売れない俳優のエチエンヌは、刑務所の演劇ワークショップの講師の仕事につく。刑務所内でやった公演に手応えを得たエチエンヌは、5人の受刑者と本格的に演劇に取り組無事に決め、「ゴドーを待ちながら」を刑務所外で公演するのを目指し半年間の稽古を行うことに。エチエンヌは悪戦苦闘しながら受刑者たちとの信頼関係を築いてゆき、公演にこぎつけるが…
スウェーデンの俳優ヤン・ジョンソンの実体験をもとに、実在の刑務所で撮影を敢行した。
受刑者もエチエンヌも「待つ」
こういう受刑者が社会と接点を持つことで成長して行く物語自体は珍しくない。だからこの映画もそういう話なのかと思って見ると、なんだか違和感がある。それはこの物語の中心は受刑者たちではなくエチエンヌだからだ。受刑者たちはエチエンヌの道具にすぎないと言ってしまうと言い過ぎだが、エチエンヌは受刑者にどこかで自分を重ね合わせ、彼らがうまくいくなら自分もこれからの人生うまく行くはずだという希望をいだいて行動をしているようにみえる。
『ゴドーを待ちながら』という題材も、エチエンヌいわく受刑者たちにとって「待つこと」はあまりに身近だからリアリティが出ると思って選んだという。たしかにそのとおりだろう。彼らの生活(というものがあるとすればそれ)は、待つことに支配されている。刑期の終わりを待つのはもちろん、次の面会の日を、次の自由時間を待つ日々だ。
エチエンヌもまた次のチャンスが来るのを待っている。待ちながら受刑者に演劇を教えている。受刑者の刑期の終わりと違ってエチエンヌのチャンスは来るかどうかわからないのだから、むしろエチエンヌのほうが『ゴドーを待ちながら』な日常を送っていると言っていい。
それが受刑者たちが主人公だと思ってみると感じてしまう違和感の正体だ。ただ違和感があったとしてもこの映画は面白い。何が面白いか説明するのは難しいのだが、それは『ゴドーを待ちながら』にも当てはまることだ。
エチエンヌの希望と受刑者の絶望
さて、結末はネタバレになるので書けないが、なかなか意外な結末を迎える。その結末に向かって何が起こっていたのかを少し解説すると、この映画の面白さが伝わるかもしれない。
待つことを知っている受刑者たちは『ゴドーを待ちながら』を見事に演じ、舞台は評判になる。エチエンヌもそれに意義を感じ、次々と来る公演依頼を受けては受刑者たちと稽古を繰り返す。エチエンヌはそれが彼らのためになっていると思っていただろう。
しかし受刑者たちの側からするとどうだろうか。彼らは舞台に上がったときは称賛を浴びる。しかし、刑務所に戻ればただの受刑者だ。それはつまり待つだけの日々で、彼らにとってこの出来事は「待つ」ことが増えただけだったのではないか。彼らは刑務所で次の晴れ舞台を待つ日々を送る。その時の自由が大きいがために待ちわびる気持ちはさらに募る。それは彼らにとっていいことなのか私たちにはわからない。励みになったのか、それとも自分の境遇に対する絶望感を増すことになったのか。
想像できないのはエチエンヌも一緒だ。でも彼は受刑者たちと信頼を築き彼らを理解していると思ってしまった。
この映画にはエチエンヌと娘(と登場はしないが別れた妻)のエピソードが本筋とは関係なく挿入されるが、そこでも浮かび上がるのはエチエンヌが娘のことを理解できていないという事実だ。
エチエンヌが鈍いというのもあると思うが、それは程度の問題で、そもそも人は理解し合えないものだ。相手の立場や考えを想像することはできるが、それには限界がある。
断絶を超える想像力を持てるか
同じものを見ていても立場によって見え方はぜんぜん違うというのは当たり前のことだが、私たちはそのことをすぐに忘れてしまう。忘れてしまって人のことをわかった気になってしまうのだ。この映画はそのことを詳らかにする。
特に受刑者という日常接することがない人々の考えていることは想像することが難しい。断絶があるとは言いたくないが、深い溝はある。その溝を越えて想像力をふくらませることができるか、それが問われていることではないか。
多様性が重要とされる現代社会においては、この断絶を超えて想像力をふくらませることができるかどうかは、重要だ。どれだけ多様な人々を社会に包含できるか、それが私達の想像力にかかっているからだ。
現状、受刑者たちは社会に包含されていない。『ヤクザと憲法』のときも思ったが、多様な社会の中にすら入れない彼らのことを私たちはどうすればいいのか。枠は広がってきているが、まだ入っていない人はいる。それをどうすればいいのか。私達の想像力の幅を広げていくしかないが、どれだけの人がそれをすれば社会全体がその枠を広げていくことができるのか、それはわからない。
もしかしたら社会全体が受け入れる必要はなくて、彼らを含むコミュニティと私達を含むコミュニティの間に断絶がなければ、その間をつなぐコミュニティがありさえすればいいのかもしれない。この映画で刑務所長がやろうとしていたのは、エチエンヌを通してそれをつくることだったのかもしれない。
『アプローズ、アプローズ!囚人たちの舞台』
Un Triomphe
2020年/フランス/105分
監督:エマニュエル・クールコル
脚本:エマニュエル・クールコル、ティエリー・ド・カルボニエ
撮影:ヤン・マリトー
音楽:フレッド・アブリル
出演:カド・メラッド、ダビッド・アヤラ、ラミネ・シソコ、ソフィアン・カーム、ピエール・ロッタン
https://socine.info/2022/08/08/applause/https://i1.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2022/08/aprouse_1.jpg?fit=640%2C427&ssl=1https://i1.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2022/08/aprouse_1.jpg?resize=150%2C150&ssl=1ishimuraMovie(C)2020 - AGAT Films & Cie - Les Productions du Ch’timi / ReallyLikeFilms - Photo (C)Carole Bethuel
売れない俳優のエチエンヌは、刑務所の演劇ワークショップの講師の仕事につく。刑務所内でやった公演に手応えを得たエチエンヌは、5人の受刑者と本格的に演劇に取り組無事に決め、「ゴドーを待ちながら」を刑務所外で公演するのを目指し半年間の稽古を行うことに。エチエンヌは悪戦苦闘しながら受刑者たちとの信頼関係を築いてゆき、公演にこぎつけるが…
スウェーデンの俳優ヤン・ジョンソンの実体験をもとに、実在の刑務所で撮影を敢行した。
受刑者もエチエンヌも「待つ」
こういう受刑者が社会と接点を持つことで成長して行く物語自体は珍しくない。だからこの映画もそういう話なのかと思って見ると、なんだか違和感がある。それはこの物語の中心は受刑者たちではなくエチエンヌだからだ。受刑者たちはエチエンヌの道具にすぎないと言ってしまうと言い過ぎだが、エチエンヌは受刑者にどこかで自分を重ね合わせ、彼らがうまくいくなら自分もこれからの人生うまく行くはずだという希望をいだいて行動をしているようにみえる。
『ゴドーを待ちながら』という題材も、エチエンヌいわく受刑者たちにとって「待つこと」はあまりに身近だからリアリティが出ると思って選んだという。たしかにそのとおりだろう。彼らの生活(というものがあるとすればそれ)は、待つことに支配されている。刑期の終わりを待つのはもちろん、次の面会の日を、次の自由時間を待つ日々だ。
(C)2020 - AGAT Films & Cie - Les Productions du Ch’timi / ReallyLikeFilms - Photo (C)Carole Bethuel
エチエンヌもまた次のチャンスが来るのを待っている。待ちながら受刑者に演劇を教えている。受刑者の刑期の終わりと違ってエチエンヌのチャンスは来るかどうかわからないのだから、むしろエチエンヌのほうが『ゴドーを待ちながら』な日常を送っていると言っていい。
それが受刑者たちが主人公だと思ってみると感じてしまう違和感の正体だ。ただ違和感があったとしてもこの映画は面白い。何が面白いか説明するのは難しいのだが、それは『ゴドーを待ちながら』にも当てはまることだ。
エチエンヌの希望と受刑者の絶望
さて、結末はネタバレになるので書けないが、なかなか意外な結末を迎える。その結末に向かって何が起こっていたのかを少し解説すると、この映画の面白さが伝わるかもしれない。
待つことを知っている受刑者たちは『ゴドーを待ちながら』を見事に演じ、舞台は評判になる。エチエンヌもそれに意義を感じ、次々と来る公演依頼を受けては受刑者たちと稽古を繰り返す。エチエンヌはそれが彼らのためになっていると思っていただろう。
(C)2020 - AGAT Films & Cie - Les Productions du Ch’timi / ReallyLikeFilms - Photo (C)Carole Bethuel
しかし受刑者たちの側からするとどうだろうか。彼らは舞台に上がったときは称賛を浴びる。しかし、刑務所に戻ればただの受刑者だ。それはつまり待つだけの日々で、彼らにとってこの出来事は「待つ」ことが増えただけだったのではないか。彼らは刑務所で次の晴れ舞台を待つ日々を送る。その時の自由が大きいがために待ちわびる気持ちはさらに募る。それは彼らにとっていいことなのか私たちにはわからない。励みになったのか、それとも自分の境遇に対する絶望感を増すことになったのか。
想像できないのはエチエンヌも一緒だ。でも彼は受刑者たちと信頼を築き彼らを理解していると思ってしまった。
この映画にはエチエンヌと娘(と登場はしないが別れた妻)のエピソードが本筋とは関係なく挿入されるが、そこでも浮かび上がるのはエチエンヌが娘のことを理解できていないという事実だ。
エチエンヌが鈍いというのもあると思うが、それは程度の問題で、そもそも人は理解し合えないものだ。相手の立場や考えを想像することはできるが、それには限界がある。
断絶を超える想像力を持てるか
同じものを見ていても立場によって見え方はぜんぜん違うというのは当たり前のことだが、私たちはそのことをすぐに忘れてしまう。忘れてしまって人のことをわかった気になってしまうのだ。この映画はそのことを詳らかにする。
特に受刑者という日常接することがない人々の考えていることは想像することが難しい。断絶があるとは言いたくないが、深い溝はある。その溝を越えて想像力をふくらませることができるか、それが問われていることではないか。
多様性が重要とされる現代社会においては、この断絶を超えて想像力をふくらませることができるかどうかは、重要だ。どれだけ多様な人々を社会に包含できるか、それが私達の想像力にかかっているからだ。
現状、受刑者たちは社会に包含されていない。『ヤクザと憲法』のときも思ったが、多様な社会の中にすら入れない彼らのことを私たちはどうすればいいのか。枠は広がってきているが、まだ入っていない人はいる。それをどうすればいいのか。私達の想像力の幅を広げていくしかないが、どれだけの人がそれをすれば社会全体がその枠を広げていくことができるのか、それはわからない。
もしかしたら社会全体が受け入れる必要はなくて、彼らを含むコミュニティと私達を含むコミュニティの間に断絶がなければ、その間をつなぐコミュニティがありさえすればいいのかもしれない。この映画で刑務所長がやろうとしていたのは、エチエンヌを通してそれをつくることだったのかもしれない。
https://youtu.be/ar6tg16Lz2c
『アプローズ、アプローズ!囚人たちの舞台』Un...
Kenji
Ishimuraishimura@cinema-today.netAdministratorライター/映画観察者。
2000年から「ヒビコレエイガ」主宰、ライターとしてgreenz.jpなどに執筆中。まとめサイト→https://note.mu/ishimurakenji
映画、アート、書籍などのレビュー記事、インタビュー記事、レポート記事が得意。ソーシネ
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