その自由のためには家族も捨てた。しかし、そこまでして手に入れた自由を社会は奪おうとする。
その社会とは何なのだろうか。社会とは人間の集まりで、それはつまり私たちだ。人と社会は時に対立するが、人は社会に内包されるものだ。ひとりの人間が生きるということは大きなものから小さなものまでさまざまな社会に内包され、複雑な関係性の中に身を置くということだ。その中でなんとかやっていくしかない。
5人(ないし7人)の登場人物たちの生き様をトランスジェンダーという枠で捉えることが難しいのは、彼女たちがひとりひとりまったく異なる人間だからだ。当たり前だが。それは私たち一人ひとりがまったく異なる人間だということと等しく同じ意味を持つ。トランスジェンダーという枠で一括りにする前にひとりの人間として同じ立場に立つこと、それが真の多様性だと彼女たちの生き様が伝えてくれるのだ。
彼女たちは(映画の中では)活動家ではない。しかし、生き様そのものが人権とは何か、自由とは何か、平等とはなにかということを伝えてくれる。映画はファンタジックで楽しいものだが、見終わって深く見つめていくと、そんなことが見えてくる。
『ファビュラスな人たち』
Le Favolose
2022年/イタリア/74分
監督・脚本:ロベルタ・トッレ
脚本:クリスチャン・セレソリ
撮影:ステファノ・サレンメ
音楽:レオナルド・ロージ、トンマーゾ・マレスコ
出演:ポルポラ・マルカシャーノ、ニコル・デレオ、ソフィア・メイエル、ヴェート・サンデー、ミツィア・チュリーニ
東京国際映画祭『ファビュラスな人たち』
https://socine.info/2022/10/27/le-favolose/ishimuraMovieLGBTQ,イタリア,半ドキュメンタリー© 2022 Stemal Entertainment srl Faber Produzioni srl
子供用プールの周りではしゃぐ女性たち、ポルポラ、ニコル、ソフィア、サンデー、ミツィアはトランスジェンダーの仲間たちだ。一番年長のポルポラがかつてみなで集まった空き家にみなを呼び出した。数年ぶりに集まった理由は、30年前に亡くなった仲間アントニアの手紙の内容を皆に知らせること。そして彼女の霊を降ろすことだった。
集まった5人はそれぞれ自分の半生をカメラの前で語り始める。70年代に活動家として活躍したポラポラ・マルカシャーノを始め、実際にトランスジェンダーとして生きた女性たちが自身の似姿を演じるドキュメンタリー的ドラマ。ファンタジックにすることで彼女たちの心情がよりリアルに伝わってくる。
トランスジェンダーと売春
集まった女性たちは50歳から60歳前後、かつて皆で集まった家で昔話を始める。その話によれば、30年以上前、彼女たちはトランスジェンダーの走りとしてある種のスターだった。すべては語られないので、想像するしかない部分もあるが、売春をしながら、金持ちのパトロンを捕まえ、優雅な生活をしていたということのようだ。
しかし、もちろん彼女たちがの生き方はそれぞれ異なる。売春が嫌だったという者もいれば、売春を通じてお金を儲けて整形をし一番キレイになってやるという野望を持った者もいる。
それでも、70年代当時、彼女たちの生きる道は売春しかなかった。自らの性である女性として生きるには、売春するしかなかったというのはあまりに過酷ではないか。
彼女たちは(もちろん私たちと同じように)人生を生き、その瞬間瞬間に幸せをつかもうと生きてきた。70年代のトランスジェンダーに強いられた(と私たちには見える)生き方がむしろ性に合っていたから、彼女たちは優雅に幸せに生きることができた。その過去と比べて、年を取り美しさが失われた今は、社会がどうあれ、当時より幸せではないのかもしれない。
それはトランスジェンダーとしてではなく、人としての話だ。部外者はトランスジェンダーというものさしでつい見てしまうが、彼女たちはひとりの人間として人生を生きている、この物語はその視点から語られていることは忘れてはいけない。
そして、彼女たちのように本来の自分の性で生きられなかったトランスジェンダーが無数にいることも忘れてはいけない。異性の姿という殻に閉じ込められる人生より、生きづらくとも本来の性で生きることができた彼女たちは、自由に幸せに生きることができたのだろう。
ただ彼女たちはその時代を「幸せだった」と語り、逆にこれまでの人生は「幸せだったのか?」と疑問を抱く。部外者からしてみれば、彼女たちは過酷な時代を生き、そのおかげで少しはマシな世の中になったように思う。でも彼女たちの捉え方は違う。そこには、部外者から見た単純な構図では割り切れないものがある。
© 2022 Stemal Entertainment srl Faber Produzioni srl
社会と自由と人間と
彼女たちはたびたび「自由」を口にする。幼少から女の子の格好をすることを禁じられてきた彼女たちにとっては、女性の姿になることが自由であることの必須条件である。その自由のためには家族も捨てた。しかし、そこまでして手に入れた自由を社会は奪おうとする。
その社会とは何なのだろうか。社会とは人間の集まりで、それはつまり私たちだ。人と社会は時に対立するが、人は社会に内包されるものだ。ひとりの人間が生きるということは大きなものから小さなものまでさまざまな社会に内包され、複雑な関係性の中に身を置くということだ。その中でなんとかやっていくしかない。
5人(ないし7人)の登場人物たちの生き様をトランスジェンダーという枠で捉えることが難しいのは、彼女たちがひとりひとりまったく異なる人間だからだ。当たり前だが。それは私たち一人ひとりがまったく異なる人間だということと等しく同じ意味を持つ。トランスジェンダーという枠で一括りにする前にひとりの人間として同じ立場に立つこと、それが真の多様性だと彼女たちの生き様が伝えてくれるのだ。
彼女たちは(映画の中では)活動家ではない。しかし、生き様そのものが人権とは何か、自由とは何か、平等とはなにかということを伝えてくれる。映画はファンタジックで楽しいものだが、見終わって深く見つめていくと、そんなことが見えてくる。
© 2022 Stemal Entertainment srl Faber Produzioni srl
『ファビュラスな人たち』Le Favolose2022年/イタリア/74分監督・脚本:ロベルタ・トッレ脚本:クリスチャン・セレソリ撮影:ステファノ・サレンメ音楽:レオナルド・ロージ、トンマーゾ・マレスコ出演:ポルポラ・マルカシャーノ、ニコル・デレオ、ソフィア・メイエル、ヴェート・サンデー、ミツィア・チュリーニ
東京国際映画祭『ファビュラスな人たち』
Kenji
Ishimuraishimura@cinema-today.netAdministratorライター/映画観察者。
2000年から「ヒビコレエイガ」主宰、ライターとしてgreenz.jpなどに執筆中。まとめサイト→https://note.mu/ishimurakenji
映画、アート、書籍などのレビュー記事、インタビュー記事、レポート記事が得意。ソーシネ
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