香港は他人事ではない。見ざるを得ない暗い未来は日本にも訪れるのか?-『十年』
先日、香港の民主化運動の中心人物の一人であるジョシュア・ウォンさんを追ったドキュメンタリー映画『ジョシュア』を紹介しました。香港と中国の関係は、私たちの暮らしとは直接関係内容に見えます。しかし、彼らが戦っている中国とは、つまり国家権力であり、世界中のあらゆる市民は権力によって自由と権利を奪われる可能性を常に抱えているのです。
香港にそれが顕著に表れるのは、中国本国では市民はすでに自由と権利を奪われていて、それが香港に及びそうになっているからです。
そして、その可能性はここ日本でも日に日に高まっているように思えてなりません。私たちは香港の人たちと同じくらいの危機感を持たなければいけないのかもしれないのです。
とは言ってもあまり現実味がないというか、差し迫った危機感を感じることはあまりありません。
そんな事を考えていたところ、 2015年に香港のこれからの10年をテーマに若手監督が制作した5本の作品を集めたアンソロジー『十年』を発見しました。
2015年といえば「雨傘運動」が起きた年、製作の背景には香港が中国本国に侵食されていくことへの危機感があったと推測できます。
実際、作品全体として、香港の近未来を危惧する内容で、その原因は中国の中央政府による干渉にあるとするものが多い印象です。
調べると、この作品は日本版も昨年、是枝裕和監督の総合監修により公開されました。ほとんど話題にならなかったような気がしますが、未来への危機感を抱えている人は日本にも確実にいるということです。
香港の人たちの危機感から私たちは何を学べるでしょうか。
すべての政府は嘘をつく
1本目の「エキストラ」は、中国政府が陰謀によって香港の民意をコントロールし、市民への統制を強めようとしているという内容で、そのためには市民の犠牲もいとわないだろうという憶測が込められています。これは、4本目の「焼身自殺者」とも共通していて、中国政府は警察や報道機関を使って民意が中国政府寄りになるように操作していると示唆しています。
この「焼身自殺者」は民主化運動をストレートに描いた偽ドキュメンタリーで、雨傘運動からストレートに続く未来を悲観的に描いたものですが、その中で中国政府は「憎しみ」を利用し、民主化運動側は「希望」を糧にしていると描かれているのが印象的でした。
政府が憎しみや恐怖を利用して市民をコントロールしようとするというのは現代において世界に共通する傾向で、市民は権力のそのような意図を見透かし、それを振り払って、手を取り合わなければ未来に希望は見えてこないのです。
この2本で描かれているのはそのような「権力の手口」を告発することで、「みんな注意しろよ!」と言っているのだと理解しました。そしてそれはあらゆる国に当てはまります。まさに『すべての政府は嘘をつく』(独立メディアの活動を描いたカナダ映画)のです。
中央による同化政策が市民の暮らしを殺す
3本目の「方言」は、香港で話者が多い広東語ではなく普通話(北京語)を話すことを中国政府により強制される未来を描いた作品で、普通話がしゃべれないタクシー・ドライバーが主人公。
この作品を見て思ったのは、香港が英国から中国に返還されたというのは、実質的には植民地の主が代わっただけでだけなのではないかということです。香港の人口の大半は、英国割譲後に中国の政変を逃れてきた難民の子孫だというから、共産党の中国はそもそも彼らにとって“母国”ではないのです。
しかも150年という時間が、2つの地域に大きな文化の違いを生みました。香港が中国に返還されたことによって、香港は異文化を持つ国家によって支配されることになったのです。
5本目の「地元産の卵」も香港の地域の文化を中国政府が奪おうとする物語です。中国政府は子どもたちを使って地元産のものや、不都合な書籍を違反品として消し去ろうとします。これは同化政策であり、香港独自の文化を抹消することで、市民をコントロールしやすくする政策です。広東語と同様に中国の「普通」と異なるものを排除していくのです。これはまさに植民地化の論理と言えるのではないでしょうか。
この2本から見えてくるのは、多様性の大切さです。一つの国だから一つの価値観ではなく、多様な価値観を持つ人たちが共存できて初めてすべての市民の権利が尊重されるのです。中国にはそれはないということですが、日本や他の国には本当にあるのでしょうか?
自分の頭で考えることの大切さ
残る1本、2本目の「冬のセミ」ははっきり言って訳がわからない物語です。登場人物は男女二人だけで、割れた陶器や食べ物など日常生活出でたゴミのようなものを次々と標本にしていき、最後に男が女に自分も標本にしてくれるように頼むというもの。
世紀末感は漂っているのですが、いったい全体で何を意味しているのかは判然としません。
ただ、全てを見てから振り返ってみると、「こうなのかな…」というのが薄っすらと見えてきます。
作品の冒頭で、 「エディーの家はブルドーザーで壊された」という説明があります。エディーが何者かはわからないのですが、エディーという名前から英国的なもののメタファーだと考えることができるのではないでしょうか。そうだとすると、英国統治時代の名残がいま失われつつあり、主人公の二人はそれを標本にすることで失われないようにしていると考えられます。二人は香港が中国によって塗り替えられることに抵抗しているのです。
それでも男がなぜ自分を標本にしてくれと言うのか、それに対する女の行動の意味などは考えてもよくわかりません。まあでもそうやってわからないからこそ考えることに意味があるのかもしれないとも思います。
自分の頭で考えなければ、他の人の意見に流されてしまいます。そしてそういう人が多くなればなるほど権力は人をコントロールしやすくなるのです。
私たちは考えない大衆になるのではなく、自分の頭で考える独立した市民にならなければいけない。この5本の作品が全体として訴えかけているのはそのことだと私は感じました。
考えるのは面倒くさいことですが、考えなければならない。そのことを何度も頭に叩き込みたいと思います。
『十年』
十年 Ten Years
2015年/香港/108分
監督:クォック・ジョン、ウォン・フェイパン、ジェボンズ・アウ、キウィ・チョウ、ン・ガーリョン
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