©Sapushpa Expressions and Pilgrim Film

母をなくした青年アミラは、4人の弟妹を養おうと田舎の村から首都コロンボに出る。上の妹のナディーは心臓の病気で入院していて、インドで手術を受けさせるための費用も稼がなければいけない。工事中のビルに仮住まいをしながら、アミラは工事現場で働くがなかなか稼ぐことはできない。そんなアミラに、女性経営者が高給の仕事があると声をかける。それは、望まぬ妊娠で生まれた子供を外国人夫婦に斡旋する仕事だった。

実際に、先天性の心臓病を患う妹を抱え、幼いころから非正規労働で弟妹を養っていたというサンジーワ・プシュバクマーラ監督の自伝的作品。親子とは何か、家族とは何か、そして先進国との経済格差、スリランカ国内の格差など考えさせられることが多い作品。

富める国と貧しい国

映画は母親が死んだという説明だけで始まる。長男のアミラと弟、妹、赤ん坊の4人が建設中のビルで生活する。その後、上の妹が心臓の病気で入院していること、手術をしなければならないが、インドまで受けに行かなければならず大金が必要なことが説明される。そこでアミラはなんとかお金を稼ごうとするという話だ。

なんと辛い境遇かと思わざるをえない。彼らは何も悪いことをしたわけではないし、周りの人たちもいい人ばかりと言ってもいい。医者もお金を待ってくれるし、兄弟が物乞いをすればお金をくれる人はたくさんいる。それでも彼らにはどうすることもできない。それは社会の構造がそうさせているとしか言いようがない。

©Sapushpa Expressions and Pilgrim Film

なぜそうなってしまうのか。アミラはその後、子供をヨーロッパの夫婦に斡旋する仕事につくわけだが、ここに、この「なぜ」の答えがある。彼らの辛い境遇の一番の原因は、世界における経済格差だ。貧しい国の人たちはひとたび親(稼ぎ手)を失ってしまうと満足な生活もできず、十分な医療も受けることができない。そんな現実をこの映画はずーっと描いている。

だからずーっと心苦しい。親心がついて子供を手放したくなくなってしまった母親から、容赦なく子供を受け取る欧米人は、貧しい国の人々から大切なものを奪い続けている富める国の人々の姿そのものだ。一応富める国に含まれる日本に暮らす私たちは間違いなく収奪する側だから、ただただ苦しい。

だからどうすればいいのかというと、世界が等しく豊かになるために何ができるか考えるしかなく、その答えは容易には出ない。

満たされぬ「愛」

そんな大きな社会問題についつい目が行ってしまうが、この映画が本当に描こうとしているのは、その先にある満たされぬ「愛」ではなかろうか。

この映画を見ていてまず疑問に思ったのは、マラニはなぜアミラを雇ったのかだ。どうしてもお金が必要だから秘密を守るだろうというのは一つ理由としてあるだろうが、最初に出会ったときにマラニの視線はそれ以上の理由があることをほのめかす。例えば同じような境遇で育ったとか、子供を失った事があるとか、そういう理由だ。

マラニはさらにアミラの妹のイノカの病室を訪ねる。彼女のことを気にかけ、何ができるのかを医者に尋ねもする。「お金を出してあげればいいのに」と思うが、そこまではしない。そこの心理は計り切ることはできないが、彼女がそこに失ったなにかを見出していることは想像できる。

そのなにかとは「愛」だ。彼女は裕福だが、その経済的成功の代償に愛を失い、それは満たされないままだ。

アミラは貧しいがゆえに愛する兄弟たちと一緒にいることができない。

マラニのもとで子供を生む女性たちは、貧しさ故に愛する子供を手放さざるをえない。

この映画が描いているのは、経済的な理由から満たされなくなってしまっている「愛」なのだ。

よく考えたら、スリランカまで子供を買いに来るヨーロッパの夫婦も満たされぬ愛を抱えている。

©Sapushpa Expressions and Pilgrim Film

なんともやるせない話だが、この映画は一応ハッピーエンドらしき終わり方をする。根本的には何も解決していないが、愛はある程度満たされる。それでいいとは言わないが、暗澹たる気分で終わるよりはいい。

彼らは彼らでやれることをやった。私たちも私たちでやるべきことをやればいい。そうすることでしか世の中は良くならない。何となくそんなことを思わされた。

『孔雀の嘆き』
Peacock Lament [ Vihanga Premaya ]
2022年/スリランカ・イタリア/103分
監督・脚本:サンジーワ・プシュバクマーラ
撮影:シシキラーナ・パラナヴィタナ
音楽:クリスティアン・カッラーラ
出演:アカランカ・プラバシュワーラ、サビータ・ペレラ、ディナラ・プンチへワ

東京国際映画祭『孔雀の嘆き』

https://i2.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2022/10/Peacock_Lament_main.jpg?fit=1024%2C614&ssl=1https://i2.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2022/10/Peacock_Lament_main.jpg?resize=150%2C150&ssl=1ishimuraMovieスリランカ,人身売買,貧困
©Sapushpa Expressions and Pilgrim Film 母をなくした青年アミラは、4人の弟妹を養おうと田舎の村から首都コロンボに出る。上の妹のナディーは心臓の病気で入院していて、インドで手術を受けさせるための費用も稼がなければいけない。工事中のビルに仮住まいをしながら、アミラは工事現場で働くがなかなか稼ぐことはできない。そんなアミラに、女性経営者が高給の仕事があると声をかける。それは、望まぬ妊娠で生まれた子供を外国人夫婦に斡旋する仕事だった。 実際に、先天性の心臓病を患う妹を抱え、幼いころから非正規労働で弟妹を養っていたというサンジーワ・プシュバクマーラ監督の自伝的作品。親子とは何か、家族とは何か、そして先進国との経済格差、スリランカ国内の格差など考えさせられることが多い作品。 富める国と貧しい国 映画は母親が死んだという説明だけで始まる。長男のアミラと弟、妹、赤ん坊の4人が建設中のビルで生活する。その後、上の妹が心臓の病気で入院していること、手術をしなければならないが、インドまで受けに行かなければならず大金が必要なことが説明される。そこでアミラはなんとかお金を稼ごうとするという話だ。 なんと辛い境遇かと思わざるをえない。彼らは何も悪いことをしたわけではないし、周りの人たちもいい人ばかりと言ってもいい。医者もお金を待ってくれるし、兄弟が物乞いをすればお金をくれる人はたくさんいる。それでも彼らにはどうすることもできない。それは社会の構造がそうさせているとしか言いようがない。 ©Sapushpa Expressions and Pilgrim Film なぜそうなってしまうのか。アミラはその後、子供をヨーロッパの夫婦に斡旋する仕事につくわけだが、ここに、この「なぜ」の答えがある。彼らの辛い境遇の一番の原因は、世界における経済格差だ。貧しい国の人たちはひとたび親(稼ぎ手)を失ってしまうと満足な生活もできず、十分な医療も受けることができない。そんな現実をこの映画はずーっと描いている。 だからずーっと心苦しい。親心がついて子供を手放したくなくなってしまった母親から、容赦なく子供を受け取る欧米人は、貧しい国の人々から大切なものを奪い続けている富める国の人々の姿そのものだ。一応富める国に含まれる日本に暮らす私たちは間違いなく収奪する側だから、ただただ苦しい。 だからどうすればいいのかというと、世界が等しく豊かになるために何ができるか考えるしかなく、その答えは容易には出ない。 満たされぬ「愛」 そんな大きな社会問題についつい目が行ってしまうが、この映画が本当に描こうとしているのは、その先にある満たされぬ「愛」ではなかろうか。 この映画を見ていてまず疑問に思ったのは、マラニはなぜアミラを雇ったのかだ。どうしてもお金が必要だから秘密を守るだろうというのは一つ理由としてあるだろうが、最初に出会ったときにマラニの視線はそれ以上の理由があることをほのめかす。例えば同じような境遇で育ったとか、子供を失った事があるとか、そういう理由だ。 マラニはさらにアミラの妹のイノカの病室を訪ねる。彼女のことを気にかけ、何ができるのかを医者に尋ねもする。「お金を出してあげればいいのに」と思うが、そこまではしない。そこの心理は計り切ることはできないが、彼女がそこに失ったなにかを見出していることは想像できる。 そのなにかとは「愛」だ。彼女は裕福だが、その経済的成功の代償に愛を失い、それは満たされないままだ。 アミラは貧しいがゆえに愛する兄弟たちと一緒にいることができない。 マラニのもとで子供を生む女性たちは、貧しさ故に愛する子供を手放さざるをえない。 この映画が描いているのは、経済的な理由から満たされなくなってしまっている「愛」なのだ。 よく考えたら、スリランカまで子供を買いに来るヨーロッパの夫婦も満たされぬ愛を抱えている。 ©Sapushpa Expressions and Pilgrim Film なんともやるせない話だが、この映画は一応ハッピーエンドらしき終わり方をする。根本的には何も解決していないが、愛はある程度満たされる。それでいいとは言わないが、暗澹たる気分で終わるよりはいい。 彼らは彼らでやれることをやった。私たちも私たちでやるべきことをやればいい。そうすることでしか世の中は良くならない。何となくそんなことを思わされた。 『孔雀の嘆き』Peacock Lament 2022年/スリランカ・イタリア/103分監督・脚本:サンジーワ・プシュバクマーラ撮影:シシキラーナ・パラナヴィタナ音楽:クリスティアン・カッラーラ出演:アカランカ・プラバシュワーラ、サビータ・ペレラ、ディナラ・プンチへワ 東京国際映画祭『孔雀の嘆き』
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