©2012 Participant Media No Holdings, LLC

私はここで「ソーシャルシネマ」などと銘打って「ソーシャル」について偉そうに語っているわけですが、「社会を変えたい」とか思っているわけでは決してありません。

ただ、自分が関心がある社会課題についてより多くの人に関心を持ってほしいし、それについて考えることがその人の暮らしをいい方向に変えるきっかけになることが有るのかもしれないと思ってはいるのです。そして、そのための入口として映画っていうのがいいんじゃないかと思っているわけです。

つまり、無関心な人たちに関心を持ってもらうためにどうするかということを考えているとも、偉そうに言えば言えるわけです。

今回取り上げる『NO』は、そんな無関心な人たちを「広告」を通して動かして実際に社会を変えた人たちを描いた作品。特定の社会課題というよりは「社会」そのものについて考えるのに有用な作品となっています。

まあその前に、ガエル・ガルシア・ベルナル主演で、80年代テイストのサスペンスフルなドラマでもあります。

広告に力があった時代

ピノチェト政権下のチリ、ピノチェト大統領の任期延長の是非を問う国民投票に向け、反対派にもキャンペーンを行う機会が与えられた。1日15分を27日間。この「NO」陣営の広告制作を引き受けることになったのが主人公のレネ。しかし、そもそも機会が与えられたこと自体、25年に渡り独裁を行ってきたピノチェトが国際批判をかわすために名目的に行ったに過ぎず、NO陣営を担う人々も自分たちが勝てるとは思っていなかった。

勝つためではなく、与えられた機会に言いたいことを言うために広告を制作しようとする陣営に対して、レネは「広告の手法」を使って勝つことを求め、独自の広告戦略を展開していく。

この映画のキモは、民主主義がそれぞれの主張を聞いて優劣をつけるものから、人気投票に変わったということかもしれない。YES派もNO派も最初はお互いの悪事を暴き、自分たちの正当性を主張するという戦略を描くが、レネは「喜び」をキーワードにして、NOに投票することによって明るい未来が訪れるというイメージをまず描かせようとする。つまり、中身ではなくイメージによって自分たちの味方につけようとする。

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それに対して古いNO派はそれがピノチェトを肯定することにつながるとして拒否しようとする。ピノチェトを否定して我々のほうが正しいということを訴えて勝とうとするわけだ。

しかし、それでは勝てないというのがレネの意見で、それは、「普通」の人たちは変わることを恐れるからだ。その端的な例がレネの家の家政婦カルメンで、カルメンはピノチェト政権でも自分は幸せだったから、変化は求めない。だからYESだという。反対派の人達はピノチェト政権によって実害を受けたり、政治犯が処刑されるなどの事実を知ってそれに反発する人々で、彼らには変化を求める必然性が有るが、それ以外の人にはない。だから、YES派は変わることに寄ってより悪くなる可能性があることを示し、「このままでいいだろ」と人々を説得するのだ。

ここでレネの広告戦略は、今を否定するのではなく、NOに投票することで「今より良くなる」ことをアピールするのだ。それで引きつけておいて、ピノチェト時代のマイナス面を上げ、それを自分たちが改善するとアピールするのだ。

ただ、このような素朴な広告手法は今となっては時代遅れというか、もはやそれが当たり前になってしまって今それをやられても何も動かないと思う。だからなのか、この映画は全編に渡って80年代感を出し、映像もスタンダードサイズだし、色彩やフィルムの粗も昔の映像のように演出されている。

つまり、こういう史実があったこと、広告によって無血革命が実現した過去があることを私達に示すにすぎないものだともいえる。

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「印象操作」による戦い

では、そのことの現在的な意味とは何なのだろうか。

まず思うのは、言論弾圧、人権侵害の問題だ。NO派は長らくピノチェト政権の人権侵害と闘ってきた。政権を批判することはできなかった。25年に渡りそのような状態が続いた社会がどうなってしまうのか、それは過去から学ぶべきことだ。そして、この映画ではその結果、人々は家政婦のカルメンのように無関心になるという姿が描かれている。そしてそれが政権の思惑なのだ。人々を無関心にして自分たちの好きなようにする。

そして、反発する人たちは弾圧するか懐柔して普通の人達の目には触れないようにするから、多くの人が気づかないうちにそれは進行する。声を上げる人がいても、それは権力側の声にかき消され、徐々に聞こえなくなっていくのだ。

そのような状況に置かれようとしていることがわかっているなら、人々は反対の声に耳を傾ける。しかし、そのことを認識しなくなってしまったら、反対の声を否定するようになる。自分たちの今の生活を否定するものだからだ。レネはそのことを知っていたから、自分たちの正当性を主張しようとするNO派の人たちのやり方を否定したのだ。訴えを聞いてもらうためには、まず今の状況を人々にわかってもらわなければいけない。

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そして、レネの「喜び」を使った戦略が優れていたのは、それが人々が感じているが無意識に押し殺している権力に対する「恐怖」を払拭する助けになるからだ。

今でも権力は恐怖によって人をコントロールしようとする。テロに対する恐怖というのも今の生活が破壊される恐怖、変化への恐怖だ。たしかにテロは怖い。変わらないためにはテロを防ごう、テロ組織を潰そうとなる。しかし同じ変化でも暴力によらずにテロのない世界に変化したほうが望ましいのではないか。恐怖ではなくより良い世界への希望によって変化を望むように誘うレネの広告のやり方は現代にも当てはまるのではないか。

そう考えるとこれは、今に通じる「印象操作」による戦いを描いたものなのかもしれない。それぞれが自分たちの印象のほうがより良いことをアピールする戦い。「印象操作」というと悪いことのように聞こえるかもしれないが、広告というのはつまり印象操作で、それは道具でしかない。道具自体に善悪はなく、それをどう使うかの問題でしかない。

いまはその道具がどんどん高度化し、かなり意識しないとわからなくなっている。だからこそなお警戒しないといけないわけだけれど、同時に、そのような戦いから逃れる方法はないものかとも考える。戦いに勝とうとするよりも、和解をしたい。ただそのためには相手の印象操作を見抜かなければならず、結果戦うことになってしまうのかもしれないが。

80年代の素朴な広告による戦いを観ながらそんなことを思った。

『NO』
2012年/チリ=アメリカ=メキシコ/108分
監督:パブロ・ラライン
原作:アントニオ・スカルメタ
脚本:ペドロ・ペイラノ
撮影:セルヒオ・アームストロング
出演:ガエル・ガルシア・ベルナル、アルフレド・カストロ、ルイス・ニェッコ
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©2012 Participant Media No Holdings, LLC 私はここで「ソーシャルシネマ」などと銘打って「ソーシャル」について偉そうに語っているわけですが、「社会を変えたい」とか思っているわけでは決してありません。 ただ、自分が関心がある社会課題についてより多くの人に関心を持ってほしいし、それについて考えることがその人の暮らしをいい方向に変えるきっかけになることが有るのかもしれないと思ってはいるのです。そして、そのための入口として映画っていうのがいいんじゃないかと思っているわけです。 つまり、無関心な人たちに関心を持ってもらうためにどうするかということを考えているとも、偉そうに言えば言えるわけです。 今回取り上げる『NO』は、そんな無関心な人たちを「広告」を通して動かして実際に社会を変えた人たちを描いた作品。特定の社会課題というよりは「社会」そのものについて考えるのに有用な作品となっています。 まあその前に、ガエル・ガルシア・ベルナル主演で、80年代テイストのサスペンスフルなドラマでもあります。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || ).push({});
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