もう20年近く前になるだろうか、『サイクリスト』を観たときからモフセン・マフマルバフが好きで、9.11の時に読んだ『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない、恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』はいまだに心の深いところに残る一冊になっている。マフマルバフはイスラム世界のリアルな姿を非イスラム世界に発信し続けていて、映画を観る度、本を読む度に目を開かせられる。

そんなマフマルバフが2014年に撮ったのが今日の作品『独裁者と小さな孫』だ。架空の独裁国家を部隊にした作品で、マフマルバフの他の作品と同様どこかとらえどころがなく、結局何を言いたいのか判然としないけれど、なぜか引き込まれる面白さがあり、結果的にいろいろ考えさせられてしまうという作品だ。

マフマルバフの作品は観る度に異なる感想を持つことが多いので、今回も今回の感想ということになるが、これは物語をめぐる映画だと思った。独裁国家を成り立たせる大きな物語と、それとは無関係な私たちの日常の小さな物語の果てしない隔絶の物語だ。

独裁国家の末路

大統領が独裁を敷くある国で、クーデーターが起きる。大統領は家族を国外に逃がす一方で、自分は孫と2人で国に残り体制を立て直そうと考えるが、側近は殺され運転手にも裏切られすぐに逃亡生活が始まる。床屋を銃で脅して着るものとかつらを手に入れた大統領はさらに民家に盗みに入ってギターを手に入れ、旅芸人のふりをしながら逃亡を続けるのだが…

この映画は何の映画なのか、どんな映画なのかと聞かれても、答えるのは難しい。独裁国家を描いた映画で、基本的にはブラックコメディだということくらいしか言えない。ブラック過ぎてコメディだと思えない人も多いかも知れない。

象徴的なシーンが前半にある。旅芸人のふりをした大統領と孫がヒッチハイクをしたのか他の人たちと車に乗せられて行くが、検問に出くわす。検問をする兵士は大統領には気づかないまま人々を並ばせ、「給料も何ヶ月ももらっていない」と言いながら、金品を奪っていく。そこに結婚式をあげようという人たちの車列がやってくる。兵士はそれも止め、体調らしき男はウェディングドレスを着た新婦を小屋に連れ込む。その間、兵士も捕まった人々もただ呆然と立っている。このシーンの結末も衝撃的なのだが、さらにその後、解放された大統領は一緒に捕まった人々と車で移動するのだが、そこで一人の老女が実は金持ちで、お金で鶏を借りて難を逃れていたことが明かされる。

ここは笑うべきところのはずだ。しかし笑えない。大統領が治めてきた国はこんなにも狂ってしまった。人々は自分の利益のためだけに行動し、他人がどうなっても構わないという考え方が蔓延してしまっているのだ。

大統領はこれを目にして自分がやってきたことの意味を学ぶのだろうか?

そしてこのようになってしまった国は、クーデターによって独裁者が排除されたからといって、健全な国家になれるのだろうか?

変わらない独裁者

大統領は、旅の中でこれまで知らなかったであろう庶民たちの姿を目にする。その多くは大統領に恨みを抱いているし、普通に考えればそのように恨むのは当然と考えられる。そこから自分がやってきたことを彼は悔いるのかというとそんなことはないというのがこの映画のすごいところかもしれない。

大統領は、助けを求めて娼婦のマリアを訪れる。詳細な関係はわからないが昔関係があったらしい。しかしそのマリアは大統領のことに気づかず、カネを払わない兵隊に悪態をつき、生理だから帰ってくれと大統領にいう。最終的には壁の写真と見比べて大統領と気づき、政治犯として捕まった姉を助けるために何百通も手紙を送ったのに一度も返事がなかったと大統領をなじる。これに対して大統領は「手紙は受け取っていない」という。

普通の映画だったらここから先も会話が続き、二人の関係になにか変化が生じるのだろうが、この映画ではそんな事は起きない。大統領はマリアに電話を借り、国外逃亡を助けてくれるらしい何者かに電話をし落ち合う場所を確認する。大統領はマリアに助けを求めながら、最終的には彼女を利用するだけなのだ。

その時、外を見ているように言われた孫は、大した理由もなく射殺された母親にすがる子どもたちを目撃する。

架空の世界と実在のマリア

とにかく甘やかされて育った孫はわがまま放題で、なんでも自分の自由になるように要求するのだが、その中でも特に執着するのが、宮殿でダンスパートナーとなっていた友達のマリアだ。最初に国外に逃亡しようというときもマリアが一緒じゃなければ嫌だといい、マリアに似た子を見かけるとついていってしまう。

最初は幼い恋心を描いたものなのかと思ったが、どうもそうではないようだ。孫の両親は殺され(本人はそのことを知らないが長らくあっていない)、近しいと言える存在は祖父とマリアだけになってしまった彼にとって、マリアを失うことは自分という存在自体を失うことなのかも知れない。

そして、このマリアと娼婦のマリアの名前の一致にも意味があるのだと思う。しかも、この映画の中で名前が語られるのはこの二人だけなのだ。

主人公である大統領やその孫に名前がないことは、主観的な世界を表現するものであると同時に、この物語全体が架空のものであることを示唆しているように思う。われわれの暮らす現実の世界を描いたものではなくて、現実と似た別の世界の出来事を描いているということだ。

その世界に存在する2人のマリアは、2人の主人公両方にとって救いである。そして、ある意味では大統領(独裁者)の世界と人々が暮らす世界をつなぐ紐帯でもあるのかもしれない。

独裁国家という物語

私たちはこれまでの歴史の中で多くの独裁国家というものを見てきたし、今も見ている。独裁国家が多くの人にとっていいものではないことは明らかなのに、なぜなくならず、生み出され続けるのか。この映画を見ていると、それは物語であるからなのかも知れないと思った。どのような物語であるかは国によって違うけれど、独裁者自身も多くの国民もそれが正しいあるいはいいと思ってしまう物語が作られ、それによって現実との乖離が起き、ある種の夢の国のような形で独裁国家が存続していく。

しかし、それはあくまで夢であり幻想なので、現実ではひどいことが起きていく。独裁者はその現実から守られて夢の中に居続けるので、自分も国民もその物語に満足し続けているという幻想に守られて行くが、その夢の中に入られる人は限られ、多くの国民は現実に食い殺されていく。現実に食い殺されてもその夢物語を信じることしか知らない人たちは自分たちを蝕んでいる政権を支え続け殺され続ける。

これが夢でしかないことに気づく人が増え、支える側を凌駕するようになると革命が起きる。この映画では革命のきっかけについて設定が明かされていないが、地域柄「アラブの春」が想起されることから、世界の情報化によって人々が現実に気がついたことが理由なのかも知れない。北朝鮮のように巧妙に情報統制をしない限り、もう独裁者は物語によって国を支配できない時代になってきているのだ。

ただ、体制側にいた人たちはそれが末端であったとしても独裁国家の大きな物語を自分の物語としても体得してしまいがちで、そうなると検問をする兵士のようなことが起きる。独裁者のミニチュア版のようなことをしてしまうのだ。他の物語を知っていたとしても、自分に都合のいい物語の方を採用するから。

しかしよく考えたら、政治というのはそもそも物語なのかも知れない。それぞれの政治家が自分なりの物語を語り、どの物語がより魅力的であるかを有権者が判断する。物語が大きなものであればあるほど多くの人から支持されるというのがこれまでの政治の有り様だったのではないか。その物語が圧倒的な支持を集めたら独裁だって可能になる。その典型例がナチスドイツだ。

それに対して、アラブの春というのは、SNSという小さな物語の集まりが独裁国家という大きな物語を打ち倒したと捉えることができるかも知れない。そしてそれは、小さな物語があふれることによって大きな物語が存立し得なくなってきていることも示しているのではないか。

大統領は奇しくも自分の国家が物語であったことを孫に対して明かしてしまっている。自分のことを陛下と呼ぶ物語をやめて、旅芸人の祖父と孫という物語の登場人物になるように孫を説得するのだ。もちろん子供相手だからわかりやすく説明しているという側面もあるのだろうが、大統領というのも一つの物語における役を演じているに過ぎないということを明らかにし、大きな物語よりも小さな物語のほうが説得力がある現実に生きていることを示してしまってもいるのだ。

そして孫はそもそも小さな物語の世界にしか生きていない。その土台には大統領が描く大きな物語があるのだけれど、孫自身が生きているのは自分と家族とマリアでできた小さな物語の世界だ。そして娼婦のマリアも大統領にとっての一つの小さな物語の主人公だった。

ラストシーンを観ると、大統領も小さな物語の大切さに気づいたと捉えることもできるが、時すでに遅しか?

『独裁者と小さな孫』
The President
2014年/ジョージア・フランス・ドイツ・イギリス/119分
監督・脚本:モフセン・マフマルバフ
脚本:マルズィエ・メシュキニ
撮影:コンスタンチン=ミンディア・エサゼ
音楽:グジャ・ブルドゥリ、タジダール・ジュネイド
出演:ミシャ・ゴミアシュビリ、ダチ・オルウェラシュビリ、ラ・スキタシュビリ

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https://i1.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2018/05/president_3.jpg?fit=640%2C452&ssl=1https://i1.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2018/05/president_3.jpg?resize=150%2C150&ssl=1ishimuraMovieアラブの春,イラン,モフセン・マフマルバフ,独裁国家
もう20年近く前になるだろうか、『サイクリスト』を観たときからモフセン・マフマルバフが好きで、9.11の時に読んだ『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない、恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』はいまだに心の深いところに残る一冊になっている。マフマルバフはイスラム世界のリアルな姿を非イスラム世界に発信し続けていて、映画を観る度、本を読む度に目を開かせられる。 そんなマフマルバフが2014年に撮ったのが今日の作品『独裁者と小さな孫』だ。架空の独裁国家を部隊にした作品で、マフマルバフの他の作品と同様どこかとらえどころがなく、結局何を言いたいのか判然としないけれど、なぜか引き込まれる面白さがあり、結果的にいろいろ考えさせられてしまうという作品だ。 マフマルバフの作品は観る度に異なる感想を持つことが多いので、今回も今回の感想ということになるが、これは物語をめぐる映画だと思った。独裁国家を成り立たせる大きな物語と、それとは無関係な私たちの日常の小さな物語の果てしない隔絶の物語だ。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || ).push({}); 架空の世界と実在のマリア とにかく甘やかされて育った孫はわがまま放題で、なんでも自分の自由になるように要求するのだが、その中でも特に執着するのが、宮殿でダンスパートナーとなっていた友達のマリアだ。最初に国外に逃亡しようというときもマリアが一緒じゃなければ嫌だといい、マリアに似た子を見かけるとついていってしまう。 最初は幼い恋心を描いたものなのかと思ったが、どうもそうではないようだ。孫の両親は殺され(本人はそのことを知らないが長らくあっていない)、近しいと言える存在は祖父とマリアだけになってしまった彼にとって、マリアを失うことは自分という存在自体を失うことなのかも知れない。 そして、このマリアと娼婦のマリアの名前の一致にも意味があるのだと思う。しかも、この映画の中で名前が語られるのはこの二人だけなのだ。 主人公である大統領やその孫に名前がないことは、主観的な世界を表現するものであると同時に、この物語全体が架空のものであることを示唆しているように思う。われわれの暮らす現実の世界を描いたものではなくて、現実と似た別の世界の出来事を描いているということだ。 その世界に存在する2人のマリアは、2人の主人公両方にとって救いである。そして、ある意味では大統領(独裁者)の世界と人々が暮らす世界をつなぐ紐帯でもあるのかもしれない。 独裁国家という物語 私たちはこれまでの歴史の中で多くの独裁国家というものを見てきたし、今も見ている。独裁国家が多くの人にとっていいものではないことは明らかなのに、なぜなくならず、生み出され続けるのか。この映画を見ていると、それは物語であるからなのかも知れないと思った。どのような物語であるかは国によって違うけれど、独裁者自身も多くの国民もそれが正しいあるいはいいと思ってしまう物語が作られ、それによって現実との乖離が起き、ある種の夢の国のような形で独裁国家が存続していく。 しかし、それはあくまで夢であり幻想なので、現実ではひどいことが起きていく。独裁者はその現実から守られて夢の中に居続けるので、自分も国民もその物語に満足し続けているという幻想に守られて行くが、その夢の中に入られる人は限られ、多くの国民は現実に食い殺されていく。現実に食い殺されてもその夢物語を信じることしか知らない人たちは自分たちを蝕んでいる政権を支え続け殺され続ける。 これが夢でしかないことに気づく人が増え、支える側を凌駕するようになると革命が起きる。この映画では革命のきっかけについて設定が明かされていないが、地域柄「アラブの春」が想起されることから、世界の情報化によって人々が現実に気がついたことが理由なのかも知れない。北朝鮮のように巧妙に情報統制をしない限り、もう独裁者は物語によって国を支配できない時代になってきているのだ。 ただ、体制側にいた人たちはそれが末端であったとしても独裁国家の大きな物語を自分の物語としても体得してしまいがちで、そうなると検問をする兵士のようなことが起きる。独裁者のミニチュア版のようなことをしてしまうのだ。他の物語を知っていたとしても、自分に都合のいい物語の方を採用するから。 しかしよく考えたら、政治というのはそもそも物語なのかも知れない。それぞれの政治家が自分なりの物語を語り、どの物語がより魅力的であるかを有権者が判断する。物語が大きなものであればあるほど多くの人から支持されるというのがこれまでの政治の有り様だったのではないか。その物語が圧倒的な支持を集めたら独裁だって可能になる。その典型例がナチスドイツだ。 それに対して、アラブの春というのは、SNSという小さな物語の集まりが独裁国家という大きな物語を打ち倒したと捉えることができるかも知れない。そしてそれは、小さな物語があふれることによって大きな物語が存立し得なくなってきていることも示しているのではないか。 大統領は奇しくも自分の国家が物語であったことを孫に対して明かしてしまっている。自分のことを陛下と呼ぶ物語をやめて、旅芸人の祖父と孫という物語の登場人物になるように孫を説得するのだ。もちろん子供相手だからわかりやすく説明しているという側面もあるのだろうが、大統領というのも一つの物語における役を演じているに過ぎないということを明らかにし、大きな物語よりも小さな物語のほうが説得力がある現実に生きていることを示してしまってもいるのだ。 そして孫はそもそも小さな物語の世界にしか生きていない。その土台には大統領が描く大きな物語があるのだけれど、孫自身が生きているのは自分と家族とマリアでできた小さな物語の世界だ。そして娼婦のマリアも大統領にとっての一つの小さな物語の主人公だった。 ラストシーンを観ると、大統領も小さな物語の大切さに気づいたと捉えることもできるが、時すでに遅しか? https://youtu.be/ctoNQF46aA4 『独裁者と小さな孫』 The President 2014年/ジョージア・フランス・ドイツ・イギリス/119分 監督・脚本:モフセン・マフマルバフ 脚本:マルズィエ・メシュキニ 撮影:コンスタンチン=ミンディア・エサゼ 音楽:グジャ・ブルドゥリ、タジダール・ジュネイド 出演:ミシャ・ゴミアシュビリ、ダチ・オルウェラシュビリ、ラ・スキタシュビリ このブログの電子書籍版を作りました! (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
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