新作映画のオーディション中のイスラエルの映画監督Yは監督作品の上映会のため砂漠の中にある小さな村を訪れる。その村出身でYのファンだという役人のヤハロムの出迎えを受ける。滞在場所となるアパートでヤハロムから上映会で話すテーマを政府が用意したテーマの中から選ぶよう言われたYはそれに反発する。
斬新なカメラワークと音楽の使い方で観客を不思議な世界へといざなう作品。監督のナダブ・ラピドはイスラエル人だが兵役後イスラエルを離れフランスで活動する。
イスラエルに対する批判
イスラエルの文化弾圧の現状についてはわからないが、ナダブ・ラピドは、ベルリン映画祭で金熊賞を獲得した前作『シノニムズ』でフランスに聞かしようとするイスラエル人を描いていて、外からイスラエルを見て、その姿勢を批判しようとしていることが伺える。
その文脈で見ると、この映画もイスラエル批判の様相を呈してくる。タイトルになっている『アヘドの膝』は、映画の中でも語られるように、イスラエル兵を平手打ちしたパレスチナ人の活動家アヘドに対して、イスラエルの政治家が「彼女の膝を撃ち抜けばよかった」と発言したことに由来している。
映画では、Yがこの事件をモチーフにした映画を取ろうとしているという設定だ。
ラピドはYにある程度自己を投影しているだろうから、Yのやろうとしていることや発言はある程度ラピドの意志と捉えることができる(そのままではないとしても、映画監督が主人公の映画を撮ったら、そこに監督自身の姿を投影していると観客が捉えることは予想しているだろうから、そう捉えられる前提で作っていると考えられる)。
となると、この映画は穏やかながらイスラエルの対パレスチナ政策と、国内に向けた過剰な統制を批判する映画と見ることができる。
そして、相対するヤハロムを見ると、立場上表立っては国を批判できないが、Yのファンであることを考えても国のやり方に不満を持っているだろうことはわかる。さらにその先には田舎の住人たちがいて、彼らは国のやり方に意見を持たず、地元出身のヤハロムの味方をするだけだ。
本当にラピドが言いたいことは何なのかは、この構造から想像するしかないが、これは世界中の知識人の多くが今感じていることなのではないだろうか。
映画の違和感とその意味
さて、映画外の文脈を含めて考えるとそんなようなことを言っている映画だろうということになるが、映画そのものにはそれとは別の魅力がある。
一番感じたのは映像や音楽の使い方が非常にいいということだ。映像は時に酔うこともあるが、焦点を結ぶべきものを映さなかったり、無駄に動き回ることによって、主人公Yの心理を巧みに表現する。
Yがヘッドホンをして砂漠を歩く場面では、ひたすら音楽が流れ続ける。これはYが歩くことや風景ではなく音楽に集中していることを示しているのだと思うが、映画においては不必要な長さがある。ただ、スクリーンから爆音で音楽が流れるのを聴くのはいいものだ。ただそんな感覚を覚える。
他にも突然出てくるバンドだったり、母親へのビデオレターだったり、普通の映画の展開からすると違和感を感じるシーンが多い。この違和感は観客に考えさせる工夫なのだろう。言葉でわかりやすく説明するのではなく、違和感を作り出すことで考えさせ、読み取らせる。
もちろんそれによって真意は伝わりにくくなるし、はっきり言って私も十分に理解できたとは思えない。でも、映画とは本来そういうものなのではないか。特に社会問題を扱った映画の場合、様々な見方があるのが普通で、それをわかりやすく描いてしまうことは押し付けにもつながる。
Yという一人の人物の考えや感情やそのゆらぎを表現することで、それが一つの見方でしかないことを示し、それに対してどう考えるのかを問うことのほうがむしろ正直で、そのほうが見る人にとっての真実には近づけるのではないか。
映画のたくさんの余白をたどりながらそんなことを思った。
『アヘドの膝』
Ha’berech
2021年/フランス=ドイツ=イスラエル/109分
監督:ナダブ・ラピド
脚本:ハイム・ラピド、ナダブ・ラピド
撮影:シャイ・ゴールドマン
出演:アブシャロム・ポラック、ヌア・フィバク
https://socine.info/2021/11/17/ahedo/https://i1.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2021/11/ahedo_1.jpg?fit=800%2C335&ssl=1https://i1.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2021/11/ahedo_1.jpg?resize=150%2C150&ssl=1ishimuraMovieイスラエル新作映画のオーディション中のイスラエルの映画監督Yは監督作品の上映会のため砂漠の中にある小さな村を訪れる。その村出身でYのファンだという役人のヤハロムの出迎えを受ける。滞在場所となるアパートでヤハロムから上映会で話すテーマを政府が用意したテーマの中から選ぶよう言われたYはそれに反発する。
斬新なカメラワークと音楽の使い方で観客を不思議な世界へといざなう作品。監督のナダブ・ラピドはイスラエル人だが兵役後イスラエルを離れフランスで活動する。
イスラエルに対する批判
イスラエルの文化弾圧の現状についてはわからないが、ナダブ・ラピドは、ベルリン映画祭で金熊賞を獲得した前作『シノニムズ』でフランスに聞かしようとするイスラエル人を描いていて、外からイスラエルを見て、その姿勢を批判しようとしていることが伺える。
その文脈で見ると、この映画もイスラエル批判の様相を呈してくる。タイトルになっている『アヘドの膝』は、映画の中でも語られるように、イスラエル兵を平手打ちしたパレスチナ人の活動家アヘドに対して、イスラエルの政治家が「彼女の膝を撃ち抜けばよかった」と発言したことに由来している。
映画では、Yがこの事件をモチーフにした映画を取ろうとしているという設定だ。
ラピドはYにある程度自己を投影しているだろうから、Yのやろうとしていることや発言はある程度ラピドの意志と捉えることができる(そのままではないとしても、映画監督が主人公の映画を撮ったら、そこに監督自身の姿を投影していると観客が捉えることは予想しているだろうから、そう捉えられる前提で作っていると考えられる)。
となると、この映画は穏やかながらイスラエルの対パレスチナ政策と、国内に向けた過剰な統制を批判する映画と見ることができる。
そして、相対するヤハロムを見ると、立場上表立っては国を批判できないが、Yのファンであることを考えても国のやり方に不満を持っているだろうことはわかる。さらにその先には田舎の住人たちがいて、彼らは国のやり方に意見を持たず、地元出身のヤハロムの味方をするだけだ。
本当にラピドが言いたいことは何なのかは、この構造から想像するしかないが、これは世界中の知識人の多くが今感じていることなのではないだろうか。
映画の違和感とその意味
さて、映画外の文脈を含めて考えるとそんなようなことを言っている映画だろうということになるが、映画そのものにはそれとは別の魅力がある。
一番感じたのは映像や音楽の使い方が非常にいいということだ。映像は時に酔うこともあるが、焦点を結ぶべきものを映さなかったり、無駄に動き回ることによって、主人公Yの心理を巧みに表現する。
Yがヘッドホンをして砂漠を歩く場面では、ひたすら音楽が流れ続ける。これはYが歩くことや風景ではなく音楽に集中していることを示しているのだと思うが、映画においては不必要な長さがある。ただ、スクリーンから爆音で音楽が流れるのを聴くのはいいものだ。ただそんな感覚を覚える。
他にも突然出てくるバンドだったり、母親へのビデオレターだったり、普通の映画の展開からすると違和感を感じるシーンが多い。この違和感は観客に考えさせる工夫なのだろう。言葉でわかりやすく説明するのではなく、違和感を作り出すことで考えさせ、読み取らせる。
もちろんそれによって真意は伝わりにくくなるし、はっきり言って私も十分に理解できたとは思えない。でも、映画とは本来そういうものなのではないか。特に社会問題を扱った映画の場合、様々な見方があるのが普通で、それをわかりやすく描いてしまうことは押し付けにもつながる。
Yという一人の人物の考えや感情やそのゆらぎを表現することで、それが一つの見方でしかないことを示し、それに対してどう考えるのかを問うことのほうがむしろ正直で、そのほうが見る人にとっての真実には近づけるのではないか。
映画のたくさんの余白をたどりながらそんなことを思った。
https://youtu.be/hrYRMaA_4WU
『アヘドの膝』Ha'berech2021年/フランス=ドイツ=イスラエル/109分監督:ナダブ・ラピド脚本:ハイム・ラピド、ナダブ・ラピド撮影:シャイ・ゴールドマン出演:アブシャロム・ポラック、ヌア・フィバク
Kenji
Ishimuraishimura@cinema-today.netAdministratorライター/映画観察者。
2000年から「ヒビコレエイガ」主宰、ライターとしてgreenz.jpなどに執筆中。まとめサイト→https://note.mu/ishimurakenji
映画、アート、書籍などのレビュー記事、インタビュー記事、レポート記事が得意。ソーシネ
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