画廊に飾られた作品に目を留めた男と女、男は女を誘うとするが金がなく諦めようとするが、二人は結局カフェで話をすることに。その男・永田は同級生と劇団を立ち上げた売れない劇作家、女・沙希は服飾学校に通う学生だった。
しばらくして後、付き合うことになった2人。売れず、才能も認められない永田だが、沙希だけは永田の才能を信じ、アパートに転がり込んできても彼を支えた。
又吉直樹の2作目となる同名小説を、行定勲監督で映画化。2020年4月に公開を予定していたが、新型コロナウイルスの影響で延期になり、7月に映画館とAmazon Primeで同時公開されたことでも話題になった。
なんのために生きるのか
この映画は一言で言えば「なんのために生きるのか」の映画だ。主人公の永田は演劇に魅了され、劇団を作り、脚本を書き、役を演じ、自分の表現をし続けている。しかし売れない。それでも表現は続ける。その中で沙希と出会い、「彼女の笑顔があればいい」と言えるほどに沙希のことを大事に思うようになる。そしてお金がないから彼女のアパートに転がり込む。
しかし、彼女の存在が創作の邪魔にもなる。そこで自分ひとりのアパートを借りる。それによって彼女の笑顔をあまり見られなくなる。プライドの高さや嫉妬深さやコミュニケーションの下手さによって彼女を傷つけもする。でも永田はどこかで沙希のために生きたいと思っている。でも何かがそれを邪魔するのだ。
それは一体何なのだろうか。
終盤で永田は盟友の野原に「お前は才能がないと思われているのを知っている。沙希にまでそう思われてしまったらお前は壊れる。それが嫌だから沙希を壊すのか?」と言われる。ここに決定的何かがある。
永田は実は「沙希から見限られること」を待っているのではないか。不器用な永田は演劇と紗希の両方を同時に大事にすることができない。だが自分から紗希を手放すことはできない。演劇を手放すこともできない。それならば紗希が自分を見限ってくれれば演劇をとらざるを得なくなる。永田は深層心理でずっとそんなことを思っていたのかもしれない。
そして、沙希と演劇を両立させられないこともわかっていた。だから、最初に沙希を自分の劇団の作品に出演させ高評価を得たのにそれ以降出演させなかった。沙希と一緒に演劇をやっていれば演劇も沙希も両方大事にすることができたかもしれないのに。
それはなぜか、それが永田の生き方の核心だ。
永田は「一般」に背を向け、その評価を得ようとはしない。では、彼は演劇に何を求めているのか。彼が求めるのは共感なのか、啓発なのか、それとも他のなにかなのか、それは分からない。ただ「演劇はすべてだ」と話していることからすると、人生を演劇で表現していると考えることができる。
彼の人生を見ていると、わざと苦しみを選んでいるというか、あえて間違った選択肢を選んでいるように見えることがある。おそらく無意識なのだろうが、自ら苦しい方へと進んでいく。それも実は演劇のためなのではないか。人生の苦しさを表現することが彼にとっての演劇なのではないかと思わずにはいられない。
彼は演劇のためにそんな生き方を選んでしまった。
沙希の生きる意味とは
では沙希はなんのために生きるのか。
沙希は発達障害まではいかないが、少し“足りない”キャラクターとして描かれている。沙希自身もそのことには気づいていて自分で「賢いところもある」と言っている。
その裏返しでもあるかもしれないが、沙希は純粋で自分の感情に素直でいつづける。他の人たちはすべて社会と自分の関係性を意識して発言したり行動を決めるが、沙希は徹底的に自分の感情に素直なのだ。
そんな沙希が永田を無条件に信頼し評価する。その理由を考えると永田は懸命に生きているからではないか。彼は自分が懸命に生きる姿を演劇で形にする。沙希はそれに素直に感動する。だから永田を絶対的に信頼する。
そして永田との一対一の関係の中で全てを捉えるようになる。永田が自分の表現を十分にでき、それで喜びを得られ、自分も一緒にそれを体験するために生きるのだ。
しかし沙希もどこかでそれがかなわぬ夢だということに気づく。自分がいては永田は自分の表現をできないことに気づいてしまうのだ。それでもなんとか実現できないかともがく、そして苦しみが増していく。
純文学としての映画
この映画のラストはすごくいいと私は思った。物語が収斂していって、しかしそこからまた未来がふわっと広がっていくような。このあとは決して描かれないのだろうけれど知りたくなってしまうような結末だ。それで観終わって温かい気持ちになった。
これは純文学を読み終わったあとに似ている。原作を読んでいないので、小説も同じ終わり方なのかはわからないが、行定勲監督は見事に映画に純文学を閉じ込めたと思う。
考えさせるドキュメンタリーや楽しめるエンターテインメントはよく見るけれど、純粋に文学的な映画というのは久しぶりに観た気がする。純文学は非常に個人的なものだけれど、人間の生き方を描いている以上、どうしても社会と関わってくる。永田も沙希も自分を追い求めながら結局は社会と関わらざるを得ないし、社会と関わることでしか自分に至ることはできない。この映画はそんなことを描いている気がした。
『劇場』
2020年/日本/136分
監督:行定勲
原作:又吉直樹
脚本:蓬莱竜太
撮影:槇憲治
音楽:曽我部恵一
出演:山崎賢人、松岡茉優、寛一郎、伊藤沙莉、浅香航大
amazon primeで観る
https://socine.info/2020/07/30/gekijo/https://i2.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2020/07/gekijo_main.jpg?fit=640%2C313&ssl=1https://i2.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2020/07/gekijo_main.jpg?resize=150%2C150&ssl=1ishimuraFeaturedMovie又吉直樹,山崎賢人,松岡茉優(C)2020「劇場」製作委員会
画廊に飾られた作品に目を留めた男と女、男は女を誘うとするが金がなく諦めようとするが、二人は結局カフェで話をすることに。その男・永田は同級生と劇団を立ち上げた売れない劇作家、女・沙希は服飾学校に通う学生だった。
しばらくして後、付き合うことになった2人。売れず、才能も認められない永田だが、沙希だけは永田の才能を信じ、アパートに転がり込んできても彼を支えた。
又吉直樹の2作目となる同名小説を、行定勲監督で映画化。2020年4月に公開を予定していたが、新型コロナウイルスの影響で延期になり、7月に映画館とAmazon Primeで同時公開されたことでも話題になった。
なんのために生きるのか
この映画は一言で言えば「なんのために生きるのか」の映画だ。主人公の永田は演劇に魅了され、劇団を作り、脚本を書き、役を演じ、自分の表現をし続けている。しかし売れない。それでも表現は続ける。その中で沙希と出会い、「彼女の笑顔があればいい」と言えるほどに沙希のことを大事に思うようになる。そしてお金がないから彼女のアパートに転がり込む。
しかし、彼女の存在が創作の邪魔にもなる。そこで自分ひとりのアパートを借りる。それによって彼女の笑顔をあまり見られなくなる。プライドの高さや嫉妬深さやコミュニケーションの下手さによって彼女を傷つけもする。でも永田はどこかで沙希のために生きたいと思っている。でも何かがそれを邪魔するのだ。
それは一体何なのだろうか。
終盤で永田は盟友の野原に「お前は才能がないと思われているのを知っている。沙希にまでそう思われてしまったらお前は壊れる。それが嫌だから沙希を壊すのか?」と言われる。ここに決定的何かがある。
(C)2020「劇場」製作委員会
永田は実は「沙希から見限られること」を待っているのではないか。不器用な永田は演劇と紗希の両方を同時に大事にすることができない。だが自分から紗希を手放すことはできない。演劇を手放すこともできない。それならば紗希が自分を見限ってくれれば演劇をとらざるを得なくなる。永田は深層心理でずっとそんなことを思っていたのかもしれない。
そして、沙希と演劇を両立させられないこともわかっていた。だから、最初に沙希を自分の劇団の作品に出演させ高評価を得たのにそれ以降出演させなかった。沙希と一緒に演劇をやっていれば演劇も沙希も両方大事にすることができたかもしれないのに。
それはなぜか、それが永田の生き方の核心だ。
永田は「一般」に背を向け、その評価を得ようとはしない。では、彼は演劇に何を求めているのか。彼が求めるのは共感なのか、啓発なのか、それとも他のなにかなのか、それは分からない。ただ「演劇はすべてだ」と話していることからすると、人生を演劇で表現していると考えることができる。
彼の人生を見ていると、わざと苦しみを選んでいるというか、あえて間違った選択肢を選んでいるように見えることがある。おそらく無意識なのだろうが、自ら苦しい方へと進んでいく。それも実は演劇のためなのではないか。人生の苦しさを表現することが彼にとっての演劇なのではないかと思わずにはいられない。
彼は演劇のためにそんな生き方を選んでしまった。
(C)2020「劇場」製作委員会
沙希の生きる意味とは
では沙希はなんのために生きるのか。
沙希は発達障害まではいかないが、少し“足りない”キャラクターとして描かれている。沙希自身もそのことには気づいていて自分で「賢いところもある」と言っている。
その裏返しでもあるかもしれないが、沙希は純粋で自分の感情に素直でいつづける。他の人たちはすべて社会と自分の関係性を意識して発言したり行動を決めるが、沙希は徹底的に自分の感情に素直なのだ。
そんな沙希が永田を無条件に信頼し評価する。その理由を考えると永田は懸命に生きているからではないか。彼は自分が懸命に生きる姿を演劇で形にする。沙希はそれに素直に感動する。だから永田を絶対的に信頼する。
そして永田との一対一の関係の中で全てを捉えるようになる。永田が自分の表現を十分にでき、それで喜びを得られ、自分も一緒にそれを体験するために生きるのだ。
しかし沙希もどこかでそれがかなわぬ夢だということに気づく。自分がいては永田は自分の表現をできないことに気づいてしまうのだ。それでもなんとか実現できないかともがく、そして苦しみが増していく。
(C)2020「劇場」製作委員会
純文学としての映画
この映画のラストはすごくいいと私は思った。物語が収斂していって、しかしそこからまた未来がふわっと広がっていくような。このあとは決して描かれないのだろうけれど知りたくなってしまうような結末だ。それで観終わって温かい気持ちになった。
これは純文学を読み終わったあとに似ている。原作を読んでいないので、小説も同じ終わり方なのかはわからないが、行定勲監督は見事に映画に純文学を閉じ込めたと思う。
考えさせるドキュメンタリーや楽しめるエンターテインメントはよく見るけれど、純粋に文学的な映画というのは久しぶりに観た気がする。純文学は非常に個人的なものだけれど、人間の生き方を描いている以上、どうしても社会と関わってくる。永田も沙希も自分を追い求めながら結局は社会と関わらざるを得ないし、社会と関わることでしか自分に至ることはできない。この映画はそんなことを描いている気がした。
https://youtu.be/gD0K8-D-hRk
『劇場』2020年/日本/136分監督:行定勲原作:又吉直樹脚本:蓬莱竜太撮影:槇憲治音楽:曽我部恵一出演:山崎賢人、松岡茉優、寛一郎、伊藤沙莉、浅香航大
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Kenji
Ishimuraishimura@cinema-today.netAdministratorライター/映画観察者。
2000年から「ヒビコレエイガ」主宰、ライターとしてgreenz.jpなどに執筆中。まとめサイト→https://note.mu/ishimurakenji
映画、アート、書籍などのレビュー記事、インタビュー記事、レポート記事が得意。ソーシネ
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