あなたは「死刑」について真剣に考えたことがあるだろうか?ニュースなどでは「死刑」という言葉に日々接していても、その意味を真剣に考えたことはあまりないのでは無いだろうか。

今回取り上げる『死刑弁護人』は「死刑」の意味について考えさせられる作品だ。このところずっと取り上げている東海テレビ放送の劇場版ドキュメンタリーの1作品で、2012年に公開された。

東海テレビのドキュメンタリーは1人の人に密着した作品が多いが、この作品もその一つで、死刑が争われる裁判で被告側弁護人を数多く務めてきた弁護士の安田好弘さんを追ったものだ。

和歌山カレー事件は冤罪か

映画がまず取り上げるのは、「和歌山カレー事件」。林真須美死刑囚がお祭りでカレーにヒ素を混ぜ、4人を死亡させたとされる事件だ。この裁判については、逮捕される前からマスコミが林死刑囚を犯人と断定して報道合戦を繰り広げたことによって、警察も逮捕せざるを得なくなり、それがそのまま有罪判決へと繋がったと安田弁護士は主張する。その上で、間接証拠しか無いことや、動機がないこと、強力な証拠とされる「コップ」に捏造の疑いがあることなどから冤罪ではないかという疑いを持つ。

そして同時に、この事件は他の冤罪事件と異なる面もあるという。多くの冤罪事件というのは無実の善良な人が罪を着せられるというパターンのものが多いが、林死刑囚は保険詐欺を働き約8億円をだまし取っていたという「犯罪者」であるということだ。そして保険金殺人の疑いもあるから、今回の殺人もきっとやったのだろうという論理がまかり通る。

この事件について見ると、裁判所の言うとおり林死刑囚が犯人なのかもしれない。しかし、そうではないかもしれない疑いが少しでも有るならば、死刑という判決はどうなのだろうかという疑問が浮かぶ。死刑自体に賛成か反対かを別にしても、無罪の可能性がある人を死刑にするというのはどう考えてもやりすぎだ。執行してしまってから冤罪だとわかっても取り返しがつかないのだから。

© 東海テレビ放送

死刑は誰のためか

映画で取り上げる2つ目の事件は、新宿西口バス放火事件。この事件は6人が死亡した事件で犯人は自分がやったことに間違いはないと言ったが、心神耗弱にあったとして死刑ではなく無期懲役になったが、十数年後に刑務所で自殺してしまった。

さらに続くのが、名古屋女子大生誘拐事件と光市母子殺害事件だ。この2つの事件では被害者の遺族が登場し、被告人の死刑を強く望むシーンが盛り込まれる。

この3つの事件から思うのは、死刑というのが誰のための刑罰なのかということだ。これを見ると、今の日本では、死刑というのは応報刑なのだという感想を持つ。特に、光市母子殺害事件では、被告が少年だったこともあって二審まで無期懲役だったのが、最高裁が「遺族の被害感情」も考慮して、量刑を最高すべく高裁に差し戻すという判決を下したとあり、(実際にこの時の最高裁の判決文を読むと、「遺族の被害感情」は量刑不足の一義的な理由とされているわけではなく、総合的に考察する要素の一つとしてあげられているだけなので、映画の描き方にちょっと疑問も感じたが、それはまた別の議論なのでここでは置くとして)死刑は遺族の復讐心を満たすための刑罰なのかという疑問を抱く。

そして、死刑というのは一体何のためにあるのかという疑問に至る。重大な犯罪を犯した人が再び犯罪を犯すことを絶対的に防ぐためなのか、同じような犯罪に対する抑止力なのか、目には目をという因果応報の法則に由来するものなのか。

この疑問に答えはない。議論はあるが、日本の刑法に死刑がある理由を法律は述べていないのだ。

しかし社会が行う殺人である死刑の理由を私たちは知らなくていいのだろうか?

© 東海テレビ放送

死刑制度を維持するために

そんな疑問を抱いたまま、映画はついにオウム真理教事件へと進む。安田弁護士は、なり手がいなかった麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚の国選弁護人も務めた。さすがにこの松本死刑囚の死刑にはほぼ異論は出ないと思っていた。しかし、安田弁護士が語るその裁判の様子を聞くと、疑問を抱かずにはいられなかった。オウム真理教事件は複雑な事件だ。松本死刑囚は直接は手をくださず、たくさんの信者が実行犯として捕まり裁判にかけられた。その中で、松本死刑囚を主犯としてみなが名指ししたのだが、その何が真実で何が嘘なのか私たちは判断できるのだろうか?

アメリカの法廷ドラマなどで、自分の刑を軽くするために別の被告の犯行について証言をする司法取引というのがよく出てくるが、その証言のどれ程が真実なのか?自分の刑罰を軽くするためなら嘘もつくというのが正直なところではないか?

そう考えると、共犯者の証言を根拠に死刑の判断を下すことが果たして正しいのか確信が持てなくなる。

安田弁護士は、死刑反対論者だ。だから、死刑裁判の弁護をし、死刑に疑問を投げかけているのかと思うが、実際はそうではない。彼は、制度としての死刑に反対することと、個別の裁判において真実を追求することは明確に区別している。光市母子殺害事件では、裁判を死刑反対に利用していると批判されたこともあったようだが、現状では死刑には明確な要件があるわけで、制度に反対したところで判決に影響を与えないことは明確で、それは当たらないとわかる。

© 東海テレビ放送

しかし、それとは別に、死刑を阻止しようという安田弁護士にはさまざまな圧力がかかる。光市母子殺害事件のときに一般の人達から届いた脅迫状もそうだし、このオウム真理教事件の裁判の最中、別件で逮捕されたのもそうではないかと思わずにはいられない。

なぜなら、このシーンには既視感があるだ。それは、『ヤクザと憲法』でヤクザの顧問弁護士が微罪で逮捕され、通常なら起訴されないような罪で起訴され、弁護士資格を奪われそうになるというエピソードだ。しかも安田弁護士の事務所の家宅捜索では、関係ない事件のファイルまでくまなく見ていったという。これでは、別件を利用して検察が圧力をかけようとしていると疑われても仕方がない。

陰謀論のようになってしまうが、これが、本来の目的を達成するための検察の戦略だったとしたらその本来の目的とは何なのだろうか。それは、麻原彰晃を確実に死刑にすることだろう。しかし、それは少しでも疑義が生じれば、死刑に出来ないということの裏返しでもあるのではないか。

そう考えると、死刑制度というのはかろうじて維持されている制度であり、それを維持するためには世論の支持が欠かせず、その支持のためにはみんなが死刑にするべきだと思う犯罪者を確実に死刑にしていくことが必要だということがわかる。

しかし、それが行き過ぎると冤罪で死刑になってしまう人が出てきてしまう可能性が出てくるのだ。それを防ぐために安田弁護士は死刑弁護人を続ける。

© 東海テレビ放送

死刑に賛成か反対か、そして多様性

私自身は死刑制度には反対だ。なぜなら、冤罪の可能性がゼロになることは決して無いからだ。しかし、同時にすべての人が更生するとは言い切れない。だから、決して受刑者が私たちの社会に戻ることのない刑罰も必要ではないかとも思う。

遺族の被害感情はどうなるのだと言う人がいるだろうし、その観点から死刑を支持する人が多いのも事実だろう。しかし、刑罰を課すのは遺族ではなく社会、つまり私たちなのだから、私たちは自分自身の心情をもとに制度に賛成するのか反対するのか決めなければならない。自分の子供が殺されたらどう思うかと聞く人がいる。しかし、もし自分が冤罪で死刑判決を受けたらどう思うのかと私は聞きたい。その時、自分の冤罪を必ず晴らせるといえるほど司法制度を信用していない。

今の日本では、死刑制度に賛成する人が大多数だという。それはなぜかと考えると、死刑になるような人は自分とは無関係で、社会には必要ないと考えている人が多いからだろう。自分たちとは違う世界にいて、私たちの社会から排除していい存在だと彼らのことを考えているのだ。そこには想像力は及ばない。だから他者として排除できるのだ。

それは究極的には多様性の問題に通じる。自分たちとどこまで違う人達を社会に受け入れるのかということだからだ。私は多様性は大事だと思うが、同時に限界もあることは否定できない。だから決して社会に戻ることのない刑罰も必要だと考えるのだ。私自身の想像の及ばない人が世の中にはいて、そういう人たちは社会から排除しておきたいと思う。これがわたしの多様性の限界だ。しかし、それでもその人に死んでもらいたいとは思わない。思ったとしても、本当に殺してしまったらきっと後悔するだろう。

私は、みなさんと同じく日本社会の一員として、これまで数多くの死刑囚の死刑執行に加担してきたわけだ。この映画を見ると、そのことを強く実感する。

その事実をしっかりと受け止めて、その上で死刑に賛成なのか反対なのかそれぞれが考える。それがこの映画が私たちに求めていることのような気がする。

『死刑弁護人』
2012年/日本/97分
監督:齊藤潤一
撮影:岩井彰彦
音楽:村井秀清
ナレーション:山本太郎

http://socine.info/wp-content/uploads/2017/02/shikei_b1.jpghttp://socine.info/wp-content/uploads/2017/02/shikei_b1-300x300.jpgishimuraMovieオウム真理教,光市母子殺害事件,冤罪,和歌山カレー事件,多様性,東海テレビ放送,死刑,裁判
あなたは「死刑」について真剣に考えたことがあるだろうか?ニュースなどでは「死刑」という言葉に日々接していても、その意味を真剣に考えたことはあまりないのでは無いだろうか。 今回取り上げる『死刑弁護人』は「死刑」の意味について考えさせられる作品だ。このところずっと取り上げている東海テレビ放送の劇場版ドキュメンタリーの1作品で、2012年に公開された。 東海テレビのドキュメンタリーは1人の人に密着した作品が多いが、この作品もその一つで、死刑が争われる裁判で被告側弁護人を数多く務めてきた弁護士の安田好弘さんを追ったものだ。 和歌山カレー事件は冤罪か 映画がまず取り上げるのは、「和歌山カレー事件」。林真須美死刑囚がお祭りでカレーにヒ素を混ぜ、4人を死亡させたとされる事件だ。この裁判については、逮捕される前からマスコミが林死刑囚を犯人と断定して報道合戦を繰り広げたことによって、警察も逮捕せざるを得なくなり、それがそのまま有罪判決へと繋がったと安田弁護士は主張する。その上で、間接証拠しか無いことや、動機がないこと、強力な証拠とされる「コップ」に捏造の疑いがあることなどから冤罪ではないかという疑いを持つ。 そして同時に、この事件は他の冤罪事件と異なる面もあるという。多くの冤罪事件というのは無実の善良な人が罪を着せられるというパターンのものが多いが、林死刑囚は保険詐欺を働き約8億円をだまし取っていたという「犯罪者」であるということだ。そして保険金殺人の疑いもあるから、今回の殺人もきっとやったのだろうという論理がまかり通る。 この事件について見ると、裁判所の言うとおり林死刑囚が犯人なのかもしれない。しかし、そうではないかもしれない疑いが少しでも有るならば、死刑という判決はどうなのだろうかという疑問が浮かぶ。死刑自体に賛成か反対かを別にしても、無罪の可能性がある人を死刑にするというのはどう考えてもやりすぎだ。執行してしまってから冤罪だとわかっても取り返しがつかないのだから。 死刑は誰のためか 映画で取り上げる2つ目の事件は、新宿西口バス放火事件。この事件は6人が死亡した事件で犯人は自分がやったことに間違いはないと言ったが、心神耗弱にあったとして死刑ではなく無期懲役になったが、十数年後に刑務所で自殺してしまった。 さらに続くのが、名古屋女子大生誘拐事件と光市母子殺害事件だ。この2つの事件では被害者の遺族が登場し、被告人の死刑を強く望むシーンが盛り込まれる。 この3つの事件から思うのは、死刑というのが誰のための刑罰なのかということだ。これを見ると、今の日本では、死刑というのは応報刑なのだという感想を持つ。特に、光市母子殺害事件では、被告が少年だったこともあって二審まで無期懲役だったのが、最高裁が「遺族の被害感情」も考慮して、量刑を最高すべく高裁に差し戻すという判決を下したとあり、(実際にこの時の最高裁の判決文を読むと、「遺族の被害感情」は量刑不足の一義的な理由とされているわけではなく、総合的に考察する要素の一つとしてあげられているだけなので、映画の描き方にちょっと疑問も感じたが、それはまた別の議論なのでここでは置くとして)死刑は遺族の復讐心を満たすための刑罰なのかという疑問を抱く。 そして、死刑というのは一体何のためにあるのかという疑問に至る。重大な犯罪を犯した人が再び犯罪を犯すことを絶対的に防ぐためなのか、同じような犯罪に対する抑止力なのか、目には目をという因果応報の法則に由来するものなのか。 この疑問に答えはない。議論はあるが、日本の刑法に死刑がある理由を法律は述べていないのだ。 しかし社会が行う殺人である死刑の理由を私たちは知らなくていいのだろうか? 死刑制度を維持するために そんな疑問を抱いたまま、映画はついにオウム真理教事件へと進む。安田弁護士は、なり手がいなかった麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚の国選弁護人も務めた。さすがにこの松本死刑囚の死刑にはほぼ異論は出ないと思っていた。しかし、安田弁護士が語るその裁判の様子を聞くと、疑問を抱かずにはいられなかった。オウム真理教事件は複雑な事件だ。松本死刑囚は直接は手をくださず、たくさんの信者が実行犯として捕まり裁判にかけられた。その中で、松本死刑囚を主犯としてみなが名指ししたのだが、その何が真実で何が嘘なのか私たちは判断できるのだろうか? アメリカの法廷ドラマなどで、自分の刑を軽くするために別の被告の犯行について証言をする司法取引というのがよく出てくるが、その証言のどれ程が真実なのか?自分の刑罰を軽くするためなら嘘もつくというのが正直なところではないか? そう考えると、共犯者の証言を根拠に死刑の判断を下すことが果たして正しいのか確信が持てなくなる。 安田弁護士は、死刑反対論者だ。だから、死刑裁判の弁護をし、死刑に疑問を投げかけているのかと思うが、実際はそうではない。彼は、制度としての死刑に反対することと、個別の裁判において真実を追求することは明確に区別している。光市母子殺害事件では、裁判を死刑反対に利用していると批判されたこともあったようだが、現状では死刑には明確な要件があるわけで、制度に反対したところで判決に影響を与えないことは明確で、それは当たらないとわかる。 しかし、それとは別に、死刑を阻止しようという安田弁護士にはさまざまな圧力がかかる。光市母子殺害事件のときに一般の人達から届いた脅迫状もそうだし、このオウム真理教事件の裁判の最中、別件で逮捕されたのもそうではないかと思わずにはいられない。 なぜなら、このシーンには既視感があるだ。それは、『ヤクザと憲法』でヤクザの顧問弁護士が微罪で逮捕され、通常なら起訴されないような罪で起訴され、弁護士資格を奪われそうになるというエピソードだ。しかも安田弁護士の事務所の家宅捜索では、関係ない事件のファイルまでくまなく見ていったという。これでは、別件を利用して検察が圧力をかけようとしていると疑われても仕方がない。 陰謀論のようになってしまうが、これが、本来の目的を達成するための検察の戦略だったとしたらその本来の目的とは何なのだろうか。それは、麻原彰晃を確実に死刑にすることだろう。しかし、それは少しでも疑義が生じれば、死刑に出来ないということの裏返しでもあるのではないか。 そう考えると、死刑制度というのはかろうじて維持されている制度であり、それを維持するためには世論の支持が欠かせず、その支持のためにはみんなが死刑にするべきだと思う犯罪者を確実に死刑にしていくことが必要だということがわかる。 しかし、それが行き過ぎると冤罪で死刑になってしまう人が出てきてしまう可能性が出てくるのだ。それを防ぐために安田弁護士は死刑弁護人を続ける。 死刑に賛成か反対か、そして多様性 私自身は死刑制度には反対だ。なぜなら、冤罪の可能性がゼロになることは決して無いからだ。しかし、同時にすべての人が更生するとは言い切れない。だから、決して受刑者が私たちの社会に戻ることのない刑罰も必要ではないかとも思う。 遺族の被害感情はどうなるのだと言う人がいるだろうし、その観点から死刑を支持する人が多いのも事実だろう。しかし、刑罰を課すのは遺族ではなく社会、つまり私たちなのだから、私たちは自分自身の心情をもとに制度に賛成するのか反対するのか決めなければならない。自分の子供が殺されたらどう思うかと聞く人がいる。しかし、もし自分が冤罪で死刑判決を受けたらどう思うのかと私は聞きたい。その時、自分の冤罪を必ず晴らせるといえるほど司法制度を信用していない。 今の日本では、死刑制度に賛成する人が大多数だという。それはなぜかと考えると、死刑になるような人は自分とは無関係で、社会には必要ないと考えている人が多いからだろう。自分たちとは違う世界にいて、私たちの社会から排除していい存在だと彼らのことを考えているのだ。そこには想像力は及ばない。だから他者として排除できるのだ。 それは究極的には多様性の問題に通じる。自分たちとどこまで違う人達を社会に受け入れるのかということだからだ。私は多様性は大事だと思うが、同時に限界もあることは否定できない。だから決して社会に戻ることのない刑罰も必要だと考えるのだ。私自身の想像の及ばない人が世の中にはいて、そういう人たちは社会から排除しておきたいと思う。これがわたしの多様性の限界だ。しかし、それでもその人に死んでもらいたいとは思わない。思ったとしても、本当に殺してしまったらきっと後悔するだろう。 私は、みなさんと同じく日本社会の一員として、これまで数多くの死刑囚の死刑執行に加担してきたわけだ。この映画を見ると、そのことを強く実感する。 その事実をしっかりと受け止めて、その上で死刑に賛成なのか反対なのかそれぞれが考える。それがこの映画が私たちに求めていることのような気がする。 『死刑弁護人』 2012年/日本/97分 監督:齊藤潤一 撮影:岩井彰彦 音楽:村井秀清 ナレーション:山本太郎