沖縄の歴史は陵辱の歴史。アメリカ人監督が見たのは沖縄の“傷”ー『沖縄 うりずんの雨』
5月15日は沖縄の本土復帰の日、今年で45周年を迎えた。しかし今も沖縄では米軍基地が問題になり続け、問題は複雑化して、解決の糸口がつかめない。基地問題を扱った映画もいくつもあるけれど、その多くはどちらか一方の立場を主張するばかりで、その主張の根拠についてはわかっても、問題の全体像をつかむのにはあまり向いていない。
基地問題の当事者ではないけれど、沖縄に何度も行ったりして、基地を間近で見たり、本土にいても沖縄の日々のニュースをチェックするような日々を送っている私としては、中立的な視点で、問題の全体像を見せてくれるような映画はないものかと探していた。
そんな中で気になったのが、今日紹介するジャン・ユンカーマン監督の『沖縄 うりずんの雨』。ジャン・ユンカーマンは、与那国島を舞台にした『老人と海』や日本国憲法の平和主義について描いた『映画日本国憲法』を撮ったアメリカ人監督。ずっと日本を題材に映像作品を作ってきた。沖縄という、日本と米国の間で板挟みになっている土地について描くのにこれ以上適した監督はいるだろうか。
戦争は愚かだ
映画は、プロローグの後、第1部「沖縄戦」、第2部「占領」、第3部「陵辱」、第4部「明日へ」と続く。
沖縄が日本国内で唯一地上戦を戦われた場所であることはもちろん多くの人が知っているだろう。ただ、その悲惨さをどれくらい知っているか。この映画を観て驚いたのは、アメリカ軍側の犠牲者の多さで、勝った側に犠牲者が多かったということは、それだけこの戦闘が激戦だったということを物語っている。
この映画が観るべき映画である理由の一つは、様々な当事者に直接インタビューしてその証言を得ているところだが、この沖縄戦でも実際に従軍した元米兵にインタビューをし、その悲惨さを余すところなく伝えている。もちろん元日本兵にもインタビューをしていて、双方の言葉から導き出されるのは、言わずもがなだけれど、戦争なんてやるもんじゃないということだ。沖縄は本土を守るための捨て石にされたとはよくいわれるが、その捨て石を拾うために命を落としたアメリカの若者たちのことを思うと、戦争とはなんと愚かなのだろうと思う。
戦争のために奪われる生活
第2部で注目すべきは、今の基地問題にも通じる土地の強制収容と強制移住の話だろう。戦後沖縄の人たちは収容所に入れられ、戻ってみたら自分たちの土地に米軍の基地ができていて、村ごと移住させられるという事態があちこちで起きていたという。沖縄の人達は、知らない国の知らない場所で生きることを強いられながら、なんとかそこで生活を築いて来たのだ。この歴史を見れば、沖縄の人たちが基地の変換を訴え続けるのは当たり前のことだし、本土復帰とともに基地もなくなるはずと思っていたのを裏切られた彼らが日本という国に不信感を抱き続けるのも仕方がないことだと考えざるをえない。
安全保障に必要だと言うけれど、根本的な話として基地というのは戦争をするための場所だ。戦争の犠牲になった土地に戦争のための場所が置かれつづける、そのことをそこに暮らす人々の心情を想像しながら考えてみれば、それがいかに理不尽なことはわかるはずだ。しかもいくら想像しようとしても私たちには充分に想像しきれない傷を彼らを負っているのではないか。時代が進んで世代が変わってその傷は癒やされてきているとしても。
戦争が終わっても陵辱は続く
しかも、沖縄の人々は陵辱され、傷つけられ続けていることが第3部で明らかにされる。ここで主なテーマとなるのは、女性の陵辱だ。沖縄で起きつづける米軍関係者による暴行事件の数々、その実情は遠く離れた本土にいるとなかなかわからない。この映画には、1995年に3人の米兵が12歳の少女を強姦した事件の犯人の一人が実名で登場し、インタビューを受けているのには驚いた。日本で7年高の服役を終えてアメリカに帰った彼は、「自分は絶対に地獄に落ちる」と言い、当時の少女に許してもらえる方法は何かないだろうかと語る。
もちろんそんなのは後の祭り、後悔先に立たずで、彼は死ぬまで悩み苦しみ続けるしかない。強姦された少女はもっと大きな傷を心に負っているのだから。しかし、なぜこのような重大な犯罪を犯すまでそのことに気づかないのか、そこに構造的な問題の存在を感じる。実際映画の中で、米国の研究者が米兵の女性蔑視の傾向について語り、軍隊の中でも女性兵士に対する性暴力が蔓延している事実を明らかにする。
そして、沖縄の人々を陵辱しているのは米兵だけではない。沖縄の人々は本土の人々にも陵辱されていると感じているのだ。女性カメラマンが、若い頃、黒人の米兵と付き合っていて、当時の白人と黒人の関係が本土(ヤマト)と沖縄の関係に似ていると感じて共感したと話していたのが印象に残った。
いまはその沖縄の人達に対する差別意識が薄れてきているというのは一つの救いに感じる。中央の地方に対する差別意識と言うのは少なからず残っているが、沖縄がことさら差別されていると感じることはあまりないし、地方に対する差別というのもあこがれとどこか表裏一体で、うまく行けば多様性の文脈の中に捉えられそうなものになりつつあるように思う。
基地という傷
その中で顕在的な問題として有り続けるのはやはり基地だ。最後の4部で、基地に反対する人たちと基地を支持する人たち双方が登場し、現役のアメリカ兵にもちらりと話を聞いたりしている。そこで見えてくるのは、基地のすべてが悪いわけではないという当たり前のことだけれど、同時に、現状が沖縄のあるべき姿ではないとも感じる。
私は、日本国民の一人として、沖縄から基地を減らすための努力をし続けなければいけないと思う。普天間基地の辺野古への移設だってまだ止められる。代替地が見つからないことは知っている。しかし、これ以上沖縄を陵辱しつづける訳にはいかない。なんとか沖縄以外の場所に基地を移すか、基地を無くす方法をもっと懸命に考えるべきではないか。『長良川ド根性』でも触れたけれど、一度決まったら止まらない公共工事と同じように、沖縄の人たちを陵辱し続けることはやってはいけないことだと思わずにはいられない。
対立が長期化し、当事者が感情的になり、問題はもつれにもつれ、どんな意見も一方が支持すれば一方が批判する状況になってしまった。この映画もおそらく基地を支持する人たちには「偏向」していると捉えられるだろう。インタビューの対象が恣意的だとか文句をつけようと思えばいくらでもつけることはできる。しかし、当事者が語ったことは真摯に受け止めるべきだ。基地は沖縄の人たちにとって陵辱されてきた歴史そのものなのだ。それを取り除かなければ、彼らの傷が完全にいえることはないのではないか。
2015年/日本/148分
監督:ジャン・ユンカーマン
撮影:加藤孝信、東谷麗奈、チャック・フランス、スティーブン・マッカーシー、ブレット・ワイリー
音楽:小室等
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