後をたたない白人警察官による黒人容疑者の殺害事件、そんな事件を扱った映画の一つがこの『ブラインドスポッティング』です。
ただ、事件がメインテーマというわけではなく、事件を目撃してしまった黒人青年とその親友の白人青年の人種に関わる葛藤を描いた映画ということができます。
この映画でみえてくるのは、アメリカの今の人種問題が人種だけの問題ではないということです。人種というのは一つの指標に過ぎず、その背景には持つものと持たざるものという経済格差の問題が存在しています。その問題が彼らの生き方に暗い影を落とすのです。
もちろん、単純にバディ・ムービーとしても面白く、人種に注目せずに友情や人生について描いた映画としてみても楽しめると思います。
人種問題と階級問題の狭間で
舞台はオークランドで、主人公は保護観察期間終了まで3日を残すのみとなった黒人青年のコリンと、その親友で白人のマイルズ。
コリンとマイルズはオークランドで生まれ育った子供の頃からの友達らしく、二人の間に人種の壁は存在しない。二人は仕事も一緒で、コリンの元カノのヴァルが受付をする引っ越し会社で二人組で仕事をしている。
このオークランドに最近、外から主に白人の裕福な人達が入ってきて、町もはたから見ればいい方に変わってきたらしい。しかし、昔から暮らす彼ら、特にマイルズはよそ者のことを嫌っている。
この映画の肝はここだ。
物語としては、コリンが白人警官が黒人の容疑者を背後から射殺する現場を目撃してしまうというきっかけがあり、ここから色々展開していくために、人種の問題が中心と思われがちで、実際人種は問題なのだけれど、そんなに単純ではないというのもテーマの一つになる。
それは、マイルスは黒人なのか、白人なのかという問題だ。コリンとマイルスの間では人種は問題にならず、彼らのアイデンティティの中心は人種ではなく、オークランドという場所と、育った環境にある。
映画の後半でマイルスが他の黒人から「ゲットーぶらなくていい」と言われるシーンがあるが、彼らのアイデンティティの中心にあるのはこの「ゲットー」なのだと思う。オークランドの貧しい人たちが暮らすエリア、住民の多くは有色人種だけれど、中には白人もいる、それこそが彼らのアイデンティティの中心なのだ。だからマイルスはよそ者を毛嫌いする。自分たちの拠り所をないがしろにするから。
そういう背景を考えると、この映画で扱われている問題は、人種問題でありかつ階級問題であるということになる。私達はアメリカの問題を単純に人種問題と考えてしまうが、中を覗いてみるとそんなに単純ではない。人種問題のように見える問題のそこには常に持つものと持たざるものとあいだの対立が横たわっているのだ。白人でかつ持たざるものであるマイルズの存在がそのことを浮かび上がらせる。
その意味では、容疑者を射殺してしまった警察官も狭間の存在と考えることもできる。権力側ではあるが決して裕福ではない彼らは誰の味方をすればいいのか。
それでものしかかる「人種」
こうして階級がひとつの問題として浮かび上がってくる映画ではあるが、最終的にはやはり人種が最大の問題であると言わざるを得なくもなる。コリンとマイルスはかなりの部分でアイデンティティを共有しているが、黒人と白人では生きづらさにはやはり差がある。それが映画の終盤で露呈し、見るものに決して解けない問題を突きつけることになる。
マイルスはどこかで黒人ではないことに後ろめたさを感じているのだろう。だから必要以上に“ニガー”ぶる。この映画で分かったのは“ニガー”という言葉はもはや黒人を示す蔑称ではなく、悪ぶる生き方をする人々のことを人種問わずに指すということだ。コリンもマイルスの黒人の奥さんもマイルスのことを迷わず“ニガー”と呼ぶ。
しかし、マイルスはコリンに「俺のことをニガーと呼ばない」と指摘され、ニガーとしての生き方に疑問を覚える。どんなにニガーぶっても自分は黒人になれないこと、そしてコリンたちは決して享受できない安心や恩恵をずっと享受してきたことから目を背けてきたことに気がついたのではないか。
コリンも、自分たちが黒人であるがゆえに味あわなければいけない恐怖や無念に思いを巡らせる。
持たざるものである彼らはこのままでは本当に誰もしあわせになれないのではないかと絶望的な気分になる。
そして希望
それでも、この映画には希望がある。
コリンはクライマックスシーンに凄まじいラップを披露し、不平等や生きづらさを突き破ろうとする。人種問題を描いた映画でいつも感じるのは、黒人たちの音楽の持つ力だ。音楽は常に彼らに力を与え、団結し行動する原動力になる。この映画もそのことを感じさせてくれる。
マイルスのほうも最後には、黒人になろうとするのではなく、友情あるいは愛で違いを乗り越えようという姿勢に変化したように見える。
持つものと持たざるものと間の対立を乗り越えることはほとんど不可能に見えるが、その実現はまず持たざる者たちが団結しなければ始まらない。そのことをこの映画は示してくれているような気がした。
『ブラインドスポッティング』
Blindspotting
2018年/アメリカ/95分
監督:カルロス・ロペス・エストラーダ
脚本:ラファエル・カザル、ダビード・ディグス
撮影:ロビー・バウムガルトナー
音楽:マイケル・イェツェルスキー
出演:ダビード・ディグス、ラファエル・カザル、ジャニナ・ガバンカー、ジャスミン・シーファス・ジョーンズ
この作品が含まれる特集
https://socine.info/2021/01/08/blindspotting/https://i1.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2021/01/blindspotting-gallery-04.jpg?fit=1024%2C651&ssl=1https://i1.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2021/01/blindspotting-gallery-04.jpg?resize=150%2C150&ssl=1ishimuraMovieBlackLivesMatter,人種問題(C)2018 OAKLAND MOVING PICTURES LLC ALL RIGHTS RESERVED
後をたたない白人警察官による黒人容疑者の殺害事件、そんな事件を扱った映画の一つがこの『ブラインドスポッティング』です。
ただ、事件がメインテーマというわけではなく、事件を目撃してしまった黒人青年とその親友の白人青年の人種に関わる葛藤を描いた映画ということができます。
この映画でみえてくるのは、アメリカの今の人種問題が人種だけの問題ではないということです。人種というのは一つの指標に過ぎず、その背景には持つものと持たざるものという経済格差の問題が存在しています。その問題が彼らの生き方に暗い影を落とすのです。
もちろん、単純にバディ・ムービーとしても面白く、人種に注目せずに友情や人生について描いた映画としてみても楽しめると思います。
人種問題と階級問題の狭間で
舞台はオークランドで、主人公は保護観察期間終了まで3日を残すのみとなった黒人青年のコリンと、その親友で白人のマイルズ。
コリンとマイルズはオークランドで生まれ育った子供の頃からの友達らしく、二人の間に人種の壁は存在しない。二人は仕事も一緒で、コリンの元カノのヴァルが受付をする引っ越し会社で二人組で仕事をしている。
(C)2018 OAKLAND MOVING PICTURES LLC ALL RIGHTS RESERVED
このオークランドに最近、外から主に白人の裕福な人達が入ってきて、町もはたから見ればいい方に変わってきたらしい。しかし、昔から暮らす彼ら、特にマイルズはよそ者のことを嫌っている。
この映画の肝はここだ。
物語としては、コリンが白人警官が黒人の容疑者を背後から射殺する現場を目撃してしまうというきっかけがあり、ここから色々展開していくために、人種の問題が中心と思われがちで、実際人種は問題なのだけれど、そんなに単純ではないというのもテーマの一つになる。
それは、マイルスは黒人なのか、白人なのかという問題だ。コリンとマイルスの間では人種は問題にならず、彼らのアイデンティティの中心は人種ではなく、オークランドという場所と、育った環境にある。
映画の後半でマイルスが他の黒人から「ゲットーぶらなくていい」と言われるシーンがあるが、彼らのアイデンティティの中心にあるのはこの「ゲットー」なのだと思う。オークランドの貧しい人たちが暮らすエリア、住民の多くは有色人種だけれど、中には白人もいる、それこそが彼らのアイデンティティの中心なのだ。だからマイルスはよそ者を毛嫌いする。自分たちの拠り所をないがしろにするから。
(C)2018 OAKLAND MOVING PICTURES LLC ALL RIGHTS RESERVED
そういう背景を考えると、この映画で扱われている問題は、人種問題でありかつ階級問題であるということになる。私達はアメリカの問題を単純に人種問題と考えてしまうが、中を覗いてみるとそんなに単純ではない。人種問題のように見える問題のそこには常に持つものと持たざるものとあいだの対立が横たわっているのだ。白人でかつ持たざるものであるマイルズの存在がそのことを浮かび上がらせる。
その意味では、容疑者を射殺してしまった警察官も狭間の存在と考えることもできる。権力側ではあるが決して裕福ではない彼らは誰の味方をすればいいのか。
それでものしかかる「人種」
こうして階級がひとつの問題として浮かび上がってくる映画ではあるが、最終的にはやはり人種が最大の問題であると言わざるを得なくもなる。コリンとマイルスはかなりの部分でアイデンティティを共有しているが、黒人と白人では生きづらさにはやはり差がある。それが映画の終盤で露呈し、見るものに決して解けない問題を突きつけることになる。
マイルスはどこかで黒人ではないことに後ろめたさを感じているのだろう。だから必要以上に“ニガー”ぶる。この映画で分かったのは“ニガー”という言葉はもはや黒人を示す蔑称ではなく、悪ぶる生き方をする人々のことを人種問わずに指すということだ。コリンもマイルスの黒人の奥さんもマイルスのことを迷わず“ニガー”と呼ぶ。
しかし、マイルスはコリンに「俺のことをニガーと呼ばない」と指摘され、ニガーとしての生き方に疑問を覚える。どんなにニガーぶっても自分は黒人になれないこと、そしてコリンたちは決して享受できない安心や恩恵をずっと享受してきたことから目を背けてきたことに気がついたのではないか。
コリンも、自分たちが黒人であるがゆえに味あわなければいけない恐怖や無念に思いを巡らせる。
持たざるものである彼らはこのままでは本当に誰もしあわせになれないのではないかと絶望的な気分になる。
そして希望
それでも、この映画には希望がある。
コリンはクライマックスシーンに凄まじいラップを披露し、不平等や生きづらさを突き破ろうとする。人種問題を描いた映画でいつも感じるのは、黒人たちの音楽の持つ力だ。音楽は常に彼らに力を与え、団結し行動する原動力になる。この映画もそのことを感じさせてくれる。
マイルスのほうも最後には、黒人になろうとするのではなく、友情あるいは愛で違いを乗り越えようという姿勢に変化したように見える。
持つものと持たざるものと間の対立を乗り越えることはほとんど不可能に見えるが、その実現はまず持たざる者たちが団結しなければ始まらない。そのことをこの映画は示してくれているような気がした。
https://youtu.be/1mqwdwwApR8
『ブラインドスポッティング』Blindspotting2018年/アメリカ/95分監督:カルロス・ロペス・エストラーダ脚本:ラファエル・カザル、ダビード・ディグス撮影:ロビー・バウムガルトナー音楽:マイケル・イェツェルスキー出演:ダビード・ディグス、ラファエル・カザル、ジャニナ・ガバンカー、ジャスミン・シーファス・ジョーンズ
この作品が含まれる特集
https://socine.info/2020/06/15/blacklivesmatter/
https://eigablog.com/vod/movie/blindspottiong/
Kenji
Ishimuraishimura@cinema-today.netAdministratorライター/映画観察者。
2000年から「ヒビコレエイガ」主宰、ライターとしてgreenz.jpなどに執筆中。まとめサイト→https://note.mu/ishimurakenji
映画、アート、書籍などのレビュー記事、インタビュー記事、レポート記事が得意。ソーシネ
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