(C)ラピュタ阿佐ヶ谷

会津若松市に父と娘二人で暮らす楠木家の人々、市役所に勤める父の穀平が海沿いの楢穂町に出向することになる。福島第一原発事故の被災地の楢穂町の広報課で課長代理となった穀平はそれまで知らなかった被災地の現状を少しずつ知っていく。

要約を書くと真面目な内容だが、映画としてはアニメーションをところどころ織り交ぜたり、ミュージカル調のパートがあったり、ナンセンスコメディの要素も持つ。東京のミニシアターラピュタ阿佐ヶ谷が20周年を記念して製作した映画。

喪失感を抱える人々

この映画が作られたのは2019年、東日本大震災と福島第一原発事故から8年が経っている。それでも放射能で汚染された地域ではまだ避難指示が続き、避難指示が解除された地域でも元いた住人はあまり戻ってきていない。その現状を嘆きながら、それでも原発を維持し続けようとする日本を憂うというのが基本的な内容だ。

そこにナンセンスなパートが挟まれるのだが、それはさておいて、この映画が原発事故をどう描くか、その描き方に興味を惹かれた。

この映画は基本的に事故を直接描かない。その代わりに様々な喪失を経験した人々が登場する。楠木家の長女ハルカは、病院で保育士をしているが、そこの子供の一人が目に見えない「彼女」といつも会話をしているのを目にする。それを意思に相談すると、「喪失感を補うために空想の人物を作り出すことはよくあることだ」と言われる。

会津若松市は映画の中でも触れられているが、東日本大震災での被災地から集団避難が行われた場所だ。この男の子も東日本大震災で誰か大切な人を失ったのかもしれない。

喪失は震災のことだけではない。ハルカにも夫がいたが亡くしているし、姉妹の母親も亡くなっているらしい。その喪失感はずっと漂っている。

もう一つ印象的なエピソードが穀平が初老の女性が一人で暮らす古い民家に訪れると、ちょうどそこに兵隊の格好をした3人が訪ねてくるところだったというシーンだ。女性は3人を招き入れ「やっと帰ってきたのね」というが、穀平にはその3人が骸骨に見える。つまり彼らは亡霊で、70年以上の時を経てようやく帰ってきたというわけだ。そして、そこに東京電力の人が現れ賠償金の話をしようとするが、女性は追っ払う。

女性は70年以上喪失感を抱えながら土地を守りながら生きてきた。そこに唐突に原発事故が起きる。住めない土地にはなっていないのかもしれないが、彼女はその場所さえも失おうとしているのだ。

(C)ラピュタ阿佐ヶ谷

記憶に生かされる人々と「故郷」

この映画はなぜ喪失感を描くのか、それは人が基本的に記憶に生かされているからではないだろうか。喪失はつらいことだけれど喪失感は記憶、それも幸せな記憶と結びついていて、それがあるから人は生きられるのかもしれない。そして、その記憶は土地と強く結びついていることがある。「故郷」は自分が生まれ育った場所だが、むしろ最も強く記憶に残っている場所こそが「故郷」なのではないだろうか。特に幸せな記憶が多くある場所、それが故郷なのだ。人はその幸せな記憶を辿って故郷に帰る。原発被災者たちはその故郷を奪われてしまった。8年が経ち、帰れるといわれても、その場所の記憶は塗り替えられてしまっているかもしれない。

それをさらに5年がたった今見ると、その場所がもはや故郷ではなくなってしまっている人も多いのではないかと思える。特に震災当時子供だった人たちにとっては、「避難先」のほうが長く過ごした場所になり、幸せな記憶が多く積み重なっている場所になっていることも多いだろう。「故郷」で過ごした時間が長い高齢者や、故郷に濃い幸せな記憶がある人達は帰ろうとするだろうが、その割合はそれくらいなのだろうと思う。津波被害とは違う原発事故被害の残酷さが底に見えてくる。

観客に突きつけるナンセンスの刃

さて、そこでこの映画のミュージカル調のナンセンスパートの意味が見えてくる。このパートは原発被害を生み出した人々を揶揄するものと解釈することができる。原発被害を生み出した人々とは、いわゆる原発推進の人たちだけのことではない。無関心な人たち、何も考えていない人たち、つまり私たちのことでもある。この映画の主人公、楠穀平も、実はそっち側の人、無関心な人だと捉えられる。そして楢穂町の職員でさえもそうだ。

この映画はその事実を見る者に突きつける。一見、原発を推進し事故を起こした人たちを揶揄し、批判する映画のように見えるが、その刃はそれを止めなかった私たちにも向く。喪失感を抱える人たちはその刃を受けて被災者たちの心を理解する。それがこの映画が目指しているところなのだろう。最後のナンセンスシーンがそれをはっきりと描いている。

『ニッポニアニッポン フクシマ狂詩曲(ラプソディ)』
2019年/日本/113分
監督・原案・脚本:才谷遼
撮影:高橋義仁
音楽:江口貴勅
出演:隆大介、寺田農、デコウトミリ、慶徳優菜、宝田明

https://i0.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2024/03/nipponia1.jpg?fit=640%2C359&ssl=1https://i0.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2024/03/nipponia1.jpg?resize=150%2C150&ssl=1ishimuraMovieVOD3.11,原発事故,東日本大震災
(C)ラピュタ阿佐ヶ谷 会津若松市に父と娘二人で暮らす楠木家の人々、市役所に勤める父の穀平が海沿いの楢穂町に出向することになる。福島第一原発事故の被災地の楢穂町の広報課で課長代理となった穀平はそれまで知らなかった被災地の現状を少しずつ知っていく。 要約を書くと真面目な内容だが、映画としてはアニメーションをところどころ織り交ぜたり、ミュージカル調のパートがあったり、ナンセンスコメディの要素も持つ。東京のミニシアターラピュタ阿佐ヶ谷が20周年を記念して製作した映画。 喪失感を抱える人々 この映画が作られたのは2019年、東日本大震災と福島第一原発事故から8年が経っている。それでも放射能で汚染された地域ではまだ避難指示が続き、避難指示が解除された地域でも元いた住人はあまり戻ってきていない。その現状を嘆きながら、それでも原発を維持し続けようとする日本を憂うというのが基本的な内容だ。 そこにナンセンスなパートが挟まれるのだが、それはさておいて、この映画が原発事故をどう描くか、その描き方に興味を惹かれた。 この映画は基本的に事故を直接描かない。その代わりに様々な喪失を経験した人々が登場する。楠木家の長女ハルカは、病院で保育士をしているが、そこの子供の一人が目に見えない「彼女」といつも会話をしているのを目にする。それを意思に相談すると、「喪失感を補うために空想の人物を作り出すことはよくあることだ」と言われる。 会津若松市は映画の中でも触れられているが、東日本大震災での被災地から集団避難が行われた場所だ。この男の子も東日本大震災で誰か大切な人を失ったのかもしれない。 喪失は震災のことだけではない。ハルカにも夫がいたが亡くしているし、姉妹の母親も亡くなっているらしい。その喪失感はずっと漂っている。 もう一つ印象的なエピソードが穀平が初老の女性が一人で暮らす古い民家に訪れると、ちょうどそこに兵隊の格好をした3人が訪ねてくるところだったというシーンだ。女性は3人を招き入れ「やっと帰ってきたのね」というが、穀平にはその3人が骸骨に見える。つまり彼らは亡霊で、70年以上の時を経てようやく帰ってきたというわけだ。そして、そこに東京電力の人が現れ賠償金の話をしようとするが、女性は追っ払う。 女性は70年以上喪失感を抱えながら土地を守りながら生きてきた。そこに唐突に原発事故が起きる。住めない土地にはなっていないのかもしれないが、彼女はその場所さえも失おうとしているのだ。 (C)ラピュタ阿佐ヶ谷 記憶に生かされる人々と「故郷」 この映画はなぜ喪失感を描くのか、それは人が基本的に記憶に生かされているからではないだろうか。喪失はつらいことだけれど喪失感は記憶、それも幸せな記憶と結びついていて、それがあるから人は生きられるのかもしれない。そして、その記憶は土地と強く結びついていることがある。「故郷」は自分が生まれ育った場所だが、むしろ最も強く記憶に残っている場所こそが「故郷」なのではないだろうか。特に幸せな記憶が多くある場所、それが故郷なのだ。人はその幸せな記憶を辿って故郷に帰る。原発被災者たちはその故郷を奪われてしまった。8年が経ち、帰れるといわれても、その場所の記憶は塗り替えられてしまっているかもしれない。 それをさらに5年がたった今見ると、その場所がもはや故郷ではなくなってしまっている人も多いのではないかと思える。特に震災当時子供だった人たちにとっては、「避難先」のほうが長く過ごした場所になり、幸せな記憶が多く積み重なっている場所になっていることも多いだろう。「故郷」で過ごした時間が長い高齢者や、故郷に濃い幸せな記憶がある人達は帰ろうとするだろうが、その割合はそれくらいなのだろうと思う。津波被害とは違う原発事故被害の残酷さが底に見えてくる。 観客に突きつけるナンセンスの刃 さて、そこでこの映画のミュージカル調のナンセンスパートの意味が見えてくる。このパートは原発被害を生み出した人々を揶揄するものと解釈することができる。原発被害を生み出した人々とは、いわゆる原発推進の人たちだけのことではない。無関心な人たち、何も考えていない人たち、つまり私たちのことでもある。この映画の主人公、楠穀平も、実はそっち側の人、無関心な人だと捉えられる。そして楢穂町の職員でさえもそうだ。 この映画はその事実を見る者に突きつける。一見、原発を推進し事故を起こした人たちを揶揄し、批判する映画のように見えるが、その刃はそれを止めなかった私たちにも向く。喪失感を抱える人たちはその刃を受けて被災者たちの心を理解する。それがこの映画が目指しているところなのだろう。最後のナンセンスシーンがそれをはっきりと描いている。 https://youtu.be/XlZJdlD4q-I 『ニッポニアニッポン フクシマ狂詩曲(ラプソディ)』2019年/日本/113分監督・原案・脚本:才谷遼撮影:高橋義仁音楽:江口貴勅出演:隆大介、寺田農、デコウトミリ、慶徳優菜、宝田明
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