(C)「永遠の1分。」製作委員会

2022年3月11日で東日本大震災から11年になる。あちこちで「風化」という言葉が聞かれるように、被災地から遠い人たちの中では震災の記憶は徐々に薄れていっている。

テレビでは、震災関連番組をやるだろうが、その数は減っていき、見る人も減っていく。関連する映画も震災から数年後には何本も公開され、特集上映がされたりもしていたけれど、その数もめっきり減った。そんな中、今年公開されたのが『カメ止め』チームが制作した『永遠の1分。』という映画だ。

3.11を深刻にせずに描く

コメディ映画の監督スティーブは度重なるトラブルを起こし、会社から日本で3.11のドキュメンタリーを撮ってくるよう命じられる。旅行気分で日本に向かったスティーブは、ドキュメンタリーなんか撮らずに忍者映画を撮ろうと考えて適当に取材を切り上げようとするが、被災地の人たちと触れるうちに、3.11を題材にしたコメディ映画こそ自分が撮るべきものだと考えるようになる。

(C)「永遠の1分。」製作委員会

しかし、部外者が映画を撮ること、しかも災害を題材のコメディ映画ということで、賛同者はなかなか現れず、企画は暗礁に乗り上げる…

東日本大震災から8年後の2019年を舞台に、人々と震災との接し方の変化を外国人の目を通して描こうとした作品。『カメラを止めるな!』の上田慎一郎監督が脚本を書き、撮影監督の曽根剛が監督を務めた。

東日本大震災がテーマだが、伏線を張り巡らせたストーリーで観客を引き込み、深刻になりすぎないような作りになっているのはよい。そして、音楽がとてもいい。

部外者は3.11を描けるか

この映画の導入は、東日本大震災についてのドキュメンタリー映画を撮るように言われたスティーブたちがそれはやめてニンジャ映画を撮ろうとするというもの。そのために震災はもう風化して映画の題材にはならないという素材を集めようとする。しかし、実際に被災地に足を運んだスティーブは3.11がテーマの映画を作ることを決意し、その背景にはスティーブ自身の地震体験があることがほのめかされる。

この時点でスティーブたちは、震災を「深刻なもの」として扱わなければならないと考えている。茶化したりしてはだめだと。しかし、被災者たちと接すると、彼らの中には体験を笑い話にする人たちが意外に多いことに気づく。そこでスティーブは彼らのエピソードをベースにコメディ映画を作ろうと考えるのだ。

しかし彼の企画は日本の制作会社には受け入れられない。「震災は深刻なものとして捉えなければならない」というコンセンサスが出来上がってしまっているのだ。

(C)「永遠の1分。」製作委員会

そしてスティーブたちの企画が頓挫するもう一つの理由は彼らが「部外者」であることだ。被災者自身が笑い飛ばすならまだぎりぎり許されるかもしれないが、部外者である外国人がやるなんて不謹慎にもほどがあるという論理だ。

この「部外者」という捉え方はこの映画の一つのキモになる。

3.11の当事者とは誰か

スティーブたちは完全な部外者だが、主要な登場人物の一人となる週刊誌記者のマキは、自身は被災者ではないが、震災についての取材を続けている。スティーブたちの記事を書いた際には編集長に「部外者(の外国人)だから描けるものとはなんだ」と聞かれ言葉に詰まる。スティーブには取材を続ける理由を聞かれ「部外者でいたくなかった」と答える。

私はマキの「部外者でいたくなかった」という言葉の真意は、当事者を孤立させないことではなかったかと思った。部外者を排除するのは当事者だが、それによって当事者は孤立する。マキは当事者と部外者の間を取り持って当事者を増やそうとする。その思いはこの映画を作った人たちも持っているものだろうし、私も持っている。

スティーブの企画を否定した人たちの考え方の根底には「当事者が拒絶しているんだから入り込むべきではない」という論理が無意識的にしろある。あるいはその論理を出発点に出来上がったコンセンサスに従っているのだろう。

確かに、震災直後は多くの被災者がそう思っていただろうことは、森達也監督の『311』を見るとわかる。当時の被災者たちの多くは部外者であるメディアに対してい不信感をつのらせ拒絶していた。森監督はその被災者たちのフラストレーションと怒りを一身に受け止めた。

ただ、時が経ち、被災者たちの態度も変化してきた。この被災者たちの描き方がこの映画のもう一つのキモだ。

被災者だって人それぞれ

被災者にももちろんいろいろな人がいて、立ち直るのにかかる時間も違えば、立ち直り方も違う。残念ながら立ち直れなかった人もいる。そんないろいろな人をこの映画を描く。そして、笑いや音楽や演劇や映画が立ち直りのきっかけになるということも描く。

(C)「永遠の1分。」製作委員会

被災者にもいろいろな人がいるというのは重要な点だ。当たり前のことではあるけれど、部外者としてこの映画を見ると、本当にそうだなと実感する。メディアで取り上げられる人の多くは、悲しみを乗り越えて前に進む人だったりするけれど、そうではない人はたくさんいるし、例えば心に傷を抱えたまま被災者であることをあえて言わずに暮らしているような人もいるはずだ。

そこに想像力を及ばせてくれるのがフィクションの力だろう。NHKの朝ドラ『おかえりモネ』を観たときも、同じ地域で同世代であっても震災の受け止め方も対応の仕方もぜんぜん違うんだと感じた。それは被災地から遠く離れているとなかなか実感を持てない部分だ。

この映画を見ていると、そんなさまざまな被災者に思いを馳せることができる。そして、地震の影響を少しだけではあるけれど受けた当事者としての当時の感情がよみがえっても来る。負の感情ではなく、音楽の力によって勇気づけられた記憶がレイコの歌によってよみがえってきた。

この映画は津波の映像も出てくるし、被災者の中には辛くて観られない人もいるだろうと思う。でも、だからこそ震災との心の距離が開いてきてしまっている人にはぜひ観てほしい。そして「永遠の1分」をどう迎えるか考えてみてほしい。

『永遠の1分。』
2022年/日本/97分
監督:曽根剛
脚本:上田慎一郎
音楽:鈴木伸宏、伊藤翔磨
出演:マイケル・ギダ、Awich、毎熊克哉、片山萌美、渡辺裕之

https://i0.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2022/03/eien1_1.jpg?fit=640%2C427&ssl=1https://i0.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2022/03/eien1_1.jpg?resize=150%2C150&ssl=1ishimuraFeaturedMovie3.11,東日本大震災
(C)「永遠の1分。」製作委員会 2022年3月11日で東日本大震災から11年になる。あちこちで「風化」という言葉が聞かれるように、被災地から遠い人たちの中では震災の記憶は徐々に薄れていっている。 テレビでは、震災関連番組をやるだろうが、その数は減っていき、見る人も減っていく。関連する映画も震災から数年後には何本も公開され、特集上映がされたりもしていたけれど、その数もめっきり減った。そんな中、今年公開されたのが『カメ止め』チームが制作した『永遠の1分。』という映画だ。 3.11を深刻にせずに描く コメディ映画の監督スティーブは度重なるトラブルを起こし、会社から日本で3.11のドキュメンタリーを撮ってくるよう命じられる。旅行気分で日本に向かったスティーブは、ドキュメンタリーなんか撮らずに忍者映画を撮ろうと考えて適当に取材を切り上げようとするが、被災地の人たちと触れるうちに、3.11を題材にしたコメディ映画こそ自分が撮るべきものだと考えるようになる。 (C)「永遠の1分。」製作委員会 しかし、部外者が映画を撮ること、しかも災害を題材のコメディ映画ということで、賛同者はなかなか現れず、企画は暗礁に乗り上げる… 東日本大震災から8年後の2019年を舞台に、人々と震災との接し方の変化を外国人の目を通して描こうとした作品。『カメラを止めるな!』の上田慎一郎監督が脚本を書き、撮影監督の曽根剛が監督を務めた。 東日本大震災がテーマだが、伏線を張り巡らせたストーリーで観客を引き込み、深刻になりすぎないような作りになっているのはよい。そして、音楽がとてもいい。 部外者は3.11を描けるか この映画の導入は、東日本大震災についてのドキュメンタリー映画を撮るように言われたスティーブたちがそれはやめてニンジャ映画を撮ろうとするというもの。そのために震災はもう風化して映画の題材にはならないという素材を集めようとする。しかし、実際に被災地に足を運んだスティーブは3.11がテーマの映画を作ることを決意し、その背景にはスティーブ自身の地震体験があることがほのめかされる。 この時点でスティーブたちは、震災を「深刻なもの」として扱わなければならないと考えている。茶化したりしてはだめだと。しかし、被災者たちと接すると、彼らの中には体験を笑い話にする人たちが意外に多いことに気づく。そこでスティーブは彼らのエピソードをベースにコメディ映画を作ろうと考えるのだ。 しかし彼の企画は日本の制作会社には受け入れられない。「震災は深刻なものとして捉えなければならない」というコンセンサスが出来上がってしまっているのだ。 (C)「永遠の1分。」製作委員会 そしてスティーブたちの企画が頓挫するもう一つの理由は彼らが「部外者」であることだ。被災者自身が笑い飛ばすならまだぎりぎり許されるかもしれないが、部外者である外国人がやるなんて不謹慎にもほどがあるという論理だ。 この「部外者」という捉え方はこの映画の一つのキモになる。 3.11の当事者とは誰か スティーブたちは完全な部外者だが、主要な登場人物の一人となる週刊誌記者のマキは、自身は被災者ではないが、震災についての取材を続けている。スティーブたちの記事を書いた際には編集長に「部外者(の外国人)だから描けるものとはなんだ」と聞かれ言葉に詰まる。スティーブには取材を続ける理由を聞かれ「部外者でいたくなかった」と答える。 私はマキの「部外者でいたくなかった」という言葉の真意は、当事者を孤立させないことではなかったかと思った。部外者を排除するのは当事者だが、それによって当事者は孤立する。マキは当事者と部外者の間を取り持って当事者を増やそうとする。その思いはこの映画を作った人たちも持っているものだろうし、私も持っている。 スティーブの企画を否定した人たちの考え方の根底には「当事者が拒絶しているんだから入り込むべきではない」という論理が無意識的にしろある。あるいはその論理を出発点に出来上がったコンセンサスに従っているのだろう。 確かに、震災直後は多くの被災者がそう思っていただろうことは、森達也監督の『311』を見るとわかる。当時の被災者たちの多くは部外者であるメディアに対してい不信感をつのらせ拒絶していた。森監督はその被災者たちのフラストレーションと怒りを一身に受け止めた。 https://socine.info/2017/03/08/311cinema2017/ ただ、時が経ち、被災者たちの態度も変化してきた。この被災者たちの描き方がこの映画のもう一つのキモだ。 被災者だって人それぞれ 被災者にももちろんいろいろな人がいて、立ち直るのにかかる時間も違えば、立ち直り方も違う。残念ながら立ち直れなかった人もいる。そんないろいろな人をこの映画を描く。そして、笑いや音楽や演劇や映画が立ち直りのきっかけになるということも描く。 (C)「永遠の1分。」製作委員会 被災者にもいろいろな人がいるというのは重要な点だ。当たり前のことではあるけれど、部外者としてこの映画を見ると、本当にそうだなと実感する。メディアで取り上げられる人の多くは、悲しみを乗り越えて前に進む人だったりするけれど、そうではない人はたくさんいるし、例えば心に傷を抱えたまま被災者であることをあえて言わずに暮らしているような人もいるはずだ。 そこに想像力を及ばせてくれるのがフィクションの力だろう。NHKの朝ドラ『おかえりモネ』を観たときも、同じ地域で同世代であっても震災の受け止め方も対応の仕方もぜんぜん違うんだと感じた。それは被災地から遠く離れているとなかなか実感を持てない部分だ。 この映画を見ていると、そんなさまざまな被災者に思いを馳せることができる。そして、地震の影響を少しだけではあるけれど受けた当事者としての当時の感情がよみがえっても来る。負の感情ではなく、音楽の力によって勇気づけられた記憶がレイコの歌によってよみがえってきた。 この映画は津波の映像も出てくるし、被災者の中には辛くて観られない人もいるだろうと思う。でも、だからこそ震災との心の距離が開いてきてしまっている人にはぜひ観てほしい。そして「永遠の1分」をどう迎えるか考えてみてほしい。 https://youtu.be/kSlKdgw0l6Q 『永遠の1分。』2022年/日本/97分監督:曽根剛脚本:上田慎一郎音楽:鈴木伸宏、伊藤翔磨出演:マイケル・ギダ、Awich、毎熊克哉、片山萌美、渡辺裕之
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