(C)2019 BLACK BIRD PRODUCTIONS, INC ALL RIGHTS RESERVED

リリー(スーザン・サランドン)は病気で右手が麻痺し、体の他の部分も徐々に自由が効かなくなってきていた。週末、リリーと夫で医師のポールは二人の娘とその家族、リリーの親友リズを家に呼ぶ。リリーは尊厳死を望んでいて、死を前に大切な人たちと最後の週末を過ごそうと計画していたのだ。

長女のジェニファーは夫マイケルと、息子のジョナサンを連れて家を訪れ、次女のアナは恋人のクリスとやってくる。みな複雑な思いをいだきながら、リリーのために最善を尽くそうとするが…

生とは何か、死とは何か、家族とは、愛とは…と書いてしまうと陳腐だが、人それぞれ違う捉え方をしているそれらの概念の複雑さを複雑なままに提示する見ごたえのあるドラマ。決して答えは出ないが、時間内に答えを出さなければならない、そんな難問に取り組まされている気分になる。

死を選ぶことはできるのか

生死とは本来コントロールできないものであり、どんなときでも死は突然に訪れるものだ。本当に深刻な病気で、もうすぐ死ぬとわかっていても、本当に死ぬ瞬間がいつかはわからない。死とはそういうものだ。

しかし、この映画で描かれている安楽死の場合、明確にいつ死ぬかがわかっている。だから、その時間までをどう過ごすか時間を逆算して考えている。

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この完全な死への旅路にヒビを入れるのが次女のアナだ。アナは、母親の死を納得しておらず、事が行われる前に警察に連絡しようと密かに思っている。そのことを恋人のクリスに明かしたときに、彼女は「まだ準備ができてない」という。

これは、彼女が母親の死を受け入れる準備がまだできていないということだ。彼女以外のみなは本人を含めて準備ができている。そのために何ヶ月もかけて準備をしてきた。でもアナはその準備に深く関わることができず、それもあって心の準備ができていないのだろう。

そうなると、本当の安楽死とは何かという疑問が生まれる。本人だけでなく周囲のすべての人が受け入れてこそ人は安楽に死ねる。それならばアナが反対してしまうとその死は安楽死ではない。

アナは、そんな自分の心持ちを察せずに死を選ぶ母にエゴイズムを見ているのではないか。自ら死を選ぶことは人間の最後のエゴなのかもしれない。尊厳死という言葉もあるが、生きている間に尊厳を失うくらいなら死にたい、それはエゴと言っても差し支えないだろう。だって、家族はどんなに惨めな姿になっても生きていてほしいと思っているかもしれないのだ。

もう自分らしい生き方ができないから死ぬ、死とはそんなふうにして選べるものなのだろうか。

私も、回復する見込みもなく、周囲と意思の疎通も取れなくなったら、延命治療はしてほしくないと思う。でも、その境界はどこにあるのか。本当に回復の見込みがないと誰が判断できるのか。意思の疎通が取れていないと誰が判断するのか。そこは難しいと思った。

延命治療の拒否と安楽死はもちろん違う。しかし、その間には明確な線引はなく、程度の違いではないか。そう考えると、人はそもそも自分の死を選ぶことなどできるのか、その根本的なところに疑問をいだいた。

もちろん、その疑問に答えはない。でも考えずにはいられない、この映画が扱っているのはそんな問題で、だからこの映画の受け入れ方としては間違っていないと思う。

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死は残される人たちの問題

さて、この映画のもう一つの焦点は姉妹の関係にあるだろう。この映画を見る人のほとんどは自分の死が間近に迫っていない人だろうから、リリーより、娘たちに事故を投影することになる。

その時、この姉妹の関係も答えの出ない問題をはらんでいる。姉のジェニファーは夫も子供もいて、しっかり者で母親への思いやりもあるきちんとした人。それに対して妹のアナは定食にもつかず、恋人ともくっついたり離れたりするようないい加減な人。

ただ、見ているとジェニファーは嫌な奴だ。自分の正しさをかさに他人をジャッジする鼻持ちならない野郎なのだ。それに対してアナは繊細で人の思いを読み取ろうとする人物で、弱いけれど守ってあげたくなるような魅力がある。

アナがあまり実家に寄り付かないようなのは姉の存在が大きそうで、それに対してジェニファーはアナを非難するけれど、どこかアナに嫉妬しているようにも見える。

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そんな二人だから、母の死の受け止め方もまるで違う。ジェニファーは事実を求め、アナは自分の心に問いかける。詳しくは書けないのだけれど、この違いが物語に展開を生み、二人と母親の関係も変化していく。

それを見ると、死というのはやはり死ぬ本人よりも残される人たちの問題なんだということを再認識する。本人は死んで終わりだけど(という言い方もどうかと思うが)、残された人たちはその死によって変化した関係の中をそれから生き続けなければいけないのだ。もちろん死ぬ本人もその事を考えて残される人たちにとって一番いい死に方は何かと自分に問うのだろうけれど、そこのエゴと残さられる人たちへの思いのバランスというのも難しいものだろう。

なんだか話が堂々巡りしているようにも思うが、この映画が描こうとしているのはそういうことなのだろう。どうして絵も答えが出ない複雑な問題を複雑なママ描くために、登場人物たちの思いの違いを描いていく。家族でもこれだけ違うのだから、みんな違って当たり前だし、みんなが納得する答えが出ることなんてない。それをわかった上でどう考えるのか、それが問われているのだと思う。

『ブラックバード』
Blackbird
2019年/アメリカ・イギリス/97分
監督:ロジャー・ミッシェル
脚本:クリスチャン・トープ
撮影:マイク・エリー
出演:スーザン・サランドン、ケイト・ウィンスレット、ミア・ワシコウスカ、サム・ニール、リンゼイ・ダンカン

https://i1.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2021/06/blackbird1.jpg?fit=1024%2C682&ssl=1https://i1.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2021/06/blackbird1.jpg?resize=150%2C150&ssl=1ishimuraFeaturedMovie安楽死
(C)2019 BLACK BIRD PRODUCTIONS, INC ALL RIGHTS RESERVED リリー(スーザン・サランドン)は病気で右手が麻痺し、体の他の部分も徐々に自由が効かなくなってきていた。週末、リリーと夫で医師のポールは二人の娘とその家族、リリーの親友リズを家に呼ぶ。リリーは尊厳死を望んでいて、死を前に大切な人たちと最後の週末を過ごそうと計画していたのだ。 長女のジェニファーは夫マイケルと、息子のジョナサンを連れて家を訪れ、次女のアナは恋人のクリスとやってくる。みな複雑な思いをいだきながら、リリーのために最善を尽くそうとするが… 生とは何か、死とは何か、家族とは、愛とは…と書いてしまうと陳腐だが、人それぞれ違う捉え方をしているそれらの概念の複雑さを複雑なままに提示する見ごたえのあるドラマ。決して答えは出ないが、時間内に答えを出さなければならない、そんな難問に取り組まされている気分になる。 死を選ぶことはできるのか 生死とは本来コントロールできないものであり、どんなときでも死は突然に訪れるものだ。本当に深刻な病気で、もうすぐ死ぬとわかっていても、本当に死ぬ瞬間がいつかはわからない。死とはそういうものだ。 しかし、この映画で描かれている安楽死の場合、明確にいつ死ぬかがわかっている。だから、その時間までをどう過ごすか時間を逆算して考えている。 (C)2019 BLACK BIRD PRODUCTIONS, INC ALL RIGHTS RESERVED この完全な死への旅路にヒビを入れるのが次女のアナだ。アナは、母親の死を納得しておらず、事が行われる前に警察に連絡しようと密かに思っている。そのことを恋人のクリスに明かしたときに、彼女は「まだ準備ができてない」という。 これは、彼女が母親の死を受け入れる準備がまだできていないということだ。彼女以外のみなは本人を含めて準備ができている。そのために何ヶ月もかけて準備をしてきた。でもアナはその準備に深く関わることができず、それもあって心の準備ができていないのだろう。 そうなると、本当の安楽死とは何かという疑問が生まれる。本人だけでなく周囲のすべての人が受け入れてこそ人は安楽に死ねる。それならばアナが反対してしまうとその死は安楽死ではない。 アナは、そんな自分の心持ちを察せずに死を選ぶ母にエゴイズムを見ているのではないか。自ら死を選ぶことは人間の最後のエゴなのかもしれない。尊厳死という言葉もあるが、生きている間に尊厳を失うくらいなら死にたい、それはエゴと言っても差し支えないだろう。だって、家族はどんなに惨めな姿になっても生きていてほしいと思っているかもしれないのだ。 もう自分らしい生き方ができないから死ぬ、死とはそんなふうにして選べるものなのだろうか。 私も、回復する見込みもなく、周囲と意思の疎通も取れなくなったら、延命治療はしてほしくないと思う。でも、その境界はどこにあるのか。本当に回復の見込みがないと誰が判断できるのか。意思の疎通が取れていないと誰が判断するのか。そこは難しいと思った。 延命治療の拒否と安楽死はもちろん違う。しかし、その間には明確な線引はなく、程度の違いではないか。そう考えると、人はそもそも自分の死を選ぶことなどできるのか、その根本的なところに疑問をいだいた。 もちろん、その疑問に答えはない。でも考えずにはいられない、この映画が扱っているのはそんな問題で、だからこの映画の受け入れ方としては間違っていないと思う。 (C)2019 BLACK BIRD PRODUCTIONS, INC ALL RIGHTS RESERVED 死は残される人たちの問題 さて、この映画のもう一つの焦点は姉妹の関係にあるだろう。この映画を見る人のほとんどは自分の死が間近に迫っていない人だろうから、リリーより、娘たちに事故を投影することになる。 その時、この姉妹の関係も答えの出ない問題をはらんでいる。姉のジェニファーは夫も子供もいて、しっかり者で母親への思いやりもあるきちんとした人。それに対して妹のアナは定食にもつかず、恋人ともくっついたり離れたりするようないい加減な人。 ただ、見ているとジェニファーは嫌な奴だ。自分の正しさをかさに他人をジャッジする鼻持ちならない野郎なのだ。それに対してアナは繊細で人の思いを読み取ろうとする人物で、弱いけれど守ってあげたくなるような魅力がある。 アナがあまり実家に寄り付かないようなのは姉の存在が大きそうで、それに対してジェニファーはアナを非難するけれど、どこかアナに嫉妬しているようにも見える。 (C)2019 BLACK BIRD PRODUCTIONS, INC ALL RIGHTS RESERVED そんな二人だから、母の死の受け止め方もまるで違う。ジェニファーは事実を求め、アナは自分の心に問いかける。詳しくは書けないのだけれど、この違いが物語に展開を生み、二人と母親の関係も変化していく。 それを見ると、死というのはやはり死ぬ本人よりも残される人たちの問題なんだということを再認識する。本人は死んで終わりだけど(という言い方もどうかと思うが)、残された人たちはその死によって変化した関係の中をそれから生き続けなければいけないのだ。もちろん死ぬ本人もその事を考えて残される人たちにとって一番いい死に方は何かと自分に問うのだろうけれど、そこのエゴと残さられる人たちへの思いのバランスというのも難しいものだろう。 なんだか話が堂々巡りしているようにも思うが、この映画が描こうとしているのはそういうことなのだろう。どうして絵も答えが出ない複雑な問題を複雑なママ描くために、登場人物たちの思いの違いを描いていく。家族でもこれだけ違うのだから、みんな違って当たり前だし、みんなが納得する答えが出ることなんてない。それをわかった上でどう考えるのか、それが問われているのだと思う。 https://youtu.be/M5ukAPGEWmM 『ブラックバード』Blackbird2019年/アメリカ・イギリス/97分監督:ロジャー・ミッシェル脚本:クリスチャン・トープ撮影:マイク・エリー出演:スーザン・サランドン、ケイト・ウィンスレット、ミア・ワシコウスカ、サム・ニール、リンゼイ・ダンカン
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