宮城県出身の監督が、震災から一週間後、故郷を訪ねる。被災者たちにどう声をかけていいかわからない彼は、呆然と佇み、そこで見かけた犬の姿を見て、ペットたちも被災したことに気づく。そして、被災した動物たちがどうなっているのかを負い始める。
前半は被災した犬猫たちの現状(2011年から2012年)を追う。特に、原発事故の警戒区域では、ペットたちは置き去りにされ、人が入ることもできず、飢えて死んだり、野生化したりしていた。そこに入り、餌をあげる動物愛護団体や、そこから救い出した動物たちを保護するシェルターを紹介する。
後半では、警戒区域内で飼われていた牛たちを救おうとするボランティアの姿を追う。警戒区域の中では、家畜の移動、繁殖が禁止され、殺処分が指示される。それでも、飼育を続けようとする人達の姿を追うのだ。
このパートが非常に興味深い。
牛たちを助けようと奮闘するボランティの女性が紹介する「どうせ殺されるはずだった牛を救うことになんの意味があるのか」という考え方に戦慄する。牛は人が食べる目的で殺すことを予定していただけであって、死ぬ運命にあったわけではない。命をいただくために殺すのではなく、ただ殺すことをどうやって正当化できるのか。
経済性を失った経済動物は殺しても良い、動物の生死は経済合理性によって判断される、日本は(もしかしたら世界も)そんな考え方をする社会になってしまったのだ。
私も震災前はそんなことを意識していなかった。でも2011年の原発事故でそのことがわかってしまった。考えてみれば、その考え方はずっと社会に存在していた。保健所で殺処分される犬猫もそうだし、伝染病を理由に大量に殺される家禽もそうだ。
わたしたちは自然本来の営みを人間の論理で歪めてしまっている。それ自体は仕方のないことなのかもしれない、それこそがヒトという種が繁栄してきた理由だからだ。
しかし、東日本大震災や原発事故で明らかになったのは、その自然の改変が行き過ぎると自然は人間にしっぺ返ししてくるということだ。あるいは、過信しすぎた人間が自滅しているのかもしれない。津波の来るような場所には住まない、危険なものは作らない、自分たちを守るためのそんな原則をわたしたちは破り、自分たちの命を危険にさらしてきた。
そして、動物たちも犠牲にしてきた。
わたしたちがペットを求める理由の一つは、わたしたち人間の作られた世界と自然とをつなぐ紐帯になってくれるからかもしれない。人間が失ってしまった自然とのつながりを動物たちは持ち続けている。わたしたちはそれを感じたいのではないか。
人間は自然との繋がりなしに生きてはいけない。動物たちはそのことを自然にほとんど触れずに生きているわたしたちに教えてくれる。
人命のほうが大切だと人は言うだろう。それはたしかにそうだ。しかしそれは究極の選択が訪れたときには人の命を優先せざるを得ないというだけのことで、経済合理性も含めた人の命以外のあらゆる物に動物の命はまさるのではないか。それくらいの覚悟でいなければ人は自然の中で生きている資格がない。そんなことを思った。大げさすぎるだろうか。
『犬と猫と人間と2 動物たちの大震災』
2012年/日本/104分
監督:宍戸大裕
撮影:宍戸大裕
音楽:末森樹
https://socine.info/2021/03/11/inuneko-2/https://i0.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2021/03/inuneko2_1.jpg?fit=640%2C360&ssl=1https://i0.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2021/03/inuneko2_1.jpg?resize=150%2C150&ssl=1ishimuraFeaturedMovie(C)宍戸大裕
宮城県出身の監督が、震災から一週間後、故郷を訪ねる。被災者たちにどう声をかけていいかわからない彼は、呆然と佇み、そこで見かけた犬の姿を見て、ペットたちも被災したことに気づく。そして、被災した動物たちがどうなっているのかを負い始める。
前半は被災した犬猫たちの現状(2011年から2012年)を追う。特に、原発事故の警戒区域では、ペットたちは置き去りにされ、人が入ることもできず、飢えて死んだり、野生化したりしていた。そこに入り、餌をあげる動物愛護団体や、そこから救い出した動物たちを保護するシェルターを紹介する。
後半では、警戒区域内で飼われていた牛たちを救おうとするボランティアの姿を追う。警戒区域の中では、家畜の移動、繁殖が禁止され、殺処分が指示される。それでも、飼育を続けようとする人達の姿を追うのだ。
(C)宍戸大裕
このパートが非常に興味深い。
牛たちを助けようと奮闘するボランティの女性が紹介する「どうせ殺されるはずだった牛を救うことになんの意味があるのか」という考え方に戦慄する。牛は人が食べる目的で殺すことを予定していただけであって、死ぬ運命にあったわけではない。命をいただくために殺すのではなく、ただ殺すことをどうやって正当化できるのか。
経済性を失った経済動物は殺しても良い、動物の生死は経済合理性によって判断される、日本は(もしかしたら世界も)そんな考え方をする社会になってしまったのだ。
私も震災前はそんなことを意識していなかった。でも2011年の原発事故でそのことがわかってしまった。考えてみれば、その考え方はずっと社会に存在していた。保健所で殺処分される犬猫もそうだし、伝染病を理由に大量に殺される家禽もそうだ。
わたしたちは自然本来の営みを人間の論理で歪めてしまっている。それ自体は仕方のないことなのかもしれない、それこそがヒトという種が繁栄してきた理由だからだ。
しかし、東日本大震災や原発事故で明らかになったのは、その自然の改変が行き過ぎると自然は人間にしっぺ返ししてくるということだ。あるいは、過信しすぎた人間が自滅しているのかもしれない。津波の来るような場所には住まない、危険なものは作らない、自分たちを守るためのそんな原則をわたしたちは破り、自分たちの命を危険にさらしてきた。
そして、動物たちも犠牲にしてきた。
わたしたちがペットを求める理由の一つは、わたしたち人間の作られた世界と自然とをつなぐ紐帯になってくれるからかもしれない。人間が失ってしまった自然とのつながりを動物たちは持ち続けている。わたしたちはそれを感じたいのではないか。
(C)宍戸大裕
人間は自然との繋がりなしに生きてはいけない。動物たちはそのことを自然にほとんど触れずに生きているわたしたちに教えてくれる。
人命のほうが大切だと人は言うだろう。それはたしかにそうだ。しかしそれは究極の選択が訪れたときには人の命を優先せざるを得ないというだけのことで、経済合理性も含めた人の命以外のあらゆる物に動物の命はまさるのではないか。それくらいの覚悟でいなければ人は自然の中で生きている資格がない。そんなことを思った。大げさすぎるだろうか。
https://youtu.be/qeT0EOuD3Fw
『犬と猫と人間と2 動物たちの大震災』2012年/日本/104分監督:宍戸大裕撮影:宍戸大裕音楽:末森樹
Kenji
Ishimuraishimura@cinema-today.netAdministratorライター/映画観察者。
2000年から「ヒビコレエイガ」主宰、ライターとしてgreenz.jpなどに執筆中。まとめサイト→https://note.mu/ishimurakenji
映画、アート、書籍などのレビュー記事、インタビュー記事、レポート記事が得意。ソーシネ
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