アメリカが大使館をエルサレムに移したことを発端にして、パレスチナで多くの死者が出ることになった。緊張が続くパレスチナでは、どんな小さなものでもきっかけさえあれば衝突が表面化し、死者が出る。そのニュースは日本でも報じられたが、パレスチナの現実を私たちはどれくらい知っているだろうか。BBCの動画を見ていたら、ヨルダン川西岸地区は世界でも有数の人口密度の地域だと言っていた。狭い地域に多くの人がひしめき合い、その多くは仕事もなく貧困にあえいでいる。彼らは一体どのような思いを抱いているのだろうか。
映画は時にそのような「虐げられた人々」の現実を教えてくれる。パレスチナについても優れた映画がいくつもある。その中の1本が『オマールの壁』を。
どう考えてもこれは戦争だ
ヨルダン川西岸で暮らすパン職人のオマールは、分離壁をよじ登って、壁の向こうの友人タレクとその妹で密かに愛を育んでいるナディアにたびたび会いに行く。幼馴染のタレクとオマールとアムジャドは、イスラエル兵を銃撃し殺害する計画を立て実行するが、オマールは秘密警察に捕まり刑務所へ。そこで拷問を受けた後、タレクを引き渡すなら放免すると言われいったん釈放される。
約10年前に自爆テロに向かう二人の若者を主人公にした『パラダイス・ナウ』を撮ったハニ・アブ・アサド監督によるサスペンス・ドラマ。
この映画はパレスチナを描いた社会派作品だが、形式としてはサスペンスだ。秘密警察に捕まったオマールは、本人たち以外知るはずのない情報を秘密警察が握っていることから自分以外の誰かが裏切り者であることを知る。しかし、他の人達は、すんなりと釈放されたオマールが裏切ったのではないかと怪しむ。オマールは実際に内通者となることを求められているのだが、それを逆に利用して捕まえに来る秘密警察に反撃をする計画をタレクに持ちかける。
観客は基本的にオマールの視点で物語を眺めるので、オマール以外の誰かが裏切り者だということを知っているのだが、オマール以外の仲間はオマールの持ちかけた計画が罠ではないのかという疑念も抱く。オマールとしては裏切り者が誰なのかを突き止め、自分の身の潔白を証明し、できれば秘密警察の鼻を明かしてやろうと思うのだが、事態はそう単純ではない。オマール自身もどう行動すべきか大いに悩むのだ。そこがどうなるかというのがサスペンスな部分で、なかなかハラハラさせられる。
そして、このようなサスペンスが成立すること自体が「パレスチナ問題」の複雑さを示してもいる。対立があり、テロがあり、報復があり、たくさんの死人が出ているが、国同士の戦争ではないし、パレスチナ人とイスラエル人の全員が互いに憎しみ合っているわけでもない。そもそもイスラエルにもパレスチナ人はいるし、パレスチナにもイスラエル人はいて、しかも見た目だけで明確に区別がつくわけでもない。
この単純化できない状況がこのサスペンスに現れているのだ。
それでも若者は恋をする
そのような複雑な状況が背景にはあるのだが、この映画は実はパレスチナ問題を直接描いているわけではない。この状況はあくまでも彼らが置かれている状況であり、若者たちはその中でも若者らしい日常を送っている。そして恋もする。
実は、オマールとアムジャドとナディアの恋物語こそがこの映画が描きたかったことなのかも知れない。このような状況にあっても若者は恋をするし、恋心は人を時に勇敢にし、時に卑怯にする。
この映画に描かれる恋は、イスラム世界だということもあり、非常に控えめというか、昔ながらというか。婚前交渉などはもちろんダメだし、結婚するにも兄弟や家族の許しを得てからでないと話を進めることはできない。そんな窮屈な恋がより一層若者たちを燃え上がらせるし、見ている方もハラハラさせられる。昭和の恋愛映画を見ているようだ。
そして、戦争と恋を同時に描いていることによって、その恋愛がより深い意味を持つようになる。
わかりやすく言えば、戦争は死で恋は生だ。彼らの日常は死と隣合わせで、実際に物語の中で何人も死人が出る。それに対して恋というのは生きることそのものだ。そのようにして生と死を非常に近い距離で描くことで、この映画は私たちに彼らが感じていることを伝えようとしているのではないか。
「恋」という世界中の人が共感できる物語を通すことで、彼らと自分の境遇の違い、はるかに隔たった距離を知る。しかし同時に、そのはるかな距離を乗り越えて彼らの心情を想像してしまう。オマールはなぜあのような決断をしたのか、自分が置かれた状況と、パレスチナ人が歩んできた歴史と、自分の恋心と、家族や友達への思いと、それら自分を形作る要素の間で揺れ動きながら、しかし自分で決断するしかない、その人間らしい迷いがオマールを私たちに近づけるのだ。
私たちはニュースを見てもなかなかパレスチナの人たちが置かれた状況を想像できない。どのような思いで子ども時代を過ごし、青春を過ごし、大人になったのか。今何を求め、どうしたいと思っているのか。この映画を観て思うのは、当たり前だけれど彼らも基本的には私たちと変わらないということで、彼らが求めているのは自分らしく生きることではないかということだ。自分らしく生きるために悩み、迷い、時には誤る。それがわかっただけでも、この映画によってパレスチナ問題を身近に感じることができたということで、今世界で起きていることを自分に引きつけることができたということだろう。
問題が複雑であればあるほど、一方的なものの見方をするほうがわかりやすくて、白か黒かという二元論の間で考えがちになってしまうけれど、世の中の物事のほとんどはグレーで、そのグラデーションの中のどこに自分は位置していたいのかを考えるべきなのだ。この映画とパレスチナ問題について言えば、過去のことはいろいろあるけれど、イスラエル人でもパレスチナ人でもなるべく多くの人たちが自分らしく生きられるような世の中になるためにどうすればいいのか、それを考えるべきで、そのためには物理的な距離は離れていても、心理的な距離は近づけるように想像力を働かせることがまず大事なんだと思う。
だから、今度はエルサレムの人たち、特に若者たちが何を考え、どのような恋をして生きているのか、そんなことを活き活きと描いてくれる映画が観たいと思った。
『オマールの壁』
Omar
2013年/パレスチナ/97分
監督・脚本:ハニ・アブ・アサド
出演:アダム・バクリ、ワリード・ズエイター、リーム・リューバニ
https://socine.info/2018/05/18/omar/https://i0.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2018/05/omar_1.jpg?fit=640%2C360&ssl=1https://i0.wp.com/socine.info/wp-content/uploads/2018/05/omar_1.jpg?resize=150%2C150&ssl=1ishimuraMovieイスラエル,イスラム,テロ,パレスチナ,ラブストーリー,恋するテロリスト,戦争アメリカが大使館をエルサレムに移したことを発端にして、パレスチナで多くの死者が出ることになった。緊張が続くパレスチナでは、どんな小さなものでもきっかけさえあれば衝突が表面化し、死者が出る。そのニュースは日本でも報じられたが、パレスチナの現実を私たちはどれくらい知っているだろうか。BBCの動画を見ていたら、ヨルダン川西岸地区は世界でも有数の人口密度の地域だと言っていた。狭い地域に多くの人がひしめき合い、その多くは仕事もなく貧困にあえいでいる。彼らは一体どのような思いを抱いているのだろうか。
映画は時にそのような「虐げられた人々」の現実を教えてくれる。パレスチナについても優れた映画がいくつもある。その中の1本が『オマールの壁』を。
どう考えてもこれは戦争だ
ヨルダン川西岸で暮らすパン職人のオマールは、分離壁をよじ登って、壁の向こうの友人タレクとその妹で密かに愛を育んでいるナディアにたびたび会いに行く。幼馴染のタレクとオマールとアムジャドは、イスラエル兵を銃撃し殺害する計画を立て実行するが、オマールは秘密警察に捕まり刑務所へ。そこで拷問を受けた後、タレクを引き渡すなら放免すると言われいったん釈放される。
約10年前に自爆テロに向かう二人の若者を主人公にした『パラダイス・ナウ』を撮ったハニ・アブ・アサド監督によるサスペンス・ドラマ。
この映画はパレスチナを描いた社会派作品だが、形式としてはサスペンスだ。秘密警察に捕まったオマールは、本人たち以外知るはずのない情報を秘密警察が握っていることから自分以外の誰かが裏切り者であることを知る。しかし、他の人達は、すんなりと釈放されたオマールが裏切ったのではないかと怪しむ。オマールは実際に内通者となることを求められているのだが、それを逆に利用して捕まえに来る秘密警察に反撃をする計画をタレクに持ちかける。
観客は基本的にオマールの視点で物語を眺めるので、オマール以外の誰かが裏切り者だということを知っているのだが、オマール以外の仲間はオマールの持ちかけた計画が罠ではないのかという疑念も抱く。オマールとしては裏切り者が誰なのかを突き止め、自分の身の潔白を証明し、できれば秘密警察の鼻を明かしてやろうと思うのだが、事態はそう単純ではない。オマール自身もどう行動すべきか大いに悩むのだ。そこがどうなるかというのがサスペンスな部分で、なかなかハラハラさせられる。
そして、このようなサスペンスが成立すること自体が「パレスチナ問題」の複雑さを示してもいる。対立があり、テロがあり、報復があり、たくさんの死人が出ているが、国同士の戦争ではないし、パレスチナ人とイスラエル人の全員が互いに憎しみ合っているわけでもない。そもそもイスラエルにもパレスチナ人はいるし、パレスチナにもイスラエル人はいて、しかも見た目だけで明確に区別がつくわけでもない。
この単純化できない状況がこのサスペンスに現れているのだ。
それでも若者は恋をする
そのような複雑な状況が背景にはあるのだが、この映画は実はパレスチナ問題を直接描いているわけではない。この状況はあくまでも彼らが置かれている状況であり、若者たちはその中でも若者らしい日常を送っている。そして恋もする。
実は、オマールとアムジャドとナディアの恋物語こそがこの映画が描きたかったことなのかも知れない。このような状況にあっても若者は恋をするし、恋心は人を時に勇敢にし、時に卑怯にする。
この映画に描かれる恋は、イスラム世界だということもあり、非常に控えめというか、昔ながらというか。婚前交渉などはもちろんダメだし、結婚するにも兄弟や家族の許しを得てからでないと話を進めることはできない。そんな窮屈な恋がより一層若者たちを燃え上がらせるし、見ている方もハラハラさせられる。昭和の恋愛映画を見ているようだ。
そして、戦争と恋を同時に描いていることによって、その恋愛がより深い意味を持つようになる。
わかりやすく言えば、戦争は死で恋は生だ。彼らの日常は死と隣合わせで、実際に物語の中で何人も死人が出る。それに対して恋というのは生きることそのものだ。そのようにして生と死を非常に近い距離で描くことで、この映画は私たちに彼らが感じていることを伝えようとしているのではないか。
「恋」という世界中の人が共感できる物語を通すことで、彼らと自分の境遇の違い、はるかに隔たった距離を知る。しかし同時に、そのはるかな距離を乗り越えて彼らの心情を想像してしまう。オマールはなぜあのような決断をしたのか、自分が置かれた状況と、パレスチナ人が歩んできた歴史と、自分の恋心と、家族や友達への思いと、それら自分を形作る要素の間で揺れ動きながら、しかし自分で決断するしかない、その人間らしい迷いがオマールを私たちに近づけるのだ。
私たちはニュースを見てもなかなかパレスチナの人たちが置かれた状況を想像できない。どのような思いで子ども時代を過ごし、青春を過ごし、大人になったのか。今何を求め、どうしたいと思っているのか。この映画を観て思うのは、当たり前だけれど彼らも基本的には私たちと変わらないということで、彼らが求めているのは自分らしく生きることではないかということだ。自分らしく生きるために悩み、迷い、時には誤る。それがわかっただけでも、この映画によってパレスチナ問題を身近に感じることができたということで、今世界で起きていることを自分に引きつけることができたということだろう。
問題が複雑であればあるほど、一方的なものの見方をするほうがわかりやすくて、白か黒かという二元論の間で考えがちになってしまうけれど、世の中の物事のほとんどはグレーで、そのグラデーションの中のどこに自分は位置していたいのかを考えるべきなのだ。この映画とパレスチナ問題について言えば、過去のことはいろいろあるけれど、イスラエル人でもパレスチナ人でもなるべく多くの人たちが自分らしく生きられるような世の中になるためにどうすればいいのか、それを考えるべきで、そのためには物理的な距離は離れていても、心理的な距離は近づけるように想像力を働かせることがまず大事なんだと思う。
だから、今度はエルサレムの人たち、特に若者たちが何を考え、どのような恋をして生きているのか、そんなことを活き活きと描いてくれる映画が観たいと思った。
https://youtu.be/fDEgVEddh1s
『オマールの壁』
Omar
2013年/パレスチナ/97分
監督・脚本:ハニ・アブ・アサド
出演:アダム・バクリ、ワリード・ズエイター、リーム・リューバニ
https://eigablog.com/vod/movie/omar-no-kabe/
Kenji
Ishimuraishimura@cinema-today.netAdministratorライター/映画観察者。
2000年から「ヒビコレエイガ」主宰、ライターとしてgreenz.jpなどに執筆中。まとめサイト→https://note.mu/ishimurakenji
映画、アート、書籍などのレビュー記事、インタビュー記事、レポート記事が得意。ソーシネ
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