淡々とした暮らし

2016年から18年頃にかけて、フランスのノートル・ダム・デ・ランドでの空港建設反対運動が展開された。その中心となったのは「ZAD」と呼ばれるグループで、映画は当時の反対運動の映像を振り返ることから始まる。映像によると、2018年にフランス政府は空港建設の中止を決めた。

映像は切り替わり、振り返りの映像にも出てきた監視台のようなものが映し出される。「ZAD」は反対運動当時、グループが選挙した土地も意味し、現在もそこに人々が暮らし続けているようだ(撮影されたのは2022年から23年)。

映画は5分から15分ほどの映像のモンタージュで展開される。ナレーションも説明もなく、時にはセリフもない。最初は、豚に本を読み聞かせる女性、その後、機械で大きな切り株を割る人たちや、馬を使って畑を耕す人、大量のパン生地を捏ねる人など、いわゆる手仕事をする人たちの映像が流される。

映像からは推測するしかないが、自給自足に近い生活を実験的に行っていることはある程度有名なことらしい。

途中で、十数人の子どもがテーブルを囲んで誕生日会が行われていたりして、この子どもたちはどんな暮らしをしているのだろうと思ったりするが、べつに周囲から隔絶したコミューンというわけではなく、外部とはゆるくつながっているのだろうと推測される。

約3時間半と非常に長い映画だが、インターミッションまでは淡々と生活の様子が映される。基本固定カメラで、説明もなにもないので、映像が意味しているところも、どれだけの人が生活しているかも、どんなところなのかも推測するしかないが、そもそも全貌を明らかにすることに意味を見出していないのだろう。それでもドローンを飛ばして周囲の風景を映し出すところがあるので、田園地帯の真ん中にあることもわかる。

淡々と映される警察との衝突

後半に入ると、新たなデモの準備が始まる。今度は別の場所の貯水池建設反対のデモで、ZADが中心になりながら、周辺の農民などと連携してかなり大規模なデモを予定していることがわかる。

準備も淡々と進み、デモに入るのだが、デモの様子も、警察に先導されて何十台ものトラクターがゆっくり走る映像と、現地に向かう人々が溝をわたるのを長々と映すもの、デモ隊と警察が衝突する現場を遠目に映したものだけで、しまいには通りがかりのデモ参加者に「あっちの方を撮りに行ったほうがいい」と言われてしまう始末だ。

それでも現場の映像は、催涙弾やゴム弾(だと思われるもの)が続々撃ち込まれていくさまを映していて、最前線の衝突の現場を映したものよりリアルな感じがした。劇的な場面の後方にはこういう人たちがいて静かに戦っているんだということが伝わってくる。

最後に、ZADのリーダーたちへのインタビューの場面があり、そこでようやくある程度説明がされて、全貌がぼんやりと明らかになるという仕掛けになっていて、「これはなんだったんだ?」という疑問だけが残る作品にはなっていない。

自然とダイレクトに関わる

個人的に印象的だったシーンは2つで、どちらも食べ物を作っているシーンだった。一つは大量のパン生地を捏ねるシーン、もう一つは大量のクレープ生地を焼くシーンだ。どちらもなんの説明もなく、ただただ作業の様子を映すだけだ。パン生地の方は作業をしている人の顔すら映らない。でも、ものが確実に出来上がっていく過程をしっかりと映し、しかも見事な職人技というべき手際で進んでいくのだ。彼らはZADの仲間なのだろうが、普段はまちのパン職人やクレープ職人と変わらないことをしているし、それは他のあらゆる登場人物に言えることだ。そこには、「エコテロリスト」とも言われる彼らが私達と何も変わらない人たちだという含意がある。

パン作りもそうだが、農地を馬で耕したり、牛も放し飼いだったり、彼らの生活は極力機械を使わず、自然と直接関わっている。彼らの活動の原点である空港建設反対も自然保護が主意であり、おそらくその原則に従って自給自足に近い暮らしをしているのだろう。自然保護という目標と、自分たちの暮らしの実践、そこに齟齬がないことが彼らにとっては重要なのだ。

そして、それはこの映画が「手」を非常に多く映すことにもつながってくる。パンを捏ねるシーンも手のアップだし、チェスのシーンもチェス盤と手しか写っていない。終盤にはピアノを弾く手も出てきて、最後のインタビューのシーンですら、主に映るのは、メモを取る記者の手だ。

なぜ「手」に注目するかといえば、それが自然と直接関わるものだからだ。この映画のタイトル『ダイレクト・アクション』は、第一義的には抗議活動としての直接行動(実力行使)という意味だろうけれど、同時に、直接自然に働きかけるアクションという意味も含んでいるのだと思う。その象徴が手なのだ。手で土をいじり、動物を扱い、パンを捏ねる。その直接的な関わりが彼らには大事なのだ。

インタビューの中でリーダーの一人が「活動すれば意味が生まれる」というような話をしていた。これは、抗議活動に参加することで自分の行動に意味を感じることができるというような意図の言葉だったと思うが、それは行動に対して直接的な反応が返ってくることでその行動の意味が理解できるということだろう。

そしてそれは抗議活動だけに当てはまることではない。現代の私たちの暮らしでは、行動に対して直接的な反応が返ってくることが少なくなっているのではないか。社会が複雑化しすぎたことで仕事をしても、それが社会に及ぼす結果を直接感じることはほとんどない。でも農業のように自然と直接関わるとダイレクトに結果が返ってくる。彼らが言う「ダイレクト・アクション」には、そのような意味も含まれているのではないか。現代を生きる私たちにはいろいろな意味で「ダイレクト・アクション」が必要なのかもしれない。

『ダイレクト・アクション』
Direct Action
2024年/ドイツ・フランス/212分
監督:ギョーム・カイヨー、ベン・ラッセル
撮影:ベン・ラッセル

https://i0.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2024/11/Direct_Action_main.jpg?fit=1024%2C554&ssl=1https://i0.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2024/11/Direct_Action_main.jpg?resize=150%2C150&ssl=1ishimuraMovieエコロジー,デモ,自給自足
淡々とした暮らし 2016年から18年頃にかけて、フランスのノートル・ダム・デ・ランドでの空港建設反対運動が展開された。その中心となったのは「ZAD」と呼ばれるグループで、映画は当時の反対運動の映像を振り返ることから始まる。映像によると、2018年にフランス政府は空港建設の中止を決めた。 映像は切り替わり、振り返りの映像にも出てきた監視台のようなものが映し出される。「ZAD」は反対運動当時、グループが選挙した土地も意味し、現在もそこに人々が暮らし続けているようだ(撮影されたのは2022年から23年)。 映画は5分から15分ほどの映像のモンタージュで展開される。ナレーションも説明もなく、時にはセリフもない。最初は、豚に本を読み聞かせる女性、その後、機械で大きな切り株を割る人たちや、馬を使って畑を耕す人、大量のパン生地を捏ねる人など、いわゆる手仕事をする人たちの映像が流される。 映像からは推測するしかないが、自給自足に近い生活を実験的に行っていることはある程度有名なことらしい。 途中で、十数人の子どもがテーブルを囲んで誕生日会が行われていたりして、この子どもたちはどんな暮らしをしているのだろうと思ったりするが、べつに周囲から隔絶したコミューンというわけではなく、外部とはゆるくつながっているのだろうと推測される。 約3時間半と非常に長い映画だが、インターミッションまでは淡々と生活の様子が映される。基本固定カメラで、説明もなにもないので、映像が意味しているところも、どれだけの人が生活しているかも、どんなところなのかも推測するしかないが、そもそも全貌を明らかにすることに意味を見出していないのだろう。それでもドローンを飛ばして周囲の風景を映し出すところがあるので、田園地帯の真ん中にあることもわかる。 淡々と映される警察との衝突 後半に入ると、新たなデモの準備が始まる。今度は別の場所の貯水池建設反対のデモで、ZADが中心になりながら、周辺の農民などと連携してかなり大規模なデモを予定していることがわかる。 準備も淡々と進み、デモに入るのだが、デモの様子も、警察に先導されて何十台ものトラクターがゆっくり走る映像と、現地に向かう人々が溝をわたるのを長々と映すもの、デモ隊と警察が衝突する現場を遠目に映したものだけで、しまいには通りがかりのデモ参加者に「あっちの方を撮りに行ったほうがいい」と言われてしまう始末だ。 それでも現場の映像は、催涙弾やゴム弾(だと思われるもの)が続々撃ち込まれていくさまを映していて、最前線の衝突の現場を映したものよりリアルな感じがした。劇的な場面の後方にはこういう人たちがいて静かに戦っているんだということが伝わってくる。 最後に、ZADのリーダーたちへのインタビューの場面があり、そこでようやくある程度説明がされて、全貌がぼんやりと明らかになるという仕掛けになっていて、「これはなんだったんだ?」という疑問だけが残る作品にはなっていない。 自然とダイレクトに関わる 個人的に印象的だったシーンは2つで、どちらも食べ物を作っているシーンだった。一つは大量のパン生地を捏ねるシーン、もう一つは大量のクレープ生地を焼くシーンだ。どちらもなんの説明もなく、ただただ作業の様子を映すだけだ。パン生地の方は作業をしている人の顔すら映らない。でも、ものが確実に出来上がっていく過程をしっかりと映し、しかも見事な職人技というべき手際で進んでいくのだ。彼らはZADの仲間なのだろうが、普段はまちのパン職人やクレープ職人と変わらないことをしているし、それは他のあらゆる登場人物に言えることだ。そこには、「エコテロリスト」とも言われる彼らが私達と何も変わらない人たちだという含意がある。 パン作りもそうだが、農地を馬で耕したり、牛も放し飼いだったり、彼らの生活は極力機械を使わず、自然と直接関わっている。彼らの活動の原点である空港建設反対も自然保護が主意であり、おそらくその原則に従って自給自足に近い暮らしをしているのだろう。自然保護という目標と、自分たちの暮らしの実践、そこに齟齬がないことが彼らにとっては重要なのだ。 そして、それはこの映画が「手」を非常に多く映すことにもつながってくる。パンを捏ねるシーンも手のアップだし、チェスのシーンもチェス盤と手しか写っていない。終盤にはピアノを弾く手も出てきて、最後のインタビューのシーンですら、主に映るのは、メモを取る記者の手だ。 なぜ「手」に注目するかといえば、それが自然と直接関わるものだからだ。この映画のタイトル『ダイレクト・アクション』は、第一義的には抗議活動としての直接行動(実力行使)という意味だろうけれど、同時に、直接自然に働きかけるアクションという意味も含んでいるのだと思う。その象徴が手なのだ。手で土をいじり、動物を扱い、パンを捏ねる。その直接的な関わりが彼らには大事なのだ。 インタビューの中でリーダーの一人が「活動すれば意味が生まれる」というような話をしていた。これは、抗議活動に参加することで自分の行動に意味を感じることができるというような意図の言葉だったと思うが、それは行動に対して直接的な反応が返ってくることでその行動の意味が理解できるということだろう。 そしてそれは抗議活動だけに当てはまることではない。現代の私たちの暮らしでは、行動に対して直接的な反応が返ってくることが少なくなっているのではないか。社会が複雑化しすぎたことで仕事をしても、それが社会に及ぼす結果を直接感じることはほとんどない。でも農業のように自然と直接関わるとダイレクトに結果が返ってくる。彼らが言う「ダイレクト・アクション」には、そのような意味も含まれているのではないか。現代を生きる私たちにはいろいろな意味で「ダイレクト・アクション」が必要なのかもしれない。 『ダイレクト・アクション』Direct Action2024年/ドイツ・フランス/212分監督:ギョーム・カイヨー、ベン・ラッセル撮影:ベン・ラッセル
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