選択を許されなかった、すべての虐げられた人々に捧げられた映画『ムーンライト』
アカデミー賞で作品賞を受賞した『ムーンライト』。
アカデミー賞も、昨年の受賞者が白人ばかりだったりして、今年も『ラ・ラ・ランド』が最有力と言われる中、ほぼ100%黒人しか出演していないこの映画が獲ったということは、映画の内容よりも政治的なというか社会的な意味が大きいことだったように思う。
もちろん、黒人の映画に獲らせてやろうという意図が働いて受賞したというわけではなく、アメリカ社会のいい意味のバランス感覚が表れた結果だったのではないか。
全ての虐げられた人々に
作品は「リトル」と呼ばれた少年の成長物語で、黒人でゲイで母子家庭でいじめられた少年がどう成長していくのかが映画の中心になる。物語は3章立てで、それぞれ、少年時代のあだ名「リトル」、青年時代の本名の「シャロン」、おとなになってからの愛称の「ブラック」がタイトルとなっている。
そしてこの3章をそれぞれ違う俳優が演じる。全体としては一人の男の半生を描いた物語だが、その演出によって、特定の個人というよりは「虐げられた人々」の一般的な像を描いているという印象を観客に抱かせることに成功している。黒人、ゲイ、というだけでなく、いじめられた経験があったり、貧しい地域の出身であったり、親の愛情を受けられなかったり、片親が不在だったり、ということが原因で、選択肢を与えられなかった、あるいは選択を許されなかったすべての人の物語になり得ているのだ。
ドラックに溺れ息子を蔑ろにする母親、いじめられる中で唯一優しくしてくれる幼馴染のケヴィン、孤独な少年に手を差し伸べてくれたドラッグディーラーのフアン(とその恋人のテレサ)、その存在の持つ意味は、章によって変わり、受け手によっても変わる。
私が物語上で一番気になったのは、ひ弱ないじめられっ子の「オカマ」だったシャロンが、突然筋骨隆々のドラッグディーラー「ブラック」へと変貌を遂げたというところだった。ドラッグ中毒の母親に苦しめられたのに彼がそうなってしまったのは、彼にはフアンしかロールモデルが存在しなかったからだろう。少しでも幸せな身近な存在の大人はフアンしかいなかった。だから彼はフアンになろうとするしかなかった。それが選択肢を与えられなかったということだ。
もし彼が、勉強ができたり、絵がうまかったり、スポーツができたりして、それを見出して引き上げてくれる教師が学校にいたりすれば、そこから彼の可能性は広がり、選択肢を手にすることができる。しかしシャロンが見出し得た可能性はフアンしかいなかった。だから彼はフアンになるしかなかった。
だから、この映画が描いているのは社会の問題なのだ。子供たちを貧困や犯罪から逃れさせることが出来ない社会の問題点を指摘していると観ることができるのだ。
考えさせる映像
そしてこの映画にはそんなことを考えさせる「間」がたっぷりとある。物語が展開しない時間、基本的にシャロンが何かを考えていると推測できる場面が多いが、なにを考えているかはわからない時間、その時間には観客も何かを考えなければいけない。シャロンが一体何を考えているのか、そう考えることでこの映画の背景にあるさまざまな問題が浮かび上がってくるはずなのだ。
そして、その「間」に映し出されている映像が非常に美しい。夜の場面が多く、画面が暗いことが多いのだが、その中でも像がくっきりとしている上に多様な色彩が感じられて場面としては暗さを感じない。この映画のタイトル『ムーンライト』は、フアンがキューバに居た少年時代に聞いた「黒人が月明かりの下では青く見える」というエピソードに由来する(他に月明かりが重要になるシーンもある)わけだが、暗い中に存在する色彩を感じることができる映像は新鮮だ。
そして、それは同時に黒人の肉体の美しさも描いている。映画だけでなく様々な文脈の中で白人が美しさの基準のようになっているという世界的なスタンダードが存在していて、それが白人以外への差別(あるいは白人以外の人々自身による卑下)につながっている部分もあると思うのだが、この映画はそれに対するアンチテーゼと受け取ることもできるのだ。
多様化への鍵は融和ではない
黒人やLGBTに対する反差別を描いた映画というのは、基本的に「融和」をテーマにすることが多いと思う。黒人と白人が仲良くしたり、ゲイであっても友人として受け入れたりといった物語だ。しかし、いくらそのような物語を描いても、それはあくまで差別をしない人たち、人種や性的志向に関わりなく人間は皆同じだと考える人達の物語であって、「みんながこうなったらいいね」というおとぎ話でしかない。
この映画が描くのは、そうではない人たちが存在し、そこには断絶があることを前提にした物語だ。違いをなくすのではなく、違いを認めつつ互いを尊重することを目指した物語なのだ。
映画の終盤でシャロンは施設に入った母親に会いに行く。母親はシャロンに「愛している」というがシャロンは返さない。それに対して母親は「愛してくれなくても仕方がない」ということを言うが、それはそのとおりだ。シャロンは母親を愛しはしないし、受け入れもしないが、見放すことはない。これは違いを認めながらも、存在を尊重しているがゆえなのではないだろうか。
そのような多様化を受け入れていくためには、まず自分の中にありながら気づかないでいる差別意識や固定観念を知ろうとしなければいけないと思う。この映画を観て、自分の中にもどこかで黒人を差別するというか、美の基準を白人においていたりする部分があることに気づいた。
この映画を観てかわいそうだとか観るのが辛いとか思っているようではまだまだ多様性というものを本当には理解できていない、ほんとうに差別の芽なんてどこにあるのかわかりはしないのだから。
最後に一つ、この映画を観て最近読んだ『拾った女』という小説を思い出した。これはアルコールに溺れる男女の悲惨な物語なのだけれど、最後まで読んだら、この映画と同じように自分に問いかけざるを得なかった。どんでん返しとかそういうのではないのだけれど、最後の最後に決定的な一文があり、それがすごい。そうやって自分自身に問いを投げかけ続けることこそが重要なんだろう。
2016年/アメリカ/111分
監督・脚本:バリー・ジェンキンス
原案:タレル・アルビン・マクレイニー
撮影:ジェームズ・ラクストン
音楽:ニコラス・ブリテル
出演:トレバンテ・ローズ、アシュトン・サンダース、アレックス・ヒバート、マハーシャラ・アリ、ナオミ・ハリス
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