金髪の少年がサーカス小屋につれてこられる。少年は両親が営む商店「ウクライナ」で暮らす。父親は息子を男にしようと床屋に行き、かつらを外させ、頬を殴る。母親は歌う。消防団のマスコットになる。
ホドロフスキー監督の少年時代である1920年代のチリを舞台に、寓話が重なる幻想的なドラマ。ホドロフスキー一家総出演で監督の心象風景を映像化した作品。
奇妙な演出で見るものを考えさせる映画
さまざまな面で奇妙な映画ですが、基本的な構造は時系列に沿って短い寓話が連なるというもの。アレハンドロ少年が経験するさまざまな出来事が幻想的なショートストーリーとして描かれています。
例えば序盤で印象的なのは、両手を失った男が背中をかかせてくれと店に訪ねてくると、アレハンドロ少年は自らの手で背中をかいてあげて、持っていたアイスも上げて、最後にはハグします。でも、そこにやってきた父親はその男を汚らしいと言って追い払ってしまいます。
後日、またその男がやってきたのを見た父親が男を追いかけると、そこには腕や足を失い、中には四肢すべてを失った男たちの集団が。父親は男たちに襲われますが反撃し、最後には男たちがトラックで連れられて行ってしまいます。
このエピソードが何を言おうとしているのかは判然としませんが、すごいのは、不具の男たちがおそらく”本物”なことです。特殊メイクとかではなく、本当にそういう障害を持つ人達が演じています。
この映画には 店の前で宣伝をする小人症の男を始め、 他にもたくさんの「フリークス」が登場します。上述のエピソードのようにひとつでは意味をなさなくても、これだけたくさん登場すると、そこには何が意味があるだろうと考えざるを得ません。
そして、それを考えさせることがこの映画の第一の目的なのだろうと思います。
なので、皆さん、見て考えてほしいのですが、私も自分なりに考えてみました。すると、この映画自体の意味も少し見えてきたのです。
周縁化された人々と権威主義
ここに登場するフリークスたちは社会によって周縁化された人たちの典型だと考えられます。この映画には他にも同性愛者など周縁化された人たちがたくさん登場します。
それが意味するのは何か、父親のハイメはユダヤ人として差別されています。息子のアレハンドロも明確には描かれていませんが学校でいじめられているようですし、少なくとも多数とは異なる存在であることはビジュアルで示されています。クラスメートとのシーンで、多くがメスティーソの中でアレハンドロだけが明らかなヨーロッパ系なのです。
彼らの一家は金持ちで白人という優越的な立場ではありますが、多数から疎外され周縁化された立場でもあるのです。
しかし、ハイメは上述の不具の人たちとのシーンからもわかるように自分より弱い立場の人たちをさらに差別しています。それが意味するのは、共産主義者として描かれていながら、実は権威主義者なのです。店に飾られているスターリンの写真からそもそも類推すべきことだったかもしれませんが。
この差別と権威主義は映画の大きなテーマのひとつです。
この時代のチリはイバニェスという独裁者の統治のもとにありました。終盤にハーケンクロイツを掲げた小さな軍事パレードが映されることからも、このイバニェス政権が全体主義で、周縁化された人々を虐げる政治を行うことは明らかです。その中で自らも周縁にいるハイネがさらなる周縁を虐げることの意味は何でしょうか。
映画の後半でハイネは自分が実は権威主義者であったことに気づいていきます。彼は自分の心の内を見つめることで、自分が本当は何者で、どうなりたいのかを見つけていくのです。
そんな物語をホドロフスキーはなぜこんな奇妙な寓話によって描いたのでしょうか。
心象風景というリアル
ポイントになるのは「心の内」ということです。この映画が幻想的な寓話で成り立っているのは、おそらく一つ一つのエピソードがホドロフスキー自信の少年時代の心象風景を映像化したものだからでしょう。現実に起こったことではなく、心に残った印象を映像にしているのです。
だから強烈な印象を残したものは強調され、日常は背景に後退する。さらに言えば、それは現実に起こっていなくても良くて、どこかで見聞きした物語であっても、それが経験としてリアリティを持って記憶されていれば、心象風景としてはリアルなものになるので、エピソードして映画に組み込まれてもいいのです。
つまり私たちが見せられているのは現実とも空想ともつかない過去だということです。
なぜそうなのか、それは個人という視点から過去とは常にそのようなものだからです。そしてそれはひとりひとりみんな違う。客観的な事実というものが存在しているとみんな思っているけれど、それは集団幻想に過ぎず、それは権威が多数派を代表(すると称)して事実と認定した過去の一つの見方に過ぎないのです。
ホドロフスキーはたくさんの周縁化された人々を登場させ、個人の視点から見た過去を物語としてみせることで、歴史と権威のあり方を私たちに提示しているのではないでしょうか。
一面的なものの味方を押し付ける権威主義には注意しなければいけない、中心にいるつもりで周縁を蔑んではいけない、そんな警句を私達に投げかけている、私にはそう読み取れました。
残る謎は、どうしてあんなにたくさん犬が出てくるのか。何かの暗喩なのか、ただホドロフスキーが犬が好きなだけなのか、彼の心象風景には常に犬がいるのか、その謎は次の作品で明らかになるかもしれません。
『リアリティのダンス』
2013年/チリ=フランス/130分
監督・原作・脚本:アレハンドロ・ホドロフスキー
撮影:ジャン=マリー・ドルージェ
音楽:アダン・ホドルフスキー
出演:ブロンティス・ホドロフスキー、パメラ・フローレス、イェレミアス・ハースコビッツ、アレハンドロ・ホドロフスキー
https://socine.info/2020/04/21/dance-of-reality/https://i1.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2020/04/reality_main.jpg?fit=1024%2C590&ssl=1https://i1.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2020/04/reality_main.jpg?resize=150%2C150&ssl=1ishimuraMovieVODアレハンドロ・ホドロフスキー© “LE SOLEIL FILMS” CHILE・“CAMERA ONE” FRANCE 2013
金髪の少年がサーカス小屋につれてこられる。少年は両親が営む商店「ウクライナ」で暮らす。父親は息子を男にしようと床屋に行き、かつらを外させ、頬を殴る。母親は歌う。消防団のマスコットになる。
ホドロフスキー監督の少年時代である1920年代のチリを舞台に、寓話が重なる幻想的なドラマ。ホドロフスキー一家総出演で監督の心象風景を映像化した作品。
奇妙な演出で見るものを考えさせる映画
さまざまな面で奇妙な映画ですが、基本的な構造は時系列に沿って短い寓話が連なるというもの。アレハンドロ少年が経験するさまざまな出来事が幻想的なショートストーリーとして描かれています。
例えば序盤で印象的なのは、両手を失った男が背中をかかせてくれと店に訪ねてくると、アレハンドロ少年は自らの手で背中をかいてあげて、持っていたアイスも上げて、最後にはハグします。でも、そこにやってきた父親はその男を汚らしいと言って追い払ってしまいます。
後日、またその男がやってきたのを見た父親が男を追いかけると、そこには腕や足を失い、中には四肢すべてを失った男たちの集団が。父親は男たちに襲われますが反撃し、最後には男たちがトラックで連れられて行ってしまいます。
このエピソードが何を言おうとしているのかは判然としませんが、すごいのは、不具の男たちがおそらく'本物”なことです。特殊メイクとかではなく、本当にそういう障害を持つ人達が演じています。
この映画には 店の前で宣伝をする小人症の男を始め、 他にもたくさんの「フリークス」が登場します。上述のエピソードのようにひとつでは意味をなさなくても、これだけたくさん登場すると、そこには何が意味があるだろうと考えざるを得ません。
© “LE SOLEIL FILMS” CHILE・“CAMERA ONE” FRANCE 2013
そして、それを考えさせることがこの映画の第一の目的なのだろうと思います。
なので、皆さん、見て考えてほしいのですが、私も自分なりに考えてみました。すると、この映画自体の意味も少し見えてきたのです。
周縁化された人々と権威主義
ここに登場するフリークスたちは社会によって周縁化された人たちの典型だと考えられます。この映画には他にも同性愛者など周縁化された人たちがたくさん登場します。
それが意味するのは何か、父親のハイメはユダヤ人として差別されています。息子のアレハンドロも明確には描かれていませんが学校でいじめられているようですし、少なくとも多数とは異なる存在であることはビジュアルで示されています。クラスメートとのシーンで、多くがメスティーソの中でアレハンドロだけが明らかなヨーロッパ系なのです。
彼らの一家は金持ちで白人という優越的な立場ではありますが、多数から疎外され周縁化された立場でもあるのです。
しかし、ハイメは上述の不具の人たちとのシーンからもわかるように自分より弱い立場の人たちをさらに差別しています。それが意味するのは、共産主義者として描かれていながら、実は権威主義者なのです。店に飾られているスターリンの写真からそもそも類推すべきことだったかもしれませんが。
この差別と権威主義は映画の大きなテーマのひとつです。
© “LE SOLEIL FILMS” CHILE・“CAMERA ONE” FRANCE 2013
この時代のチリはイバニェスという独裁者の統治のもとにありました。終盤にハーケンクロイツを掲げた小さな軍事パレードが映されることからも、このイバニェス政権が全体主義で、周縁化された人々を虐げる政治を行うことは明らかです。その中で自らも周縁にいるハイネがさらなる周縁を虐げることの意味は何でしょうか。
映画の後半でハイネは自分が実は権威主義者であったことに気づいていきます。彼は自分の心の内を見つめることで、自分が本当は何者で、どうなりたいのかを見つけていくのです。
そんな物語をホドロフスキーはなぜこんな奇妙な寓話によって描いたのでしょうか。
心象風景というリアル
ポイントになるのは「心の内」ということです。この映画が幻想的な寓話で成り立っているのは、おそらく一つ一つのエピソードがホドロフスキー自信の少年時代の心象風景を映像化したものだからでしょう。現実に起こったことではなく、心に残った印象を映像にしているのです。
だから強烈な印象を残したものは強調され、日常は背景に後退する。さらに言えば、それは現実に起こっていなくても良くて、どこかで見聞きした物語であっても、それが経験としてリアリティを持って記憶されていれば、心象風景としてはリアルなものになるので、エピソードして映画に組み込まれてもいいのです。
つまり私たちが見せられているのは現実とも空想ともつかない過去だということです。
© “LE SOLEIL FILMS” CHILE・“CAMERA ONE” FRANCE 2013
なぜそうなのか、それは個人という視点から過去とは常にそのようなものだからです。そしてそれはひとりひとりみんな違う。客観的な事実というものが存在しているとみんな思っているけれど、それは集団幻想に過ぎず、それは権威が多数派を代表(すると称)して事実と認定した過去の一つの見方に過ぎないのです。
ホドロフスキーはたくさんの周縁化された人々を登場させ、個人の視点から見た過去を物語としてみせることで、歴史と権威のあり方を私たちに提示しているのではないでしょうか。
一面的なものの味方を押し付ける権威主義には注意しなければいけない、中心にいるつもりで周縁を蔑んではいけない、そんな警句を私達に投げかけている、私にはそう読み取れました。
残る謎は、どうしてあんなにたくさん犬が出てくるのか。何かの暗喩なのか、ただホドロフスキーが犬が好きなだけなのか、彼の心象風景には常に犬がいるのか、その謎は次の作品で明らかになるかもしれません。
https://youtu.be/N4A73GpgPRs
『リアリティのダンス』2013年/チリ=フランス/130分監督・原作・脚本:アレハンドロ・ホドロフスキー撮影:ジャン=マリー・ドルージェ音楽:アダン・ホドルフスキー出演:ブロンティス・ホドロフスキー、パメラ・フローレス、イェレミアス・ハースコビッツ、アレハンドロ・ホドロフスキー
https://eigablog.com/vod/movie/dance-of-reality/
Kenji
Ishimuraishimura@cinema-today.netAdministratorライター/映画観察者。
2000年から「ヒビコレエイガ」主宰、ライターとしてgreenz.jpなどに執筆中。まとめサイト→https://note.mu/ishimurakenji
映画、アート、書籍などのレビュー記事、インタビュー記事、レポート記事が得意。ソーシネ
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