今日は「世界ダウン症の日」ということなので、ダウン症に関係する映画は何か無いかと探して思い出した『チョコレート・ドーナツ』を紹介します。

舞台は1979年のアメリカ、自分がゲイであることを押し殺して来たと思われるポールが、ゲイバーでダンサーとして踊るルディに出会い、惹かれてしまう。ポールはゲイの世界に飛び込むことを躊躇し、ルディに対して煮え切らない態度を取る。

そんな中ルディは、アパートの隣の部屋でドラック漬けの母親と暮らすダウン症の少年マルコに出会う。母親が逮捕され、マルコは施設に送られるが、施設を逃げ出してきたマルコをルディは自分の家に連れ帰り、検事局に勤めるポールに相談する。

そのような経緯もあって、付き合うこととなったポールとルディはマルコを引き取って幸せに暮らすが、結局マルコを取り上げられることとなり、2人は弁護してくれる黒人弁護士のロニー・ワトソンと出会う。

70年代末のアメリカで、同性愛者、障害者、黒人という「被差別者」たちが出会う物語。今も決して差別がなくなったとは言わないが、今と比べても激しい差別が存在した時代の彼らの必死の戦いを描く。

しかしどうだろう。この映画を見ると、社会の息苦しさというのは、今もそんなに変わっていないように思えてしまう。確かにLGBTという言葉が広まり、その権利を尊重しようという動きが出ているし、障害者にしても支援は手厚くなっている。

障害者といえば、ちょっと脇道にそれるが、「障がい者」という表記をよく見る。これは「害」という字のイメージが悪いかららしいが、なんでそんなことをするのか。「障害者」というのは、いくら書き方を変えたからって「障害」自体がそもそもマイナスのイメージの言葉だからそれで何かが変わるとも思えない。それに、漢字と平仮名がまじると読みにくい。

この問題も、実は差別問題と絡み合っていて、とかく日本人というのは「配慮」をしすぎる傾向にあるような気がする。「『害』という字が入っていると障がい者の方が気を悪くするんじゃないか…」と余計な気を回してそれを使わないようにする。でも、重要なのはどんな書き方をするかじゃなくて、相手のことを本当はどう思っているかでしょ?

障害者と書こうが、障がい者と書こうが、はたまた障碍者と書こうが、その人が相手を差別する意識を持たず、自分と同じ人間だと思っていれば、それでいいんじゃないかと。画一的に「こうやったほうがいい」と決めたところで、それで何が変わるわけじゃない。一対一でも多対多でも実際に向き合った時に、ちゃんとした態度をとれること、それが本当に差別をなくすということであって、制度というのはそれをサポートするものにすぎない。そのことを差し置いて、とりあえず、表面的な部分で差別的な表現や、相手を差別することにつながる(かもしれない)モノを排除すればそれで差別がないことにしている考え方こそ改めなきゃいけないのではないだろうか。

どんな言葉でも、それは受け手の受け取り方の問題で、障害者でも、オカマでも、ハゲでも、ちびでも、なんでも。

LGBTというのもそうで、言葉自体は定着してきた感じがあるけれど、他方で「オネエ」という言葉も盛んに使われていたりして、本当は差別意識を持っているけれど、LGBTと言っとけば政治的に正しいからそれでいいだろうと言い訳をしている人が多いように思えてしまう。

この映画が描いている時代は、ゲイやレズビアンの存在自体が脅かされるような時代で、それを考えると今はだいぶましになったとも言えるけれど、LGBTと言っときゃいいと思ってしまう人の意識というのは、この40年近く前の「一般人」たちの意識とそう変わっていないようにも思える。

差別というのは、相手を理解できない「異物」と考えることから生じる。レッテルを貼るというのは、そのような考え方の表れの一つではないだろうか。

しかし、この映画を見て、自分は本当にそういう差別意識を持っていないだろうかと問いかけてみると、それは必ずしもゼロではないという結論に達する人が、私もそうだが多いのではないか。差別はいけないことだけれど、何故か心から完全に追い払うことは非常に難しい。

それはしかたのないことだ。人は、自分に理解し難いものに対して嫌悪感を覚えたり拒絶したりするものだ。それは見た目やセクシャリティだけではなく、思想でも、年齢でも、いろいろな物に当てはまる。

今日は特に「世界ダウン症の日」ということで、ダウン症のことについて言うと、ダウン症の人たちに共通する見た目が私たち「健常者」にレッテルを貼らせる。その見た目に嫌悪感を覚えてしまう人もいるだろうし、以前に同じダウン症の人の奇異な行動を目にしたことがあったりすると、ダウン症の人たち全体を避けようと思ってしまうかもしれない。けれども逆に、子供の頃にクラスメイトにダウン症の人がいたりして、相手のことを理解した体験があったりすると、そのような感情を抱かないかもしれない。

これが意味するのは、実際に直接一対一でコミュニケーションをとってみれば、大概の差別意識というのは無くなるか薄まるということだ。ただ、そのような機会がなかったり、言葉などの問題でコミュニケーションが取りづらかったりすると、心の距離が生じて差別意識が生まれてしまうのだろう。

実際にコミュニケーションが取れないならば、私たちにできるのは、その距離を理性と想像力で埋めて、相手を尊重して生きていくことしかない。そのためには、障害者やLGBTというレッテルを貼ることで自分たちとは「違う」という線引を行うことはなるべくやめて、相手と自分との「つながり」の方に目を向けたい。実際に、この映画に登場するマルコを見ていると、私たちとダウン症の人たちの距離はそんなに遠くないと思うのではないだろうか。

この映画に描かれている、そういうものから目を背けた人々の行動を反面教師にして、機会があるごとに想像力を発揮して多様な世界を受け入れられる人間に一歩ずつ近づいていきたいと思う。

チョコレートドーナツ
Any Day Now
2012年/アメリカ/97分
監督:トラヴィス・ファイン
脚本:ジョージ・アーサー・ブルーム、トラヴィス・ファイン
撮影:レイチェル・モリソン
音楽:ジョーイ・ニューマン
出演:アイザック・レイヴァ、アラン・カミング、ギャレット・ディラハント、グレッグ・ヘンリー、ドン・フランクリン、フランシス・フィッシャー

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今日は「世界ダウン症の日」ということなので、ダウン症に関係する映画は何か無いかと探して思い出した『チョコレート・ドーナツ』を紹介します。 舞台は1979年のアメリカ、自分がゲイであることを押し殺して来たと思われるポールが、ゲイバーでダンサーとして踊るルディに出会い、惹かれてしまう。ポールはゲイの世界に飛び込むことを躊躇し、ルディに対して煮え切らない態度を取る。 そんな中ルディは、アパートの隣の部屋でドラック漬けの母親と暮らすダウン症の少年マルコに出会う。母親が逮捕され、マルコは施設に送られるが、施設を逃げ出してきたマルコをルディは自分の家に連れ帰り、検事局に勤めるポールに相談する。 そのような経緯もあって、付き合うこととなったポールとルディはマルコを引き取って幸せに暮らすが、結局マルコを取り上げられることとなり、2人は弁護してくれる黒人弁護士のロニー・ワトソンと出会う。 70年代末のアメリカで、同性愛者、障害者、黒人という「被差別者」たちが出会う物語。今も決して差別がなくなったとは言わないが、今と比べても激しい差別が存在した時代の彼らの必死の戦いを描く。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || ).push({});
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