アンジェイ・ワイダの遺作『残像』が教えてくれる社会が芸術を必要とする理由。
芸術は大衆の要求を満たさなければならないそれが芸術の目的だ。
こんな言葉が映画『残像』に登場します。
『残像』は、ポーランドの実在の芸術家ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキを主人公にしたアンジェイ・ワイダの遺作で、共産主義時代のポーランドにおける芸術家の苦難を描いた作品です。
政治に翻弄される芸術家
画家で大学教授でもあるストゥシェミンスキは、前衛的な作風で知られ、20世紀にポーランドを代表する画家と称されていました。しっかしとした芸術理論を持ち学生からも人気がありました。
しかし、ソ連のスターリン政権の影響下にあるポーランド政府は芸術においても社会主義リアリズム以外は認めない方針を示します。ストゥシェミンスキももともとは共産革命に賛同していたのですが、こと芸術に関しては芸術家の自由を主張し政府と対立するようになります。
そんな時、大学に文化大臣がやってきます。そこで大臣は次のような演説をするのです。
国家には芸術家に要求する権利がある。芸術は大衆の要求を満たさなければんらないそれが芸術の目的だ。人々の熱意や勝利の信念に疑いを抱かせるな、陰鬱なものをつくるな。イデオロギー欠如の芸術は労働者の敵だ。
と。
ストゥシェミンスキはこれに対し「芸術とはなにか?」と問い、「芸術は様々な形態を実験する場であり、新しい芸術に求められるのは便利さではなく卓越性です」と語ります。そして続けて「大臣は芸術と政治の境界をなくそうとしています。それがある集団の利益にかなうからでしょう」と言ってしまうのです。
これで大臣に目をつけられたストゥシェミンスキは、手始めに大学の職を追われ、芸術家協会から除名され、ようやく手に入れた職人の仕事も解雇され、極貧へと追い込まれていきます。
それでも彼を慕う学生たちはいて、彼の著書を発行しようともがくのですが、ストゥシェミンスキの苦難は想像を超え、最後には食べるものにも困るようになってしまうのです。
彼の苦難はずっと続くのですが、象徴するシーンが最後に出てきます。ストゥシェミンスキは料理を作ってくれる家政婦を雇っていたのですが、支払いが滞ると、家政婦は一度出したスープを下げて帰ってしまいます。ひとり残されたストゥシェミンスキは、スープが入っていた皿を舐め回すのです。このシーンはかなり衝撃的なものです。
芸術家の卓越性と大衆の要求
この映画を見てまず思うのは、体制に反対すると生活の術までも奪われる時代の残酷さです。共産党政権は生きることを人質に信念を曲げることを求めていました。彼らはそれが正義と考え、すべての人民が国に従うことで国は栄えていくと考えていたのです。
芸術家にとってなぜそれが問題なのか。その答えはストゥシェミンスキの言葉にあります。彼は「新しい芸術には卓越性が求められる」といいました。彼は別のところで「芸術は価値観が衝突するところに生まれる」というようなことも言っています。
つまり、価値観が衝突すると、芸術家はその中から卓越性を生み出すことができるのです。この「卓越性」は社会を変える可能性を持っています。社会が行き詰まった時に芸術の卓説性が新たな道を見せてくれることがあるのです。
そのような芸術は決して「大衆の要求を満たすもの」ではありませんし、一つの価値観に支配された社会からは新しい芸術も生まれません。それは社会にとって損失でしかないのです。
アンジェイ・ワイダが描こうとしたのは政治によって新しい芸術が生まれる可能性が奪われ、不幸になっていく世界の姿だったのではないでしょうか。そしてその批判は今は過去のものとなった当時のポーランド政府に向けただけのものではなく、現代のあらゆる支持ににも向けられているのだと思います。
アンジェイ・ワイダは、ヨーロッパの巨匠の一人。共産党政権下で、レジスタンスをテーマにした”抵抗三部作”(『世代』『地下水道』『灰とダイヤモンド』)でデビューしたものの、民主化運動に傾き一時は国内での映画製作を禁じられた経験も持ちます。ワイダ自身もストゥシェミンスキのような芸術家の受難を経験しているのです。
そしてワイダは共産党政権に従うようなふりをしながら異なるメッセージを発してきました。その傾向は抵抗三部作でもすでに表れています。
・抵抗三部作
『世代』
『地下水道』
『灰とダイヤモンド』
それは簡単に言えばナチスを批判する表現によって今の政権を批判しようとしていたのではないかということです。ワイダの映画の特徴の一つは本当に言いたいことは隠されていることだと私は思っています。だから、この映画にもその要素があると思うのです。
それはもちろん、芸術に介入しようとする現代の政治に対する批判です。
現代のポーランドやヨーロッパでどのような問題があるのか、明確にはわかりませんが。日本ではまさに「表現の不自由」が話題になり、政治と芸術の関係が取り沙汰されています。
「表現の不自由展」に反対する人たちが上げる理由の一つが「公金が投じられているのだから多くの人が不愉快になるものはやめるべきだ」というものです。これは冒頭に上げたポーランドの文化大臣の発言とほぼ同じ意味だと思いませんか?「大衆の要求を満たす」ことが芸術に求めらているのです。
しかし、ストゥシェミンスキの言うように芸術とはそういうものではありません。大衆には理解できなくても、芸術家はそこから卓越性を生み出し、ゆくゆくは私たちはそれに救わえるかもしれないのです。
偉大な芸術家の多くは最初、大衆の反発を味わいました。ゴッホも、ピカソも、岡本太郎も。しかしその卓越性は社会に影響を与え、評価を変えました。だから「大衆の気分を害する」ことを理由に芸術を拒否することは絶対に避けなければいけないことなのです。そして、それに政治が加担することなど以ての外です。政治はないように口を出さないとはそういうことなのです。
今この日本で、私がこの映画から受け取ったのは、そんなメッセージでした。
ぜひこの作品を見て、芸術の意味、芸術と政治の関係について考えてみてください。Netflixでも見れます。
『残像』
Powidoki
2016年/ポーランド/99分
監督:アンジェイ・ワイダ
脚本: アンジェイ・ムラルチク、アンジェイ・ワイダ
撮影:パベウ・エデルマン
音楽:アンジェイ・パヌフニク
出演:ポグスワフ・リンダ、ゾフィア・ビフラチュ、ブロニスワバ・ザマホフスカ
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