今年も残りわずかとなりました。「今年は全然ブログ書けなかったな」などと例年通りの反省をしながら今年を振り返ってみると、今年も”多様性”がずっと頭に引っかかっていたかななどと思いました。

直近では、外国人労働者に関していろいろ報道されて、この国はどこまで多様性を認めないのかと絶望的になったりもしました。他方で、縄文にハマって、その頃に日本列島を考えてみると、そこにはかなり多様性を受け入れる文化があったように思え、わずかな希望も見えた気がします。

さて、その多様性でここ数年話題になり続けているのがLGBTです。今年も「おっさんずラブ」が流行って、そのことを触れたりもしましたが、現在、ユナイテッドピープルの”cinemo”で『ジェンダーマリアージュ』が無料公開されているので、強はその映画について書きたいと思います。

前置きがまどろっこしくなってしまいましたが、今年を振り返りつつ、現在のトピックにからませて、年内になんか書いとかなきゃなという自省の念が絡み合った結果がこれです。

まあ、映画は面白いので、私のそんな気持ちは気にせず、読んでから観るか、観てから読むか、時間があるときに是非してください。

同性婚は特別なのか?

物語の発端は2008年、それまで同性婚が認められていたカリフォルニア州で、結婚を男女間に限定する州憲法の「提案8号」が通過したことだった。これに反対するNPOは、結婚する権利を奪われた同性カップル二組を原告に、この「提案8号」が人権侵害であるという裁判を連邦裁判所に起こす。果たして同性婚はアメリカ全土で認められるのか…

この映画はタイトルからもあらすじからも、同性愛者に対する差別の解消が焦点になっているように見えるかもしれない。しかし、この映画が扱おうとしているのは、もっと根本的な、われわれみんなが直面する問題だ。

この裁判はアメリカで大きな話題になったが、その理由の一つが、原告側弁護士に、かつてジョージ・W・ブッシュとアル・ゴアが大統領選挙の再集計をめぐって争った裁判で、それぞれの代理人となっていた2人の大物弁護士だった就いたことだった。

テッド・オルソンとデビット・ボイス

ブッシュ氏側の訴訟代理人だったテッド・オルソンはもちろん共和党員で、当然同性婚には反対だと世間には考えられていたが、「結婚の権利はだれにでも認められるべきものだ」という考えのもと、かつて敵対したデビット・ボイスと協力して戦うことにしたのだ。

これは、同性婚を特別視するのではなく、同性愛者であるとないとにかかわらず結婚する権利は皆にあるという前提から考えると、同性婚は認められないとおかしいという考え方だ。

つまり、テッド・オルソンが問題にしているのは結婚という制度の問題であり、同性愛者に対する偏見や差別を問題にしているわけではない。

結婚という制度は社会によって作られた制度であり、そこには社会のあるべき(と制度を作る/維持する側の人が考える)姿が投影されている。同性婚を認めない結婚制度を持つ社会には、結婚は子どもを作り育てるためのものだという社会通念が強くあるのではないか。それに対して、同性婚を認める結婚制度を持つ社会では、結婚に結婚する当事者たちが協働して社会を構成する単位になるという以上の意味を持たせないのだろう。

ここからわかるのは、同性婚をどう捉えるかは、社会をどう見ているかに関わってくるということだ。社会全体を俯瞰してみるのか、それとも個人に視点をおいてみるのかだ。

この視点のあり方は社会によってだけでなく、個人によっても違い、さらにそれは変化もする。それを示す一つの例が、同性婚に反対の立場から賛成の立場に「転向」する人の存在だ。その人はその「転向」の理由を「信念がじゃまになって、他人が見えなくなることがある」からだという。彼は「結婚は男女間のものであるべき」という「信念」に固執したがために、その向こうにいる苦しんでいる人々が見えなくなってしまっていたことに気づいたというのだ。

これは社会全体を俯瞰して「同性婚」という概念に反対だったものが、個人に目をやったことで、それによって苦しむ人たちがいることに気づいて賛成に転向したということができる。これは結婚という「制度」ではなく、結婚をする「人間」に目を向けて同性婚に賛成をするテッド・オルソンの姿勢に共通するものだ。

誰もが自分が誰なのか知りたい。

社会全体を俯瞰する視点と個人の立場から見る視点はどちらかが良くてどちらかが悪いわけではもちろんなく、両方必要な視点だ。

ただ、同性婚に問題を限ると、個人の立場からの視点の方に優位性があるように思えてくる。それは、これが性自認の問題であり、個人のアイデンティティに関わる問題だからだ。

そのように思ったのは、原告の1人がいった「自分が何なのかわからないで生きるより、今の差別があったとしても自分が誰か(Who I am)わかって生きるほうがいい」という意味の発言からだった。

これは、自分が同性愛者であると認識する前、周りと違うことはわかるけれど、それがなんなのかわからず、自分が何者なのかわからずにいた。しかし、愛し合える相手を見つけて、自分が何者なのかわかったということだろう。そして、その相手と結婚することは、自分が何者であるのかを社会に認めてもらえることだ。

そう考えると、同性婚を選択することは彼らが「自分が自分である」ことを確認し、社会にそれを意思表示することと意味づけることができる。

ならば、この映画が描くのは「自分が誰か」を規定する選択肢を勝ち取る戦いで、それは彼ら自身のための戦いであり、同時にまだ自分が何者かわかっていない同じ境遇にある人たち、例えば思春期の同性愛の人たちに、自分が誰かを認識する機会を与えるための戦いでもあったのだと言える。

社会のマジョリティを占めるストレートとして生きていく中では、「自分が誰か」を認識するためにこのような大きな困難に直面することはなかなかない。しかし「自分が自分である」ためにはあって欲しい選択肢が存在せず「生きづらさ」を感じるという経験をしている人は多いのではないだろうか。

この映画が描いているのはそれと同じ「生きづらさ」だ。

主人公たちは、その困難を乗り越えて「自分らしさ」を獲得する。その経験は思想信条の違いを超えて誰にとっても祝福に値するものであり、だからこの映画は感動的なのだ。

「同性愛者の結婚」という問題は、異性愛者にとっては基本的には「他人ごと」だが、問題を掘り下げていくと、そこには人として生きていく中で誰しもがぶつかる問題が横たわっているのだ。

この映画は「社会問題」と捉えると見えてこない、同性婚の問題の本質を明らかにして、観るもの皆に「あなたは何者なのか」と問いかける作品なのではないか。

『ジェンダーマリアージュ』
The Case Against 8
2013年/アメリカ/112分
監督:ベン・コトナー、ライアン・ホワイト
音楽:ブレイク・ニーリー

このブログの電子書籍版を作りました!

http://socine.info/wp-content/uploads/2018/12/ca8_1.jpghttp://socine.info/wp-content/uploads/2018/12/ca8_1-300x300.jpgishimuraFeaturedMovieLGBT,アイデンティティ,ダイバーシティ
今年も残りわずかとなりました。「今年は全然ブログ書けなかったな」などと例年通りの反省をしながら今年を振り返ってみると、今年も”多様性”がずっと頭に引っかかっていたかななどと思いました。 直近では、外国人労働者に関していろいろ報道されて、この国はどこまで多様性を認めないのかと絶望的になったりもしました。他方で、縄文にハマって、その頃に日本列島を考えてみると、そこにはかなり多様性を受け入れる文化があったように思え、わずかな希望も見えた気がします。 さて、その多様性でここ数年話題になり続けているのがLGBTです。今年も「おっさんずラブ」が流行って、そのことを触れたりもしましたが、現在、ユナイテッドピープルの”cinemo”で『ジェンダーマリアージュ』が無料公開されているので、強はその映画について書きたいと思います。 http://unitedpeople.jp/archives/2555 前置きがまどろっこしくなってしまいましたが、今年を振り返りつつ、現在のトピックにからませて、年内になんか書いとかなきゃなという自省の念が絡み合った結果がこれです。 まあ、映画は面白いので、私のそんな気持ちは気にせず、読んでから観るか、観てから読むか、時間があるときに是非してください。 同性婚は特別なのか? 物語の発端は2008年、それまで同性婚が認められていたカリフォルニア州で、結婚を男女間に限定する州憲法の「提案8号」が通過したことだった。これに反対するNPOは、結婚する権利を奪われた同性カップル二組を原告に、この「提案8号」が人権侵害であるという裁判を連邦裁判所に起こす。果たして同性婚はアメリカ全土で認められるのか… この映画はタイトルからもあらすじからも、同性愛者に対する差別の解消が焦点になっているように見えるかもしれない。しかし、この映画が扱おうとしているのは、もっと根本的な、われわれみんなが直面する問題だ。 この裁判はアメリカで大きな話題になったが、その理由の一つが、原告側弁護士に、かつてジョージ・W・ブッシュとアル・ゴアが大統領選挙の再集計をめぐって争った裁判で、それぞれの代理人となっていた2人の大物弁護士だった就いたことだった。 テッド・オルソンとデビット・ボイス ブッシュ氏側の訴訟代理人だったテッド・オルソンはもちろん共和党員で、当然同性婚には反対だと世間には考えられていたが、「結婚の権利はだれにでも認められるべきものだ」という考えのもと、かつて敵対したデビット・ボイスと協力して戦うことにしたのだ。 これは、同性婚を特別視するのではなく、同性愛者であるとないとにかかわらず結婚する権利は皆にあるという前提から考えると、同性婚は認められないとおかしいという考え方だ。 つまり、テッド・オルソンが問題にしているのは結婚という制度の問題であり、同性愛者に対する偏見や差別を問題にしているわけではない。 結婚という制度は社会によって作られた制度であり、そこには社会のあるべき(と制度を作る/維持する側の人が考える)姿が投影されている。同性婚を認めない結婚制度を持つ社会には、結婚は子どもを作り育てるためのものだという社会通念が強くあるのではないか。それに対して、同性婚を認める結婚制度を持つ社会では、結婚に結婚する当事者たちが協働して社会を構成する単位になるという以上の意味を持たせないのだろう。 ここからわかるのは、同性婚をどう捉えるかは、社会をどう見ているかに関わってくるということだ。社会全体を俯瞰してみるのか、それとも個人に視点をおいてみるのかだ。 この視点のあり方は社会によってだけでなく、個人によっても違い、さらにそれは変化もする。それを示す一つの例が、同性婚に反対の立場から賛成の立場に「転向」する人の存在だ。その人はその「転向」の理由を「信念がじゃまになって、他人が見えなくなることがある」からだという。彼は「結婚は男女間のものであるべき」という「信念」に固執したがために、その向こうにいる苦しんでいる人々が見えなくなってしまっていたことに気づいたというのだ。 これは社会全体を俯瞰して「同性婚」という概念に反対だったものが、個人に目をやったことで、それによって苦しむ人たちがいることに気づいて賛成に転向したということができる。これは結婚という「制度」ではなく、結婚をする「人間」に目を向けて同性婚に賛成をするテッド・オルソンの姿勢に共通するものだ。 誰もが自分が誰なのか知りたい。 社会全体を俯瞰する視点と個人の立場から見る視点はどちらかが良くてどちらかが悪いわけではもちろんなく、両方必要な視点だ。 ただ、同性婚に問題を限ると、個人の立場からの視点の方に優位性があるように思えてくる。それは、これが性自認の問題であり、個人のアイデンティティに関わる問題だからだ。 そのように思ったのは、原告の1人がいった「自分が何なのかわからないで生きるより、今の差別があったとしても自分が誰か(Who I am)わかって生きるほうがいい」という意味の発言からだった。 これは、自分が同性愛者であると認識する前、周りと違うことはわかるけれど、それがなんなのかわからず、自分が何者なのかわからずにいた。しかし、愛し合える相手を見つけて、自分が何者なのかわかったということだろう。そして、その相手と結婚することは、自分が何者であるのかを社会に認めてもらえることだ。 そう考えると、同性婚を選択することは彼らが「自分が自分である」ことを確認し、社会にそれを意思表示することと意味づけることができる。 ならば、この映画が描くのは「自分が誰か」を規定する選択肢を勝ち取る戦いで、それは彼ら自身のための戦いであり、同時にまだ自分が何者かわかっていない同じ境遇にある人たち、例えば思春期の同性愛の人たちに、自分が誰かを認識する機会を与えるための戦いでもあったのだと言える。 社会のマジョリティを占めるストレートとして生きていく中では、「自分が誰か」を認識するためにこのような大きな困難に直面することはなかなかない。しかし「自分が自分である」ためにはあって欲しい選択肢が存在せず「生きづらさ」を感じるという経験をしている人は多いのではないだろうか。 この映画が描いているのはそれと同じ「生きづらさ」だ。 主人公たちは、その困難を乗り越えて「自分らしさ」を獲得する。その経験は思想信条の違いを超えて誰にとっても祝福に値するものであり、だからこの映画は感動的なのだ。 「同性愛者の結婚」という問題は、異性愛者にとっては基本的には「他人ごと」だが、問題を掘り下げていくと、そこには人として生きていく中で誰しもがぶつかる問題が横たわっているのだ。 この映画は「社会問題」と捉えると見えてこない、同性婚の問題の本質を明らかにして、観るもの皆に「あなたは何者なのか」と問いかける作品なのではないか。 https://youtu.be/qNqWzrFefJQ 『ジェンダーマリアージュ』The Case Against 82013年/アメリカ/112分監督:ベン・コトナー、ライアン・ホワイト音楽:ブレイク・ニーリー このブログの電子書籍版を作りました!
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